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私と娘の母乳育児~お母さんバトン大森実希さん~

赤ちゃんの母乳吸啜メカニズムに倣う乳房ケア「BSケア®」に出会ってくれたお母さんたちの、出産と母乳育児の物語。お母さんの言葉で、綴っていただきます。

今回ご紹介するのは 大森実希さんです。

はじめての出産と挫折感

私が一人娘を出産したのは今から11年前。
11年も前なのに、昨日の出来事のように思い出すことが出来ます。

私にとってお産は想像以上に壮絶なものであったため、生きててよかった、、それに尽きるお産でした。

3日に及ぶ微弱陣痛で精魂尽き果て、陣痛促進剤で本陣痛が来た頃には意識朦朧。赤ちゃんの心拍が下がったということで緊急帝王切開になりました。蓋(お腹)を開けてみれば、娘の首には短い臍帯が2周回っていたらしく、ゆっくりじっくり降りてこようとしたけれど、お互いそれに耐えきれなかったということでしょう。

お産を迎えるにあたって気になる本を読み漁り膨大な知識の詰め込みを行いましたので、私の頭は「この選択がいい」「あの選択はやめたほうがいい」などと溢れんばかりの情報を持っていました。

全ては望み通りの完璧なお産をするために、、、。
緊急帝王切開となり、私史上最大の挫折感を味わっていましたが、
終わってしまったこととこの胸に抱いた愛しい我が子を両天秤にかけたところで打ち勝つ火種さえわからないまま、焼失していったと思っていました、、、。思っていました、、。

が傷ついた心に向き合わせてくれたのはおっぱいでした。

憧れの母乳育児と待ち受ける壁

私が理想のお産をするために選んだのは、食事にとことんこだわった院内産院がある病院。助産師主導でのフリースタイル分娩もできるが、いざというときは医師の助けを得られ、直後から母子同室(しかも和室)。

自宅からも私の実家からも1時間以上かかるこの病院を選んだのは、ここならフリースタイルで産みたい私と病院で産んでほしい夫の希望、両方を叶えてくれると思ったからでしたが、私も含め、母乳に関しては全くの不勉強でした。

出産を迎える女性なら誰しも一度は憧れるだろう母乳育児。
私も例にもれず母乳で育てたいと思っていました。
はたして自分のおっぱいから母乳が出てくるのか?不安しかありませんでしたが、ここでは私の妊娠中の詰め込み学習が役に立ち「赤ちゃんはお弁当と水筒をもって生まれてくる」というどこかの先生の名言を信じていました。

病院での乳房ケアは毎日朝から「このくらい出ますね」と乳首をつまんでくれるだけ。娘は頑張って吸ってくれるのに、体重が増えない。授乳の前後に体重を量られる恐怖。

「赤ちゃんが疲れるから片方10分くらいでいいよ」と言われても、それを無視して娘が吸ってくれるだけ吸ってもらっていましたが、このままでは赤ちゃんがあぶないと判断したのか、懇々と説得された挙句、しぶしぶミルクを足すことを受け入れたのでした。

体重が増えた娘と無事、退院。
退院こそしましたが、一週間後に病院に行く約束を取り付けられ、20年ぶりに喘息の発作が出るほど、私の心は緊迫していたようでした。

待ち望んだ言葉、心に秘めた思い

退院したら絶対に行くと決めていた場所がありました。乳房ケアを受けに、知人の紹介で妊娠中から知っていたBSケアの開発者、寺田先生のところへ。

念願叶い、退院当日に予約を取り、数日のうちに会うことのできた寺田先生は意外な、そして私が最も望んでいた一言をかけてくれました。「いいおっぱいよ~。」初めてもらった労いの言葉、、、。その時に何を話したのかは覚えていません。

ただ、覚えているのは「おっぱいは出たくて出たくてたまらんやったとよ」という言葉通り、自分のおっぱいから驚くほどの母乳が飛び出てきたということ。いろんな感情がいりまじり、涙を流していたということ。

どうやらおっぱいは私の感情と共にあったらしいのです。
一週間後の検診も母乳外来で見てもらっていることを伝えるとあっさり受け入れてくれました。今思うと、こだわりすぎて周りが見えなくなった私を心配してくれていたのでしょう。それはそれで一つの愛のカタチでした。

お産の事を振り返ると、帝王切開になったことは「しかたのないこと」と思っていました。認めるのが怖くて誰にも相談することができなかった秘密の想い。どうして私はお腹を切ることになったのか、もしかしたらそれ以外の選択があったのではないか。どこかで私は間違ったのだろうか。病院を変えなかったらこんなに色んな人に心配をかけることもなかったのだろうか。思い描いた通りではなかったが、何はともあれ元気に生まれてきてくれた娘。

それ以上を望んでは罰があたるような気持ちでいたので、その秘密は誰かに打ち明けることもできず、どんどん上書きされていく娘との日々を楽しんでいました。

娘を丸ごと愛するということは、私のお産を認めるということ

心のどこかでは人生最大の大仕事を失敗してしまったような、そんな挫折感の中にいたのでしょう。今ならよくわかる。あの時の私は満足のいくお産をすることをステータスと思っていました。(当時の私なら「そんなことはない」と否定したでしょう。)

昔から女たちがやってきたお産。医療介入をできる限りしないお産を経験することで、私自身を承認しよう、承認してもらおうと必死だったのだと思います。そんなことで自分を満たす必要は全くないのに、「いいお産」をしっかりと履き違えていました。

自分の理想が叶わなかったことに深く傷ついた私は、例えるなら、医療介入のないフリースタイルでの出産や自宅出産を経験したという話が聞こえてこようものなら、数キロ先からキャッチして耳をふさいで待ち、むき身ではやっぱり心配だから、何重にも毛布でぐるぐる巻きにしてどこから何が飛んできても大丈夫!というくらいに身構えていました。大変な緊張状態です。

今になって思うと、これはおっぱいが詰まってもしょうがありません。ちょくちょく乳腺炎になっては、寺田先生の予約をとりBSケアをしてもらっていました。そんなある日、私はやっと、あの時を肯定する出来事に出会います。その出会いとは、寺田先生が講師を務められるという「いのちの授業」に参加をしたことでした。「いのちの授業」に参加してようやくわかったこと。あの時、急がずゆっくり時間をかけて産まれようとしてきた娘。それは最善だったのだということ。いいも悪いも成功も失敗もない。お産は一つとして同じではなく、どんなお産もいいお産なのだということ。ここに在る命、それが全てだということ。

かけがえのない宝物、娘を丸ごと愛するということは、娘の生まれ方を受け入れるということで、私のお産を認めるということでした。

母乳育児は私を母にしてくれた

かけがえのない宝物、娘を丸ごと受け入れるということ。

それは娘の誕生を受け入れるということで、私のお産を認めるということでした。結局、私は退院してから娘に一度もミルクを与えることはありませんでした。必要なかったのです。

どんな時も娘と私の間にはおっぱいがあり、嬉しい時も悲しい時も、怒った時も眠たい時も病気のときも楽しい時も、ずっとずっとおっぱいでした。おっぱいにはなんとなく、性的なイメージを持っていましたが、いつしか両乳出して飲ませることにも抵抗を感じなくなっており、おっぱいは女性の象徴から食糧、兼、精神安定剤へと昇格を遂げていました。

ハイハイができるようになった頃、実家の長い廊下の真ん中に娘を置き、片方におもちゃを持ったばぁば、もう片方に乳を出した母。お互いわき目もふらずに娘を誘惑し、どっちに来るかで勝負して、悩む娘に大笑いしたこともありました。一歳半で保育園に通い始めた娘が覚えた言葉は「まずパイパイ」。

早く帰ってゆっくりしたい私と、まずはやっと会えたおっぱいとの再会を味わいたい娘。毎日のチャイルドシートに乗るか乗らないかの攻防の果てに必ず根負けし、車の中で傘をさして、前面から見えないようにしておっぱいを飲ませていました。電車の中でしつこく求める娘にどうしようもなくなって、あろうことか下からワンピースの中に入れて飲ませたこともありました。

そんなこんなでようやく決心がつき、1回の挫折と2回の卒業式を経て、3歳半で私たちの母乳育児は幕を閉じました。戻りたくても戻れない、
あの愛しいひと時を忘れることはありません。

母乳育児は私を母にしてくれました。

やるべきと思うことを全て脇に置いて、ひたすらに娘を見つめ、抱き留め、髪をなでる。時にいたずらをしたり反対側の乳首をチネチネしたり、冬に冷えた手で触られてドキッとしたり、着替えているときもお風呂に入るときも隙あらばくわえてきたり、あんなに求められ、愛されたことは他にない、無条件の愛の深さを小さな体から全身全霊で教えてもらいました。

子育て、夫婦、家族

あんなに求められ、愛されたことは他にない、無条件の愛の深さを小さな体から全身全霊で教えてもらいました。

娘は今11歳。9歳ごろまではまだまだ私との関係が密でしたが、10歳を過ぎたころから急激に大人に近づいてきたのを感じるようになりました。順調に成長し、父親に暴言を吐くかと思えば一緒に好きなアニメの話で盛り上がっていたりもする。

学校では喧嘩したり飲み込んだり自分の正義が社会に通らない憤りを感じたりもしている様子。行きたくないときは休み、罪悪感を持たずにあっさり羽を伸ばす。風通しがいい娘が羨ましくもあり、腹立たしくもある。娘を通して私の40年に向き合い、理解しなおす日々を送っています。

今回このような機会を頂き、半年に渡り私と娘の母乳育児を振り返ることができました。

こうやって振り返ってみると、ほんとにあの時の私は必死でした。必死すぎて自分自身の事もよく見えていなかったな~と反省です。

寺田先生から呪文の様に「3年は(夫と別れずに)がんばれ」と言われていた言葉を励みになんとか毎日をやり過ごしていたあの時、、、別れたい、って言ったことはないですよ、念のため(笑)

「わかってくれない残念な人」というレッテルを貼った私は夫にどう復讐するかばかりを考えていました。分かり合えないないだけで、復讐という発想がすでにおかしいことにも気づかずに。夫はよく耐えてくれました(笑)

色んな出会いや助けがあり、随分私も改心したので、ここ数年はだいぶ大事にできるようになってきました。あの時は自分は大事にしないくせに、大事にされて当たり前と思っていましたよ!テヘペロ

私が思いっきり納得のいくように親になってこれたのは、紛れもなく夫のお陰。産後手のひらを返したかのように自分に愛情を向けない妻、仕事をして疲れて帰ってきても手伝えないことに苛立たれ、復讐まで企てられていることも知らずに毎日働く。妻を介して会う人は全て妻に地盤を固められた人ばかり。

自分なりに可愛がりたいのにこれは食べれんだの、テレビは見せないで絵本を読めだの、、、そういえばあの頃の夫はずっとつまらなそうだった!そりゃそうだ!妻に大いなる気づきを与えてくれた夫に心からの愛と感謝と祝福を。お読みいただいた皆様、機会を与えていただいたNPO法人BSケアの皆々様、ありがとうございました。

2019年11月 執筆

広報担当のコメント

BSケアを受けたお母さんの、出産と母乳育児の物語でした。
大森実希さん、濃い体験を共有いただきありがとうございました。

どんな出産もどんな育児も、それはお母さんと赤ちゃん2人の特別な物語。
うまくいくことも、いかないことも、いつかは2人の大切な思い出になります。

でも、もし悩むときには、適切な支援を受けられるかどうかで、その後の選択が変わることがあります。今、母乳育児がうまくいっているお母さんも、難しさを感じているお母さんも、お母さんと赤ちゃん2人にとって良い選択ができるよう、赤ちゃんの母乳吸啜メカニズムに倣う乳房ケア「BSケア®」を行う助産師が寄り添えたら嬉しいです。

NPO法人BSケアは、育児の始まりが”幸せな思い”であることを願い、母乳育児支援者の育成と、BSケア®をお母さんに届ける活動をしています。

赤ちゃんの母乳吸啜に倣う乳房ケア「BSケア®」を学ぶ信頼できる助産師「BSケアプレゼンター®」が全国に100人以上います。困ったときには、お気軽に相談してみてくださいね。

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