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私が作った魔法すべて報われる御呪い

 表題は、諭吉佳作/menさんの曲「別室で繭を割った」の歌詞の一部です。


 自分の話をする。

 


 そういえば私は、極端な想定を持ち出してしまうことがある。

 

 たとえば新入社員の頃に任された備品の発注をする仕事。

 週に一度同じ曜日に納品があるとして、大体一週間で消費される量は平均化されているから、発注の数を決めるにはその平均の数を信じて、若干余裕を持った数量で発注すればよい。

 にもかかわらず、仕事を始めたころの私は、"来週も今週までと同じことが起きると何故判断できる?"と発注数量の根拠にまったく信頼が置けず、備品ごとにあらゆる想定を考える努力をしてしまって、通常10分で終わる発注に1時間かけたりしていた。(頑張って早めようとしてその時間だった)

 我ながら強迫観念の強いことである。


 最近ふと、そういう強迫観念的な考え方をしてしまう原因は、「ものごとが起きることを"儀式"によるものだと捉えているせい」ではないか、と思うようになった。(宗教とかの話ではない)

 たとえば、算数の授業で答えが「2」になる数式を求めるとする。

 普通は迷わず1+1などを持ってくるだろうけど、それは1に1を加えれば2になることが自明とされているからである。

 しかし私の場合、まずは、これまでの自分の経験の中の「2が正答となる数式を解いたときの状況やプロセス」「算数の授業で正答をこたえられた時の状況やプロセス」などの、過去の類似の状況をすべて思い浮かべる。

「〇〇先生が相手のときはオドオドとしない方が正答になることが多い」

「整数を使う指定はないが小数点や分数は使わない方がいい」

「教科書は万が一に備えて開いておく」

 そんな風に過去に成功事例の結果をもたらしたときの、共通する現象や状況を自分なりに統計して、正しい”儀式”をチョイスする。

 それらが「すべて正しく行使されれば少なくとも間違うことはない」という考え方なのだ。

 もし間違ったときは、選んだ”儀式”を間違えたか、行使の方法を間違えたかどちらかということになる。

 

 まあ意味わからないですよね。


 もちろんその意味わからなさについて、頭では理解している。

 例えば、この文章の作成が自分のキーボードの任意の連打によるものだってことは当たり前に理解はしている。

 でもそれと同時に、この記事を完成させたいと自分が望んだとき、文章のタイピングという行為だけでなく、たとえばコーヒーを飲んでいること、何回も校正していること、深夜から早朝にかけて作成をしていること、ずっと同じ曲を聴きながら作業していることなど、そういう様々ななんとなく「こういう状況で作り上げていった方がいいんじゃないか」と思うすべてが寄与しあって、自分にとって仕上げたかった記事を発生させてくれているんじゃないかとも感じている。

 一見関係ないことでも”儀式”の中に含まれていることもあるんじゃないかと疑っているのだ。


 ということなので、前段の仕事を始めたばかりのころ備品発注がうまくいかなかったのは、おそらく正しい”儀式”を選べなかったせいだと当時は真剣に疑っていた。「あらゆる想定を真剣に検証すべき」という”儀式”を選んでしまったことが間違っていて、解決のためにはもっと正しいおまじないが必要だと思っていたのだ。



 さて、なぜこんなわかりにくい、私にとっての”儀式”の説明を長々としたかというと、この考え方には「一見まったく関係ないことであっても儀式としてそれを行使することで(なんらかの超常的な力をもってして)結果を変えられるかもしれない」という側面があるからだ。

 私はたぶん、その部分を非常に重要視している。


 たとえば電車。

 乗る車両の位置ひとつで不幸になることもありますよね。ずっと立ちっぱなしだったり、不審者がいたりするかもしれない。

 けれども「なんとなく嫌な気がしたら待ってる車両位置を変える」ということで「嫌な思いをしないで電車に乗っていられる」という儀式と結果の因果関係があるとすれば、車両を移動することになんら直接的な因果関係がなかろうが、私は未来を変えるために車両を変えることを真剣に検討しますよね。たとえ満員電車で座席に座っていたとしても。

 車両を変えた結果なにも起きなかったとしても、儀式が正しく選択され、不幸を免れた、という感覚が残れば、前向きに生きていける気がしません?

 逆に、車両を変えた結果なにか嫌なことが起きたとすれば、足りなかった・不必要だった儀式のことを考える。私は間違えたのだ、と自罰的になるけれど、もっと正しい儀式さえ守れば、今度は幸せになれるかもしれない。


 こんな風に心の奥底で、まじないをかけて、毎日幸せになったり不幸になったりしているわけだ。


 なんでこんなことになってるのか。それはたぶん自分自身を大変尊大に捉えているからだと思う。

 自分の力ではどうしようもないことを引き寄せたり、自分のせいにしたりしたりして、自分という人間があらゆる事象に干渉できると心のどこかで信じている。

 自分が関与できないことなんてないと思いたいんだろうな。



 と、いうことを聞いていてふと思った、諭吉佳作/menさんの「別室で繭を割った」。


 よい曲です。




 私が作った魔法すべて報われる御呪い。


 

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