テルコ伯母の記憶|世にも不思議なお話
3人いる父方の伯母(父は末っ子だった)のうち、ひとりは実家で同居していた。
テルコ伯母、なのだが、小学生の頃高熱を患い、腰の神経をやられて、腰から下が上手く動かせなくなったそうだ。
立って歩く以外は器用な人だった。洋裁も和裁もするし、お生花の免状を持っていて、料理も上手だった。
私が今我流で花を活けられるのは、この伯母のお陰だ。
小学生の頃は、夏と冬の家族旅行、始業式と終業式に、毎回お手製のセーラーカラーなどのワンピースを縫ってくれた。
父母はふたりとも仕事に忙しかったので、幼い頃からテルコ伯母が私の面倒を見てくれていた。ちょうどお人形遊びのように、何くれとなく熱心に世話してくれたようだ。
苺はフォークに差して口に入れ(写真がある)、お蜜柑は全部剥いて筋まで取ってくれていた。
(これは後日、幼稚園に進んだとき、ひとりで蜜柑が食べられないのでやめてくれと苦情を入れられたそうだ)
テルコ伯母が40才頃までは、障がい者が外に出る社会では無かったのでずっと家で出来ることだけしていたが、40才以降は、神戸市がバリアフリー化を進めるために障がい者の意見を採り入れることが増え、その推進運動で出張ったり、また戦争体験を小学校でスピーチするなど、急に出掛ける機会が多くなった。【CITY LIGHT】という障がい者の法人作業所も立ち上げた。
家ではおっとりぼんやりしているのに、外に出るとひとが変わるのが、
見ていて不思議だった。
テルコ伯母は未婚のため、甥や姪すべてをわが子のように慈しんでいた。
ある種聖母マリア様のような存在だった。
そして私にとっては、「第二の母」だった。
高校生から、テルコ伯母と同じ寝室で寝ていたが、夜遅くまで止め処なく話す私の由無し事や悩みごとなどを最後まで
「――うん、―――うん」
と聴いてくれ、
「〇〇ちゃんの決めたことなら、
それで大丈夫だよ」
とぜんぶ全部肯定してくれた。
(・・・涙休憩・・・)
テルコ伯母が脳出血のため突然入院して、死線を彷徨う事になった。
私はその頃フルタイムで働いており、
仕事が終わったらすぐ病院に駆けつけ、完全看護ではあるが泊まって看病していた。
―――
だんだん身体が衰弱していくのが分かったが、ある日急に体調が回復し、ものも言えなかったのに会話できる状態になった。
そのとき私に言ったのは、
「今まで、本当にみんなに良くしてもらった。
〇〇ちゃんにもずっと感謝してるよ、
有難う」
だった。
亡くなる前にはよくこういうことがあるらしい。ダイイング・メッセージのための、神さまがくださるチャンスの時間なのだろう。
( ここから話はまるきり様相が変わる。
何と言っても、このnoteは
Mr.ランジェリー様にあてたものだから
だ。
この話でとりあえず蔵出しが終わるの
で、頑張って仕上げたい。 )
テルコ伯母の危篤のときには、それぞれの家から親戚一同全員病院へ駆けつけて、テルコ伯母の様子を見守った。
テルコ伯母はもう瞼を閉じていて、頬も顔の骨にぴったりとフィットし、血色なく青褪めていた。
バイタルサインを測定する機械の音が病室に鳴り響き、親類縁者たちは(12、3人ほど居ただろうか)
気忙しくひそひそ話していた。
―――
仕事などで、なかなか病院まで来られなかった人もほぼ全員集まった頃。
不思議なことに、バイタルサインに変化が訪れ、血圧や心拍数などが
次第に低下していった。
皆がバイタルサインの機械とテルコ伯母の顔を交互に見遣った。
テニスの大会と同じように。
果たして、バイタルサインは停止した。
「―――テルコ伯母ちゃん!!」
と、10人以上が一斉にベッドに身体をもたせかけた。
そのとき・・・
(実話です)
テルコ伯母のベッドの上半身が、
ガガガガガ・・・・
と上がった。
(い き か え っ た? ! ? ! ?)
こんなコントのような危篤の瞬間は
あるのだろうか?!
と皆が目を皿のようにしたがすぐ分かった。
―――私が伯母のほうへもたれたとき、
ベッドの昇降ボタンを押してしまったのだった。
はい、noter様、どうぞ!
「何 で や ね ん🙅」
Mr.ランジェリー様、差し当たり
このnoteでおしまいです。
お納め下さいませ。
✢✢✢
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