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アライさん界隈と、アニマルガールとして生きた“わたし”の物語

“アライさん界隈”をご存知だろうか。

ねとらぼにて特集記事が組まれたのは2019年。その時点では、“アライさん”なるアカウントは約2000ほど誕生していたとされる。

“アライさん”とはアニメ「けものフレンズ」に登場する、アライグマをモチーフにしたキャラクターである。“アライさん”を名乗るアカウント群はその口調を真似たなりきりアカウントであるが、その本質は決してなりきりアカウントのそれとは異なる。

“アライさん”の内訳は多岐に渡る。何らかの困難を抱えている者、精神疾患に苦しむ者、専門情報に特化した者、絵や作曲など自己表現に勤しむ者、それ以外にも、緩やかに繋がれるコミュニティを求めて“毛皮を被る”者。

特に、急増期のアライさん達は、“自分語り”によって己の困難な境遇を吐露し、社会の暗部をインパクトのある形でネット上に放流した。また、共感・交流によって繋がり、ささやかな安穏を得ていた。もちろん、コミュニティの発生にはトラブルがつきものであり、日常的にオフ会や問題行動をめぐる学級会が開かれてもいた。

当時彼らは繊細であり、コミュニティの崩壊を恐れていた。外部に暴きたてられることをよしとしなかった。行く度も注意喚起をし、やさしさで溢れた安息の地を守ることに細心の注意を払っていた。

わたしは界隈成立期から存在していた“フレンズ”の1匹であった。わたしが見たアライさん界隈の物語と、アライさん界隈によって救われ、成長したわたしの物語。その2つをこのnoteの軸として語りたいと思う。

孤独



当時のわたしは閉ざされた世界にいた。物理的にではなく、精神的にである。人に自分の想いを話すことが出来ない。本音を口にしようとすると、涙が出る。体が硬直する。わたしは常に作られた人格の面を被り、生活していた。リアルでもインターネットでも、である。
人の目に過剰に怯え、おかしな事を言っていないか、間違った行いをしているのではないかと何時間も何日も反芻を繰り返し、過剰なストレスから抑うつ状態が常であった。そしてそういう自分が、ふつうではないことに気がついていた。一方で、いくらインターネットで精神疾患を検索しても自分には当てはまらず、自分の問題を解決できるのは自分だけだと己を責め、助けを求めることができなかった。

そんな中すがるような思いで飛びついたのがアライさん界隈であった。
自分は異常だ。誰にも理解されない。こんな自分でも受け入れてくれるコミュニティがほしい。自分の居場所は、ここだ。そう思って飛び込んだ。最初に見つけたのは、セックス依存性のアライさんだったと思う。私はその異常性と切実な絶望の吐露にいたく共感し、自分の病識すら曖昧なままにアカウントを作成した。

世界の果て



わたしには幼い頃から破滅願望があった。無茶苦茶になりたかった。精神を崩壊させて、この世ならざるものを垣間見たかった。“人は生死をさまよった時にこそ最も美しい本質が現れる”と絶対的に信じていた。エログロ作品を貪り漁った。異常とされる行為や言動に憧れがあった。しかしながらそういった衝動を表現する術がなく、“いい子ちゃん”に見られている自分、無意識にそう見せてしまう自分、を何より嫌った。
アライさん界隈はわたしが心から求めた“世界の果て”であった。ギャンブル依存のアライさん。借金まみれのアライさん。性被害に遭ったアライさん。ただただ「死にたい」とだけ吐き散らし続けるアライさん。実際に実行に移している様子を実況するアライさん。
一方で、わたしにはその時点で診断名は降りていなかった。また、どの診断基準にも当てはまらないため診断は下りないと勝手に判断していた。投薬治療に対する抵抗もあった。わたしは確かに生きづらさを抱えていたが、アイデンティティはなかった。当初は、コミュニティに馴染むことができなかった。ただうろたえ、苦しいと吐き出し続ける日々が続いた。

初めてのつながりと界隈の瓦解



コミュニティに受け入れられたと感じたのは、わたしが初めてイラストを投稿した時だった。大勢のアライさんがわたしの作品を見て、たくさんのリプライがついた。フォロワーが急増した。わたしは“イラストを描くフレンズ”として一個の立ち位置を獲得した。そこから少しづつ変わり始めた。わたしを気にかけるアライさんが存在し始め、挨拶を交わしあったり、おぼつかないながらも交流を始めた。わたしは界隈を、自分の想いを吐き出す練習の場とした。アライさん界隈は、どこにも居場所のなかったわたしの最初の拠り所になった。

アライさん界隈もまた、移り変わっていった。アライさん達がおおむね自分語りを終え、雑多な交流の場と変化していった。最初期のアライさんが界隈を見限り、「面白くなくなった」「リアルに自分の居場所をつくる」等々の理由で多くのアライさんが卒業していった。界隈に失望し、肩身の狭い思いをするフレンズも現れていった。そんな中でわたしはとあるフレンズと出会った。

共依存



わたしはそのフレンズに「落ち込む時間も、時には必要なのだ!」と励ました。そのフレンズはわたしにDMを送ってきた。私たちは「ぎゅう、むぎゅう」と幾度となく抱きしめあった。そのやりとりは際限なく続いた。お互いの「移住先」のアカウントを教え、わたしたちは界隈外での交流を続けることにした。そんな中、フレンズは「あなたのことが好きだ」と告白してきた。わたしは「恋愛のことはわからないが、あなたとの関係は特別だと思っている」と返した。フレンズは頻繁にメッセージを送ってきた。夜更けまで……

わたしはフレンズとの交流への依存により、睡眠不足と体調の悪化を起こした。フレンズは傷ついているから。わたしには断る理由はないから。そうしてやりとりを続けていた。わたしは気付かぬうちに自主性を失い、新たな仮面をそのフレンズのために被り始めたのである。完璧な依存先としての仮面を。そうして私の心は疲弊し、「こんなことをしている場合ではない」という思いとの間で、引きちぎれていった。最終的に、突然シャットアウトする形でそのフレンズをブロックし、アライさん界隈のアカウントも削除した。わたしは再びリアルの孤独へと帰って行った。しばらくは寂しさに耐え忍ぶ日々が続いた。

再起動



二度目の受験に失敗したあと、わたしは再びアライさんアカウントを作成した。今度は共依存に細心の注意を払って。もう一度自分の気持ちを吐き出す練習を始めた。タイプする手が止まらなかった。わたしは当時完全なスマホ依存症だった。自分の考えを全て文章化することに命を費やしていたのである。
二度目に訪れた界隈は、その形を保ちつつ、有り様は変化していた。強固な連帯意識のようなものが解け、ほのぼの殺伐とした交流空間となっていた。わたしは様々なフレンズと近づいたり離れたりしながら、なんとなく無意識的に自己肯定感を養っていった。この頃には少しづつ、「フォロワーも少ないし発言力もないけれど、わたしはこれでいいんだ」という感覚が形作られていた。ツイートする度に一定のいいねがつき、継続的にわたしを観測し続け、エールを送ってくれるフレンズの存在にも気づいたからである。

やがて、わたしは「ここは、素直に自分の気持ちを吐き出せる場所だ」と心から理解し、アライさん界隈を活用することができるようになっていった。かつての病的な怯えから解き放たれ、自然なコミュニケーションというものを身に付け始めたのだ。同時に社会的な「本音と建前」というものが形作られた。フォーマルな場で出す自分と、プライベートな場でさらけ出す自分。アライさん界隈は、わたしのプライベートな部分の一部として落ち着いた。もはやわたしはアライさん界隈に限らず、リアルでもネットでもコミュニティの中に溶け込むことができるようになり始めたのである。

現在



今のアライさん界隈は、ほとんど他のオタクコミュニティと見分けがつかなくなっている。少し心身障害者が多くて、病みツイートが日常的に流れてくる以外は。わたしは積極的にオフ会に参加し、また自ら開くなどして、フレンズと密な交流をするようになった。お互いの事情と悩みを知りつつ、穏やかでオープンな関係を築ける、そんな“当たり前の友情”を培うようになった。
現在、アライさん界隈で被る毛皮は、わたしのペルソナの一つとなった。プライベートなわたしのなかでも、ほんの少しアングラなわたしだ。そこでより創造的な自分を培うための訓練も始めている。スペースを開いて行う赤裸々な自己表現である。そこでも一定のリスナーがつき、わたしはいつも見守られているという安心感を得られている。

おわりに



居場所をつくることと、自分らしさを手に入れることは、簡単なようで難しい。アライさん界隈は、“毛皮を被り”、自分自身を語る、という一連の行動によって、それを少しだけやりやすくしてくれる。ゆるやかな連帯による“見守られ感”と、アングラな界隈特有の“どんな闇も受け入れる”要素が揃っている。
自己表現がうまくできる人種は限られている。アライさんになることで自己表現のフォーマットを提供され、わたしたちは素直な気持ちを吐露することができるのである。
わたしはこのnoteによってわたしの在り方を形作ってくれたアライさん界隈、およびフレンズたちに感謝を表明すると共に、アライさん達への誤解や偏見を解きたい。また、去っていったアライさんへも、各々の場所で居場所をつくれるように、ささやかな祈りを捧げたい。
ここまで読んでくれてありがとうございます。アライさん界隈を愛するけものの1匹として、感謝を申し上げます。この拙い文章の中から、何かしらの想いを感じ取って頂ければ幸いです。

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