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蛸干しざお

 自分が着たこともないような赤いなにかが物干し竿にぶら下がっていて、飛んできたのかと思って見ると、私の干していた洗濯物に、タコがいた。
 紛れもなく、タコだ。洋服にしてはぬめりすぎている表面と、うごめく手足――いやタコなのだから足足だろうか――がそれを完全にタコだと告げていた。タコは元気がなさそうにくたびれている。ぶつけた翌日の赤タンのような、こちらの気分を無作為にかき乱す色をして、タコはこちらをむいた。
 「助けてください。干からびて、死にそうです」
 タコは喋った。最近のタコは敬語も使えるようで礼儀があって、好感が持てる。いいよ、と私は言ってタコに手をかけたが、これは何処を持てば良いのだろうか。頭のあたりを持つと痛くはないだろうか。タコに痛覚が在ったかどうかがわからない。生物学に対して興味を示さなかったツケがこんなことで回ってくるとは思わなかった。とりあえずタコに聞くことにした。
 「何処を持てばいいんだろう」
 「こんなタコに気を使わなくて良いんですよ。ああ、でも、もし余裕があるなら、水の入った容器を下においてくれれば一番いいです。そこに落ちますから」
 確かにその通りだと思った。タコは脳味噌があるのか知らないが、かなり賢い。なかなか侮れない生き物だ、今度水族館で見に行ってみたいと思った。腹が減った。

 昔グッピーを飼っていた水槽に水を入れて持ってくると、タコは足足を器用にくねらせて、物干し竿のポールに頭をふにゃりとつぶして乗っけていた。下に水槽を置く。
 「ああ、こんな格好ですみません。それでは、失礼しますよ。」
 ボチャリ。しぶきをあげてタコが水槽に入ると、みるみるうちにタコは色が青くなっていく。タコは内側から何かが食い破ろうとしているみたいに皮膚がとんがったり凹んだりしながら変色していく。不整脈のグラフィティアートみたいだ。なにか変な薬品を入れてしまっただろうか。
 「ごめん、もしかして私は何か間違えたかな」
 「だいじょうぶです。必要なことですから」
 そう言うとタコは頭を何倍にも伸ばして、パワーポイントの楕円みたいな形で、私の背丈ほどの大きさになった。足が窮屈そうだ。ところで、これはタコなのだろうか?
 「準備が整いました。わたくし――と申します。あなたはこの星地球の代表として、我々ヌリヤンポナー星へ大使として来ていただきます」
 名前はよく聞き取れなかったが、タコ?いや、ぼなんとか、ぼ、…ボーさんはヌリヤンポナー星というところから来た事がわかった。私は、何か光栄なことでもしただろうかと思ってちょっとはにかみながらこういった。
 「そ、そんな急に言われても困りますよ。だいいち、食事とか。仕事とか、困ること、たくさんありますし。家族もいるんです。」
 私は相手が大きくなると敬語を使うみたいだった。仕方がない、対等な相手に見えるのだから。
 「だいじょうぶです。あなたに一切不利益はありません。この星も、通常通り運営されます。あなたは我々と、そして地球に選ばれたのです。さ、とりあえずこちらへ。」
 こんな狭いベランダでこちらとはなんだろうかと思うと、ボーさんと私たちのいるベランダのすぐそこに大きな黒い箱のようなものが浮かんでいた。もしかしてこれはUFOですか?と聞くとボーさんはこの星ではそう呼びますね、と言った。私は、ベランダに伸びてきた黒いカーペットのようなもの、動物の舌のように伸びてきたそれに足を乗せて箱に入った。

 黒い箱の中はいわゆる実験室のようだった。白色LEDくらいの明るさのクラゲが上に、足から逆さに吊るされている。ヌリヤンポナー星の人びと…蛸だこは少し悪趣味らしい。
 私は蛍光グリーンのソファに座る。柔らかくて、さっきまでいた地球にあるものとほとんど変わらない。隣で立っているボーさんに私は尋ねる。
 「私はついてからどうすればいいんですか?あ、あと、食事とかは。」
 「問題ありませんよ。食事は地球のものをそのまま作成する技術がありますし、寝床もあなたのお望み通りに作れます。我々はあなたのような人を必要としていたのです。」
 「私はそんなにできた人間じゃないですが…」
 タコは触手を大きく伸ばして横にしなやかに振った。
 「いいえ。第一に、あなたはヒトの中でも従順です。学生時代は成績は普通、それなりの大学に通い、社会人になってからは土日祝ですら求められれば会社に向かい、寝不足による激しいストレスの中でも周囲との関係は穏やかに保つ。現在は転職されて、それなりの生活をされてらっしゃいますね。」
 タコは早口で説明をするので、少し隅が頬に飛んだ。イカスミパスタが食べたくなる。
 「はあ。」私はそう返した。
 「そして第二に、あなたは環境への適応が早い。幼少期から何度も転校を繰り返されていますが、精神的負担はそこまで感じていなかったようですよね。さらに、第三には、あなたは著しく危機管理能力が低いのです。」
 私はちょっと顔をしかめた。褒められるだけだと思っていたのに、いきなり、著しく低いと言われた。何であっても、著しく低いのはあまり嬉しいことじゃない、この社会では。
 「わたくしの姿をみてもさほど驚かず、そしてあなたに先程『だいじょうぶです。あなたに不利益はありません』とお伝えしましたが、詳細な説明のないまま了解しましたね。」
 「はあ。」と私は言った。はやく褒めてくれないものだろうか。
 「あなたは我々のヌリヤンポナー星に到着した後記憶処理を受け、労働者として扱われます。我々特権階級の者の召使となることが一般的ですが、まあとにかく問題はありませんよ。」
 それは困る、と私は思った。猫を撫でたいし、べつに家族と会えなくても問題はないが、記憶は大事にしたいと言うと、ボーさんは青色の体を横に伸ばして言った。
 「記憶がなくなれば大事にする必要もありませんが、まあ、いいでしょう。あなたは高い成果をあげそうですし、わたくしにも親身にしてくれましたから、考えておきますよ。」
 やはりこの蛸は人情があるようだ。しかし、さっきから変な揺れで眠気が誘われる。ここで眠るとまた危機管理能力が云々と言われそうだが、どうでも良いことだ。だってもう私は戻れないのだから。クラゲのLEDの光を遮って、そっと目を閉じた。


 「目が覚めましたか、――――さん」

 私はそっと目を開ける。瞳孔はしっかり横に広がっていて問題がない。もう終わってしまったのか。
 「もう、すっかり地球に馴染んでいましたよ。弾丸旅行だと言って飛び出してからぜんぜん戻ってこないと思ったら、ヒトになっていたものだから驚きました。」
 「ああ、すまない。ヒトといるのは楽しくて、つい適応してしまった。もうそろそろ業務に戻らなくてはならないよな。あ、ただ――」
 「これです?」
 ボスラナリは発光しているネコの足を持ち上げる。ネコが人間の服のチャックを引き上げたような音を立てている。かわいそうだ!
 「こら、そこを持ったら痛いだろう。こうやって抱えるんだよ。そうだ、それはそれとして、ありがとう。これであっている。」
 ネコは私の赤くしなやかな腕の中で少しきょとんとして、それからボスラナリに威嚇をした。かわいいと思う。
 「わたくしにはあまりそれの扱いがどうとか、わかりませんねえ。わたくしが地球にいたときは猫が好きだったそうですが…」
 「まあ、ヒトなんてすぐに変わる。わからないこともあるさ」
 「そうですね。」

 私は発光する猫の頭を撫でた。虹色に耳の内側から光が漏れて、喜んでいることがわかる。星の遠く遠くで光っている青色の玉をみて、丸まっているネコのように見えた。

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