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おじろくおばさの調査記録(その他おじろくおばさに言及している資料など)


南伊那農村誌には他にもおじろくおばさについて触れている項目がある
上町の部 分家慣習・株の項目に
「分家もさせて貰えず、又他へ出るだけの気力もなく一生兄の家にいて言わば、「飼殺し」にされるものを「をぢ」「をば」と呼んで、多少は存在したが、あまり多くはなく、能力体力に欠陥のあるものに限られてゐたといふ。しかし、古い頃の事は分明ではない」
おじろくおばさになるのは障害者や怪我人に限られたということらしい 上町の部でおじろくおばさについて触れているのはこの部分だけで筆者は多くを語ろうとしていない

また谷の思想では折口信夫全集を引用してこう記している
「未婚者は「をぢぼうず」と言うて、仕事の責任もなく家にいる。そういう者 は、行きどころがないと何もせずに死んでしまう。このおじぼうずのやり場に、近代の農村は困った。多くの場合は、よそへ養子にやられることになり、その家から出てゆく。(前出同)」←折口信夫全集ノート編第7巻(余談だが水野都沚生は大学時代に折口の指導を受けている)
また谷の思想の著者は
「信州下伊那郡の奥にある地方では、高持ち百姓の 奴隷みたいなものがあって、それを彼官と言うた。その被官の解放運動が明治の初年に行なわれた。 そういう運動がいっぺん起ると、いまだにその気分がつづいて、そんな方がいちばん、近年の社会主義運動の盛んなところとなる。(折口信夫全集・ノート・第七巻)」
「「ノート篇」二か所の引用で共通する典型的な土地は福島であった。現代まで被官の風習が残されたという意味でこの土地は稀有というべきである。」と、取材地が福島部落であることを示唆している
著者は出典は記していないものの、被官についてこう述べている
「お館・被官制度は社会階級制度の特別なものであった。遠州水窪にもあり、伊那谷特有の制度では ないが、戦国時代の落人武士が刀を捨てて百姓となった、主従関係をそのまま伝えている。お舘は被官の生命財産を保護し、被官の面倒をみる。被官は小作を納め、労力提供と手伝いをする。一般の農村分は庄屋を通じて課税され、お盆は「一人百姓」としてその一族の租税を代表した。 落武者の土着が多かった伊那谷にはお館・被官の制度も各地に残り、特に南部では遠山の和田(南信濃村)と鶯巣、竜西の和合(阿南町と向方・福島に残った。」
「その遺習は明治四年被官の名称廃止と同時に抹消されたはずであった。実際には昭和二十年の農地改革から火の手が上がり、昭和二十七年の農地法で、小作地の強制譲渡方式が制定され、お舘・被官の関係は解体した。」
和田、和合、福島はこれまで見てきた論文でおじろくおばさの存在が示唆されてきた地域だ 何か関係があると思われる




また著者いわくおじろくおばさ制度は被官の家に存在していたとしており 「おじろくおばさは比較的裕福な家に存在した」という記述と矛盾している
「今日福島家に遺る人別帳の、被官の戸数は数十年一戸も変っていなかった。被官の家に生れる子供たちで、成長して妻帯するのは長男一人である。猫の額ばかりの耕地を分配する分家制度がここにはない。次・三男は生家の農奴となって一生を終る。女たちは嫁ぎ先もない。閉ざされた性のまま生涯 を終え、不審に思わぬ風習が伝えられた」

こうした制度がおじろくおばさが存在しうる下地を作ったのだろうか

また信濃教育会北安曇部会による北安曇郡郷土誌稿 第8輯におじろくおばさの存在を示したと見られる記述がある 昭和5年発行だが国会図書館で閲覧できるのは1979年に再出版されたもの
「厄介者」の呼び方一覧におじろくおばさの別名として紹介されたおぢぼうずや福の神が併記されている 北安曇郡は長野県の北側にあり、おじろくおばさが長野県南部だけのものではないことがうかがえる


「おじろくおばさが労働力として重宝された」と水野氏が主張するのと対象的に侮蔑や嘲笑の対象だったことがうかがえる

また、1967年愛知県教育委員会発行の矢作ダム水没地域民俗資料調査報告 第2集ではダムに沈んだ、愛知県北部にある村の住民が「結婚の遅い男女をそれぞれおじさ、おばさと呼んでいる」と記している



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