見出し画像

性的な描写に機嫌感を抱くような方は、ここで回れ右をしてください。

耐性がない方には、と思うのでこのような書き方をしました。以前話を聞いて具合が悪くなったと言われたことがあったのでお互いのためにも先に。



主治医が言うには、私には“過剰適応”の傾向があるらしい。

父が病棟面会に来た際、私は気分でなかったが断わると父に悲しい思いをさせてしまう、怒らせてしまうのではと思い悩んだ末、決断は見送りという形でおわった。

普通は、自身が嫌と思えば断るらしい。が、私には難しく感じる。相手が悲しい思いをしている姿を想像したり実際にその姿を見てしまうと自分も悲しんだり、自身を責めたりしてしまうから。

つまり、自分を守るために自分の心を犠牲、見て見ぬふりをしているということ。キレられるのも怖いし、がっかりさせて滅亡されたくもない、と当時を振り返って思う。

私は現在、母と弟と暮らしている。

離婚した父は、離婚後も、弟より娘である私に尽くしてくれているのをよく感じていた。年頃ながらも仲は良かったし、欲しい服も食べたい物も父から率先して買ってくれていた。私からねだったことはあまりないけれど、必要以上に尽くしてくれていたのを鮮明に覚えている。

それでいて父は機嫌が悪い時は悪いし、私は子供ながらにして空気を読んで育ってきたんだと思う。

もちろん父のためにと我慢して、自分の心を犠牲にしてきたけれど、愛情を込めて大切にされてきたことは実感していた分、たとえ不当な拘束を受けても自分の気持ちに蓋をして過ごしていた。


そんな背景もあり、性暴力の被害者に。


性“暴力”っていうけど、私からしたらピンとこない。だって父はたしか、

“誕生日プレゼント”

と口にしていた。

私は少女漫画に興味があり、性的な描写もよく目にしていた。

“興味ある?パパが教えてあげる”

小学校高学年らしく興味はあったため、私はOKサインを出してしまった。

つまり、小4とはいえ、同意があったから
性“暴力”と言われてもピンとこないのである。

病院の関係者は言う。一般的に大人が血のつながった子供を性的対象として見るのは間違ったことであるから、私に責任はない… らしい。

生物学的にも家族間では臭い匂いのようなものを敏感に感じるため、性的興奮は起こらないよう設計されているだとかで、その壁を飛び越えてしまった父は異常者だとか、なんとか。


“なーんかよくわかんない感じ”

行為中は不思議な感覚が残った。

“このことは絶対他の人に言っちゃだめ。
パパ、逮捕されちゃうから。
大好きなパパに会えなくなったら寂しいでしょ?”

そんな口止めのような声掛けも記憶にある。

別居だった父には土日の休日だけ顔を出して泊まりで弟も一緒に遊んだりしていたから、もしかしたら弟も、私と父の行為に気が付いていたのかもしれない。

同じ部屋のベッドで寝ていた弟が突然目を覚ますこともしばしばあったし、父の母(祖母)も私と父の行為が始まる瞬間に部屋のドアを開けてくることもあったから、私は恐怖で仕方なかった。

それでも父はお構いなし。
父の精子でカバーが汚れると祖母には
“あーちゃんがお漏らしした”
と声をかけて洗濯する。

行為後は毎回ではないけど、シャワーを浴びさせられていたし、それも深夜に入るもんだから、どうしたんだと祖母が目を覚ましてやってくる。

父は同様に説明し、祖母の何とも言いたそうで言えないような表情を私は目の前で見ていた。

気づいているのかいないのか、気づかれたらわたしは怒られてしまうのか。
言われそうで言われない恐怖が何年も続いた。

したくない性行為も、夜になれば始まる。
父の手を退かしてはみるが、寝込みを襲われる。


自分の口で“やだ”が言えなかった。

私が膀胱炎で病院へ連れて行かれた際、
家族も学校の先生も
誰一人として家庭内で起こっている異変に
気付いてはいなかった。


行為後の朝、気まずい祖母と顔を合わすのを避けて、お昼過ぎまで嘘寝を続けていたあの日も

ストレスによる頭痛で立ち上がれず、大便と嘘をついてトイレに閉じこもったあの日も…。


誰にも話さず、全部ひとりで抱えてきた。



だが現実を知らない元から鈍感な性分の母は、
母と私が揉める度に、私を車に乗せて隣町の父の家に連れて行く。

まるで、私が父の権力に逆らえないことを
利用しているかのように。

バレてしまってはいけない。
という感情の裏で
誰かが私を助けてくれる
という微かな期待もあった。

まあそんな期待は遥か彼方にサヨナラしたけど。
だし、そんな過去もあって母とは今も分かり合える仲に発展していない。


秘密にしてきた10年間は打ち明けることもなかったから頭の奥底にしまわれていたはずだけど鮮明な記憶として蘇ってくる。

私からすれば消し去りたい過去。だけれど、当時の自分にとっては、消すにしてもあまりにも衝撃が強すぎたんだと思う。

当時の自分は、母と弟が2人でいる姿を見て
“私と父のようになっているのかな”とか
友達とその親を見て
“あ、この人たちも家では”
と想像を膨らませていたし、
学校の先生(男)も
“私のこと性的な目で見ているのかな”
と考えることもあった。

普通がわかるようになったのは、時が経ってからだったけど。

私の感覚を思い出すと、
父との行為が始まると、一枚のシャッターが降りてくるような感じがする。


心を無にして体とは切り離して捉える、てきな?


多分そうしないと自分の心が壊れちゃうから、
無意識のうちに防御体勢に入っていたんだと思う。
上手く自分を守る技術というかが、今の私を創っているんだと思う。

主治医の言う“過剰適応”は、
きっとそういうプロセスで構築されてきたものなんじゃないかな。

以前冒頭で、性“暴力”にピンとこないと言う話をしたけど、私が実際に暴力を受けた気がしなくてもこの人格形成が父によるものであれば
これは立派な暴力に値すると捉えられるんじゃないかな。

その“心の傷”が暴力の跡で、間接的に結果として自分を苦しめてることにつながると思うから。



そんな日記を病室のベッドで綴ってから
3ヶ月が経った。


ここからは今日の事。

一冊の本を読んだ。
子供の性暴力加害者の心理や
子供の実体験を描いたもの。

無意識に自分と重ねて、読み進める。
小児の記憶がフラッシュバックして気分を悪くしそうになる、が好奇心のが勝る。

経緯は、まるで私のことのようだった。

中学ではテニス部部長、県大会出場ベスト16、女子副会長立候補、図書委員会委員長、定期テスト学年1位など実績を収めてきた。

だが私は2年前、全日制高校を辞めた。
社交性不安障害、対人恐怖、視線恐怖から。

その半年後、復帰した後、非行に走り対人関係を拗らせた後精神を病み、措置という形で閉鎖病棟で2ヶ月間入院生活をした。
摂食障害にもなった。

その間、男性看護師との一件が発展し
警察署や弁護士事務所。県庁へ。
最終地点、借金をし弁護士を雇い
現在、作業を進めている状況下。

性暴力の被害を受けやすい体質なんだろうな。

また、性の初体験(上述)を打ち明け
私の情緒不安定さは
複雑性PTSDから。と診断された。

子供の頃に性被害に遭った場合、
小児では自我が形成されていないため
被害時期と発症時期に間隔が空く。

私の被害時期は小4で、発症時期は高1。

納得、いや相応しい言い方をすればどこか安堵する気持ちが私にはあったように思う。


現在は薬と上手く付き合い、通院を行いながら
この多種多様な社会を生き抜くため、
少しでも楽に生きてゆく術を身に付けたい
と思いを馳せる日々。

前記事より己を愛することの本質を思い出し、
ありのままの自分で、かつ前進的に。

今日は、過去を振り返って落ち込むのではなく
整理をし教訓とした。

自身の性分の形成が
幼少期の先天的なものだとしても
私はそれに抗うように
今日もありたい自分に向かう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?