尊厳と死とクライテリオン

おはようございます。フェニックス髙橋です。
と言うことで面接練習の続きですが、今回は「尊厳死」について。

とりあえず法的にはダメなんで、それは置いておきましょう。

面接練習してると「尊厳死なんてあり得ない」という人がいます。医師のお子さんに多いです。もちろん逆に「個人が大事。本人が望むなら尊厳死を認めても良いのでは?」という意見もあります。QOLが大事(個人的には横文字なんて○○食らえと思ってますが)という考えのもと、増えてきている考え方でしょう。
どちらが良いとか悪いとか、そういう話がしたいわけではなく「基準(=クライテリオン)」について考えたいのでございます。
前回述べた通り「正しい基準、お天道様に顔向けできる生き方」を目指して、今回は「尊厳」を肴に考えてみたいと思います。では「尊厳」とは何でしょうか。

色々調べたところエラい酷さだったので、この言葉についてはどこかでまた扱いたいと思うのですが、ここは西部流で言葉の成り立ちから見てみましょう。
尊→酒樽を両手で捧げる事が漢字の成り立ちで、神様に捧げ物をしている様ですから、とても尊いものを敬っているイメージですかね。
厳→口が二つの形で、きびしくつじつまを合わせる事を意味していて、そこから厳しいという意味が生まれたようです。
自分は尊「厳」である事に意味を感じています。似たような単語で「尊重」もありますが、似て非なるものである事は漢字の成り立ちから明らかな訳です(尊重=尊厳となっている記事がネット上に溢れてて、絶望しかけたのは別の話です)。

尊「重」は、重いかどうかですから個人で判断ができるわけです。軽い重いは主観ですよね。
それに対して尊「厳」は口を合わせる訳ですから、社会的な合意がなければなりません。つまり他の人も認めなければいけないわけです。
つまり、最初の尊厳死が有りか無しかという話は、尊「厳」には一切触れていない議論な訳ですね。個人を尊「重」するかしないかということを言っているに過ぎない。
尊「厳」であるからには、その人だけでなく周囲の人間(=社会)の合意が必要なわけです。
自分が死にたいと思っても、周りの人間が良しとしなければ、そこに尊「厳」はない。まぁ当たり前の話ですよね。
更に本来なら社会には歴史も含まれるので・・・この話も長くなりそうなのでまたの機会に。

まとめると、現代は「個人」にばかり注目していて、その周りの「社会」を忘れ去っているために、正しい基準が見つからないと言うことです。

次回はもう少し「社会」に注目して「基準」を考えてみたいと思います。
ではまた次回もお付き合いください。

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