いつか俺たちなりのインターネット老人会をするまでは、
10年前のインターネット、覚えてる?
ブログ全盛期。
twitterが日本語にやっと対応し始めたころ。
mixiはまだ普通に使われてた。
なんとLINEはまだ始まっていない。
なんというかコミュニケーションツールとしての確固たるサービスがニョキニョキと芽を出したころなのかな。
だけども旧来のメールとかチャットとか掲示板とかもまだまだ主流で、コミュニケーションの相手が本当に人間なのか疑わしい、無機質で、海のものとも山のものとも知れない情報体がただの文字やボロボロの画質でそこにいただけのインターネットのころ。
そうそう。あなたは77777番目の訪問者です。
そのころのインターネットでは、よく揶揄される「非実在」という概念がそっくりぴったりの存在がウヨウヨしていた。
レンタルチャットの相手はまじでその合計1000文字程度のやり取りそれきりで終了。
美少女の集いは中年男性の集い。
インストールだなんて名前の小説が賞を取ったりもしてたね。
いま思えばなんて刹那的なものだったんだろう。
ともかく。
それがなんだか救いのようでもあり、
本当にそれが救いになるには、非実在は絶望的な概念でもあった。
ただの思い出話なんですが、その頃のチャットって落ちたあとものすごくむなしかった。
もう二度とつながらない人と本当か嘘かわからない話をして終わる。
どんなに盛り上がっても実在する人間関係がない。
だからSNSが始まって非実在のコミュニケーションに実在性が帯びられ始めたとき、私や私のような人種は踊り狂った。(ソーシャル的な意味で)
嬉しかったなぁ。
ブログのコメくれたゲストさんよりも、確実に存在している個人とのつながりが。
非公式RT懐かしいね。
昔はファボだったよね?
特別なリストに入れられて舞い上がったっけ。
ネットのコミュニケーションで海とも山ともしれないものに実像を感じた。
感じた実像にはまだ見ぬ相手との確かなつながりがある気がした。
だから、荒れたよね。
あんなに仲良かった相互さんの更新が止まったときはさ。
1週間。気になりつつも何もしない。
2週間。DM。
3週間目にやっと後悔した。
そしてアカウントが消えた日には泣いた。
結局はSNSもチャットと変わらないんだと、かなり時間が経ってから気づいた。
そうなんですよね。そうだったんです。
割と痛い経験だったせいか、これがきっかけとなって、今度は自分のtwitterアカウントを消すときに、どうしてもつながりを消したくない人にだけDMをして、リアルの連絡先を教えてもらうという勇気を出したことがある。
自分の連絡先も生身のものを教えるわけだからあれには緊張した。
もちろん情報提供に答えてくれた側もすごいよね。
はじめて電話したときの緊張感を今も思い出せるわ・・・
まぁ、それが嫁なんですが。現在。
それはともかく、めちゃくちゃ時間が流れて現在、ちょっとそのことを忘れていたなぁと思う。
もう昔のインターネットは面影がなく、非実在じゃなくてほぼほぼ実在よりでむしろ現実の一部すぎるインターネットではあるけれど。
twitterから、Instagramから、tiktokから、youtubeから、
更新が途絶え、アカウントが消えれば、
どんなに親しいと思っていてもそれまでなのだ。
とは言っても、昔のようなリアルの連絡先を交換しよう!というのは、逆に現在だと危険な考え方なような気もするので、いまはそんなことしない。
ただ大事にするにしろ、距離を取るにしろ、
私たちはいつ目の前から消えるかもしれない人とコミュニケーションを取っているんだと、
いつも思っていなきゃいけないなと、ふと思いました。
特別なオチもない今日思ったことです。
みんな、現実でもインターネットでも勝手に死なないでくれな。
生きて、ネットでも息しててくれれば、それだけでかまわないから。
俺からの俺による俺のためのお願いです。
スクロールお疲れ!
最後まで頑張ったあなたは本当にえらいので、あなたを称え、今後ときおり「うんこ」とつぶやくようにしますので必ずファボをお願いします。
”あのときの「うんこ」になぜファボしなかったんだろう・・・”って後悔する日が来ないように、必ず、必ずファボをお願いいたします。
今後もし私のアカウントが消えたら、「うんこ」に誰からもリアクションされなかったことを悲観してだと思ってください。(そのツイートの状況を想像するだけで動悸がするゼェ・・・)
そう思えば、悲しくないでしょ。
みんなの「うんこ」もちゃんとファボするからね!!^^
よろしく頼むぜ。
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