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一乗谷にて盛衰を想う

浅井の城に行ってきました。
敗者の悲しみが伝わるような場所でしたが、浅井とともに滅び去った朝倉家にも思いを馳せます。

2度ほど朝倉の本拠地、『一乗谷』に行きましたが、その時のことを書いてみたいと思います。

朝倉家

朝倉家は兵庫県養父市の朝倉という所に本拠地を持ち、越前の斯波氏の家臣でした。
しかし応仁の乱で主家斯波氏を出し抜いて、越前守護職を与えられました。

越前一乗谷に本拠を構え、インフラ整備などにも力を入れてここを戦国時代最も栄えた町に作り上げたのです。
当時はきらびやかで人口も多い大都会で、北陸の京都と言われたほどでした。

各家に必ず井戸があった。当時の街でインフラ整備がここまで整った町は他にない

その朝倉家第11代当主が『朝倉義景』です。

朝倉家滅亡

朝倉家に臣下の礼をとっていた近江の『浅井家』とは、何代にもわたって協力関係を築いていました。

織田家を裏切り、朝倉家とともに織田信長に敵対した浅井長政が織田軍に包囲されたため、当主義景自ら軍を率いて救援に向かいました。

しかし朝倉方の砦が陥落したのを確認すると、元々戦意の低かった朝倉軍は撤退を決意し、越前へと引き返し始めます。
それを見逃さなかった織田軍は背後を襲い、朝倉方は壊滅状態となりました。

当主朝倉義景公の墓所

朝倉義景は一乗谷まで落ち延びますが、軍は壊滅状態で留守を任された部隊も逃亡しており、仕方なく大野方面に逃れます。

平泉寺まで逃れようとしますが、途中一門の朝倉影鏡の裏切りに会い自刃。
これで戦国大名朝倉家は滅亡しました。

雨の一乗谷

現在一乗谷には当時の面影を再現した町が復元されています。
私も雨の日に、車で一乗谷に行ってきました。

道の駅らしき所の駐車場に車を入れ町を散策しましたが、リアルに戦国時代の街並みが再現されています。

見事に再現された、戦国の街並み

屋敷には一軒一軒かならず井戸があり、トイレも完備されていました。
町の店屋には日常生活に必要なものが売り出され、当時の繁栄ぶりを忍ばせています。

生活に必要なものは、このような店舗で手に入れることが出来た

この戦国の大都会が信長の軍勢によって焼き討ちされ、灰燼に帰したとは言葉を失います。

町の人の大半は逃げ去っていたものの、中には残って戦った武士や町人もいたらしく、なぶり殺しの状態だったと思います。

この時代で一番栄えた大都会が、一晩で無になってしまう。
滅亡が事実だったとは思えないほど立派に再現された一乗谷の街は、涙雨の中静かにたたずんでいました。

朝倉館の門を、屋敷の中から見た所。最初の写真は外から見た『朝倉門』

盛衰は全てにつきもの

一乗谷を焼き尽くした織田家も本能寺の変後は衰退し、本拠の安土城も焼失しました。

跡を継いだ豊臣家も滅亡し、長きにわたって幕府を開いた徳川家も維新で歴史の表舞台から引きずり降ろされました。

こうやって見ていると、どんなことにも盛衰がつきまとい、力で人の上に立つことが意味をなさないような気もしてきます。

そのことを涙雨の一乗谷が語ってくれたような気がしました。


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