「解決不可能」が証明不可で止められない
私は大きな問題に取り組むのが好きだ。
大きな問題とは、例えば「永久機関の発明」のような、これさえ解決できれば社会問題の多くが解決したり、社会が新たな局面を(良くも悪くも)迎えざるをえないような問題だ。
報酬系がワクワク、ウズウズ、ムラムラしてくるような大きな問題は、いくら時間を賭けても解けることがなく、いくらノックしてもその扉は開かれない。かつて「解決不可能なことに時間を使うな」ということを述べる哲学者もいたほどであり、ノックするだけの実の無い人生を送るなという先人のアドバイスがあった。
至極真っ当であるし、実際私も学校のテストでは、分からない問題を飛ばし、分かる問題から解きなさいと教わり、その通りに10年以上も繰り返し、今ではこの身にこびり付いて離れない。
だが一方で「解決不可能」と呼ばれる大きな問題が「解決不可能」であることを証明することもできないのである。なぜなら、「不可能/無い」を証明しようとすると、その問題の全範囲を漏れなく探し、1つも不可能が無いことを示す必要があるが、ほぼ全ての問題は必ず未知の範囲があるからだ。
例えば、大抵の問題は「なぜ」と根源を10回問うてみれば、必ず自身や世界の「存在」に対する壁にぶち当たる。
私たちの欲求や動機はほぼ全てが自身の存在の維持や拡大のために生じているが、「私とは何(構造)で、なぜ(根源)生じたか」は、現在「意識のハードプロブレム」という難問として未だに解決していない。
世界の存在理由については、途方もない物理研究の積み上げによって、近年では量子力学の分野では「量子もつれ」のような理解しがたい現象が観察されたり、超ひも理論のような異次元を示唆するような概念も登場し、既知よりも未知が圧倒的に広いのではないかと思わせられるほどに、未知領域の広がりを感じている。
私たちは、真の土台となる自身や世界の存在という一丁目一番地については何も知らず、まさに「地に足がついていない」状態で生きている。そういう意味において、必ず未知範囲がありえるのである。
誰しもが人生の意味について考え、人によっては自分なりに答を持っているのかもしれないが、それはあくまで人間社会のレイヤー、自己実現的な意味であって、もっと深層の人生・存在理由の答ではない。さらに言えばこの「意味」という言葉は恐らく自身の「存在」が(無意識的に)前提にあり、逆を言えば自身が存在しなければ、全ては意味が無いとも言えるのではないだろうか。
さて、以上のように、大きな問題は常に深層部分に(さらに無数に分岐する枝葉部分にも)常に未知の範囲があるため、「解決不可能」と言い切ることができない。それは「永久機関」であろうと「熱力学第一法則」であろうと、極論「宇宙人」「幽霊」「神」「ビックバン」であろうと、「ありえないことは、ありえない」のである。
だから私は考えることを止められないのだ。大きな可能性は常に否定できない。扉の奥から何かが聞こえるのだ。心なしかなんだか良い匂いもする。
社会は豊かになり、天敵はいない。聖なる好奇心を止めるな。扉をノックしろ。先人のアドバイス?耳を貸すな。やりたいようにやれ。我々はその特権を得た。その扉はきっと開かないだろう。しかし、凹み、削れ、血が染み込めば、おまえの墓標にはなるだろう。
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