小説 「タミコさんの家」 落合伴美

(序章)

 朝の空気を柔らかく感じるのは季節が春めいてきたからだ。土木事務所に勤めていた頃、金曜日の朝は微少な気怠さを振り切るように家を出ていたのだけれども、その感覚はいまや記憶のかたすみに残っているだけだ。鏡の下のフックには赤いラインが引かれた歯ブラシと青いラインの歯ブラシが並んで掛かっているが、夫の歯ブラシの方だけ毛先が減っている。力の入れ加減も関係しているのか。同じ日に買った歯ブラシなのに。
 きょうはいつもの金曜日にはならない。タミコさんの家を訪問するからだ。タミコさんと呼ぶよりタッコさんと呼ぶべきか。彼女の地元志摩ではタッコと呼ぶ人が多いのだ。いやいや、やっぱりタミコさんだ。
 鏡を見ながら歯を磨いていたら「かずなー」と間延びした声が聞こえた。間がわるい。夫は何かとタイミングを外して事を起こすことが多い。それがときには愛嬌の良さに繋がるから人生はおもしろい。
 ハミガキちゅー、と言ったつもりが、口の中に歯みがき粉があるので、✕✕✕✕✕、なんと言ったか自分でも聞き取れない。
 夫の智史は洗面室にやってきた。振り返るとバツがわるい顔をしていた。直立姿勢だ。歯みがきが終わるのを待ってまで言いたいことがあるのか。口をゆすいでからあらためて向き直った。
「和奈、あれ読んだよ。ナインストーリーズの最初の話」
 智史に、読んでみたらと勧めたのはJ .D.サリンジャーが書いた『ナイン・ストーリーズ』という短編集だった。
「最初の話って、バナナフィッシュ日和のこと?」
「そう、それ。バナナフィッシュ日和、よくわからなかった。ラストは唐突だし。そもそもバナナフィッシュって何?」
「バナナフィッシュは架空のさかな、だとおもう」
「架空のさかな、か」
「もういちど読んでみたら、すこしはわかるようになるよ」
「ほんとに?」
「それか、小次郎さんに訊いてみたら? 小次郎さん、サリンジャー好きだって言ってた」
「小次郎さん。そうか。きょうセッションで会うなあ」智史は手のひらをポンと合わせた。合点承知のすけという気持ちを表す音がした。
 智史と和奈の馴れ初めの場は、岐阜大学の課外活動、軽音楽同好会だった。智史は、ウッドベースを高校時代から弾いていたと、初対面のときに語った。ウッドベースの話をしながら赤面していたのは照れくさかったからだろう。ウッドベースを夢中になって奏でていたことがなぜ照れくさかったのか、未だにわからないが。
 和奈は津市で生まれて津市で育った。高校は津高校。朝陽中学のときからドラムをたたいていた。智史は四日市生まれの四日市育ち。高校は四日市高校だ。津市と四日市市はそれほど離れていないが、合同演奏会でもないかぎり、出会う確率は低いのだ。小次郎さんは本名・佐々木恭一といって、智史や和奈の二学年先輩で、大学一年のときから『アフターダーク』など岐阜のライブハウスに出向いて、熟練の演奏家たちと相対してウッドベースを奏でていたのだ。小次郎さんはいまや、愛知・岐阜・三重の三県を股にかけて演奏活動を展開する売れっ子になっていた。今夜は四日市諏訪町の『シックスティシックス』でジャズのセッション大会が開催される。知加(ともか)さんと津市で合流して二人でタミコさんの家に向かうのでセッション大会は一回休みとなる。

「タミコさん、誕生日に何が食べたいのかな?」ご飯にのりたまふりかけをかげながら智史はぽつりと言う。ふりかけご飯フェチが全国にいっぱい存在するから丸美屋食品などは安泰なのだと思う。
「それはもう決まっている。タミコさんはお寿司に目がないひとだから」
「あ、目がないって表現、やばくない?」
「やばくないよ。タミコさんは目がないのじゃなくて、視力を失っているだけ。タミコさんのまえで目がないとか、言わないし。それに家の中に置いてある物はすべて位置関係を把握しているひとだから。タミコさん、近所の魚屋さんにひとりで行ったりするんだよ」
「へえ。目が見えないことに絶望していないのか。すごいひとだな」
「絶望していた時期があったかも。だけど克服したんだよ」
「克服したのか。ぼくだったら無理だなあ」
 慣れるってことも大切なんだよと和奈は言ってから、小さめのお茶碗にご飯をよそった。
 智史は、黄身がうまい具合に半熟に仕上がった目玉焼きをひと口ぱくついて、顔を綻ばせた。目玉焼きの黄身が柔らかくないと不機嫌になるのは和奈も同じだ。食べ物の好みが一致するというのも夫婦にとって大事なことだと思う。
 食事を終えた智史は薄手のジャンパーを羽織って、海苔製造会社に向かう。味付け海苔などを拵えているメーカーだ。給与はそれほど高給ではないが、土日休みなのは何より有難いと本人は思っている。和奈も同意見。ジャズセッションは金土日のいずれかに開催されることが多い。音楽関係のイベントも土日が多いのだ。智史が出かけてから、智史の両親がキッチンに姿を見せた。母の由貴子さんはカーキ色のカーディガンに茶系のひざ丈スカートを合わせて、身だしなみに気を配っているのに、父の修二さんはパジャマ姿で、脇に新聞を挟んで持ってきていて、寝ぼけ眼だった。眠りが浅かったのか? そして、両親の食事中にゆっくりした足取りで祖母の富美江(ふみえ)さんがやってきた。公園でのラジオ体操に参加して帰ってきたところだ。「最近は人が減ってきた。健康第一なのにねえ」と、ひとりごとのようにつぶやいた。
「富美江さん。きょう多美子(タミコ)さんの家に行ってきます」
「ああ、そうか。きょうがタッコの誕生日だったか。よろしく言っといて。まあ、そのうち会えるさね」
 富美江さんはめんどうくさいことが苦手な性分であるらしい。実の妹の顔を見たいのか見たくないのか、それはよくわからないが、四日市市から志摩市はずいぶん遠いという感覚なのだろう。遠方に出向くのが億劫であるらしい。毎朝、ラジオ体操に行くことは苦痛じゃないと、富美江さんは言う。矛盾しているようにも感じるのだが、富美江さんの流儀は富美江さんにしか理解できないのだ。理解できなくても了解してあげることは出来たりする。
「途中、鵜方の町でお寿司を買っていきます。知加さんが手配してくれました」
「ありがとう。タッコはとりがい苦手だからね」
「はい。去年もとりがいは抜きました」
 きょうは快晴。木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)から『弥生』となったと昨日、歳時記を読んで知ったばかりであった。

 (1)

 櫓は規則正しいリズムで海面を割って水飛沫をバシャバシャ立てている。オンボロ漁船は船着き場に向かって猛進していく。日が翳り、暗幕のような空の下にちぎれ雲が点在する怪しげな天気も気になるが、もっと気になることがある。うちの漁船はいつから手漕ぎ船になったのだ? この変化は只事ではないとタミコさんは首を捻らずにはいられなかった。
「甚吉さん、甚吉さん」懸命に櫓を操ることで精いっぱいなのか、夫の甚吉は言葉を発しない。タミコの声が聞こえていないのか? 水飛沫だけが応えていた。
 じんきっちゃん、じんきっちゃん。
 甲板にゴム長靴を脱ぎ捨て、地下足袋で踏ん張るように櫓を操っているのは、ほんとうに甚吉だろうか? 細身の躰。背中に張り付いている七分袖シャツから漂う汗の匂いは紛れもなく甚吉のものだ。甚吉は耳が遠くなったのだろうか。そんなはずはない。
 もうすぐ船着き場に漁船は接岸されるのだ。桟橋の向こう側で立ち話をしている漁師たちの姿がくっきりと視界に入ってきている。ロープを巻き付ける錨(いかり)の位置も確認できた。が、漁船はさっきから進んでいないように感じる。なっとしょう(どうしよう)。天変地異が起こって地球は湾曲してしまったのだろうか。タミコさんは叫んだ。「いじくさりな船や!」叫び声は部屋の天板を震わせた。
 タミコさんは飛び起きた。朝なのか? まだ夜中なのか? なぜか唇がぶるぶるとうごいた。うん? おもわずパジャマのズボンの中に手を突っ込んだ。
 よかった。夢やいうても、ちょけすぎや(ふざけすぎだ)。おねしょするとこやったわ。かなわんなあ。オーガニックコットンが詰まった布団は足元まで吹っ飛んでいたが寒さは感じなかった。額に指を当ててみると、うっすらと汗ばんでいた。変な夢みたからや。せやけど、気温が昨日までとは違って暖かい感があると、タミコさんは肌感覚で知ったのであった。
 きょうは大事な日やった。いそいそと立ち上がり、トイレを済ませたあと、寝室のカーテンを掴んでさっと引く。窓のロックを解いて開け、手を宙に翳してみると日差しが左方向から射しているのを感じることができた。視力は衰えているが、光を感じとることはできる。それだけでも値打ちもんや。日差しが春を告げている。小鳥のさえずりが聞こえる。チッジャッと鳴いているのはメジロだろうか。頭が黄色い鳥や。国民学校初等科のころ、姉の富美江と一緒に波切(なきり)漁港を回り込んでから階段を上がったところにある神社で野鳥の観察したものや。バードウォッチング。姉とは二歳しか離れていなかったが、ませていた姉の色恋話を神社の境内でよう聞かされた。かなわんなあ。
 次女の富美江は二十六のとき、四日市の岸本孫太郎さんと結婚して、由貴子が生まれて、長女の由貴子さんは、佐野修二さんを婿にとって、修二さんは岸本修二になった。そして智史くんが生まれた。
 わたしからみたら智史くんは、いとこちがいって呼ぶんやったか。いとこちがいって、なんやピンとこんなあ。智史くんは『さとしくん』って呼んだらええか。さとしくんって呼んでいた記憶がタミコさんにはあった。岸本智史は二度、この大王町波切に来ていたのだ。
 ボンボン時計が七回鳴った。タミコさんは寝室から居間に移動した。居間と繋がっている台所の流し台でもう一度、手を石鹸で洗って、冷凍してあった食パンを取り出した。保存袋の中の食パンはカチカチに凍っていたが、オーブントースターで焼くときに、霧吹きで麦茶をかけると美味しく焼き上がることを会得していたのであった。ジャムを塗ったトースト、コーヒー、サニーレタスとカイワレのサラダを毎朝食べている。ジャムの種類は五種類もあった。日替わりジャムだ。

 ラジオを聞いとったら、堂の山薬師堂の『汗かき地蔵尊』の話をしていた。うちからそれほど離れていない。堂の山薬師堂は大王小学校の近くにある。汗かき地蔵まつりは先月のことだと記憶している。毎年二月二十四日だ。今年は賑わったかなあ。コロナウイルスの脅威は鎮静化の兆しがみえはじめたから、汗かき地蔵まつりは屋台がたくさん出て、賑わったことやろなあ。鎌倉時代、漁師の網に三回もかかった石の塊が地蔵さんとして祀られることになったという。網にかかった石を海に投げ捨てても、同じ石がまた網にかかるってなんやろなあ? 石に神様が宿っていたのかな? いや、神様やなしに仏様かもしれん。地蔵さんになるのは仏様や。中学校一年か二年のとき、姉の富美江、母の静枝に連れられて、汗かき地蔵まつりに行った覚えがある。たこ焼きの露店はなかったなあ。三人でおでんを食べたかもしれん。食べたなあ。タミコさんは記憶の糸を縫おうとした。おでんを食べた頃からさらに十年ほど経って、タミコさんが榊原甚吉と仲良くなった、あの時分は、汗かき地蔵まつりの屋台に焼きそば、たこ焼き、蜂蜜カステラなどが揃い踏みして百花繚乱の華やかさやった。ひと目を気にせず、薬師堂の境内で一人前の焼きそばに甚吉さんとふたりでかぶりついたなあ。日本が高度成長期に入った時代だ。
 ラジオは、北朝鮮がI C B M 級弾道ミサイルを平壌(ピョンヤン)付近から打ち上げたニュースを伝えはじめた。
 物騒な世の中やなあ。
 玄関の引き戸がガラッと開き、「お母さん、起きとる?」と呼ぶ声がした。娘の徳永啓子だ。
「起きとるよ。なばな、まだ食べとらん」
 上がり框に啓子が立つ気配。腰付障子が開いて、「なばな、炒めものにしたらと思って、揚げハンペン買うてきた」と、啓子の声と気配が同時にタミコさんの耳に届いた。
「揚げハンペンとなばな?」
「そうなの。なばなの料理、インターネットでググってみたら、おひたしにしてもええけど、脂分のある食材と炒めても旨いことがわかった。うちとこ、揚げハンペンとなばなの炒めもん、さんべん拵えとるよ。昼につくったろか?」
「啓子ちゃん、いそがしないの?」
「いそがしないよ。功ちゃんはさっき親子丼食べた。昼からは漁協でミーティングあるって。わいわい喋り合うだけの安気な会議やな」
 啓子の夫、功治は波切(なきり)漁協の副組合長を務めていた。裏表がない朴訥な人柄で、多くの組合員から慕われていることは、タミコさんも知っていた。功治は酒が強い。ほろ酔い気分になってくると愚痴が多くなるのが玉に瑕だ。功治の息子の淳基は伊勢市に住んでいて、三重県内では有名なタウン誌の副編集長だ。淳基は仕事が多忙なこともあって、年に一度か二度、波切の実家に帰ってくるだけだ。功治の胸にはぽっかりと空洞ができているのか、ほろ酔い加減になると一升ビンをぶら下げてタミコさんの家にやって来ては、淳基は漁業に向いとると思うとったのに、と嘆き節を繰り出すのであった。
 揚げハンペンを細かめに切って、なばなも食べやすい大きさにカットして、合わせて炒めたものを啓子は拵えてくれた。味付けは濃口醤油だけだ。タミコさんは冷凍してあった梅おにぎりを解凍して温めた。なばなと揚げハンペンの炒め物は、なばなのほどよい苦味がアクセントになっていて美味しかった。
「ふたりは何時ごろ来るんやろ?」タミコさんに尋ねると同時に手ぬぐいで手を拭くような音がした。啓子は、いつも長いタオルを首にかけて、タミコの家にやって来るのだった。
「たぶん昼からの四時ごろになるんとちがうかなあ。ゆうべの電話では汗かき地蔵に寄ってから来るって言うとった」
「知加ちゃんも和奈ちゃんもマメな性格やなあ。去年も来てくれた。お母さんの姉は何年も顔を見せんのに」
「そのことはええんよ。富美江姉さんはめんどくさがり屋やもんなあ。孫さんと付き合っているときは、四日市まで行くのがおっくうや言うて、孫太郎さんにカローラで迎えに来てもらっと
った。夏場はお母さん(静枝)に頼まれて、スイカを縄で結わいて井戸水で冷やして、孫太郎さんに家に上がってもらって、みんなでスイカを食べたことがあったなあ」
「お母さんそんなこと、よう覚えとるなあ」啓子は感心していた。
「それは楽しみやったからな」
「楽しみやった?」
「そう。スイカを井戸で冷やして、みんなで食べるんが楽しみやったんよ」
 そう言ってからタミコさんの頭にふいに浮かんだのが氷屋の源さんが活躍する姿であった。昔は町のあちこちに氷屋さんがあったのだ。冷蔵庫に入れる氷を頼むと、オート三輪の荷台に氷の大きな塊を積んで、源吉さんはやって来た。タミコは、鉢巻きを締めた源さんの姿を眺めるのが好きだった。家のまえで源さんを迎えると、「お嬢さんに見られると緊張するわ。あんまりジロジロ見やんといてな」と照れながら言った。青い法被が似合っていた。照れくさかったのにちがいない。そう言われたのでタミコは意識して、うつむき加減になった。うつむきながらもパッパッと刹那に顔を上げて、オート三輪の荷台で氷をカットしている源さんの雄姿に見惚れていたのである。源さんは氷をカットすると家の冷蔵庫まで運んでくれた。昭和三十年代初頭、一般家庭では氷で冷やす冷蔵庫が主だったのである。
『✕✕✕✕があったんや』
「えっ?」啓子の言葉を聞き漏らした。
「お母さんどうしたん?」
「ちょっと思い出したことがあって、思い出に耽っとった」
「なに?」
「氷屋の源さんのこと」
「氷屋さん?」
「魚武商店の二軒となりに田ヶ原氷店ってあったやろ? そこで働いていた源さんのこと、思い出してな」
「ふーん。いまは空き家やな。氷屋さんあったような気がするが、思い出せんわ。源さんってどんなひと? お母さん、源さん好きやったの?」
「いや。好きというかあこがれやったんよ。男っぷりがよくて。高倉健じゃなくて、高倉健と同じ時代に活躍しとった佐藤ナントカさんに、よう似とった」
「佐藤って俳優? 佐藤姓のひと、ようけおるからな。誰やろ?」
「佐藤允や。思い出した」
「佐藤まこと? 知らんわ。お母さん、あの子ら泊まっていくんやろ?」
「そうやなあ。ビールやらワインやら買うてきて、わいわいやるんよ。楽しみや」
「知っとるよ。去年わたしもここにおったやん(参加していた)」
 啓子は、来客用の布団を日干しにしといてあげる、と言ってくれた。
 そうや。和奈さん、知加さん、ふたりが泊まるなら、二階の六畳間、掃除機かけやなあかん。どうしよう。二階には何年も上がったことがないので、タミコは不安に思った。が、居間の押し入れが開く音がして、「掃除機借りるわなー」と啓子の声がしたので、以心伝心や、大したもんやと我が娘を褒めたい気持ちになったのである。

 (2)

 和奈が津市の松菱デパートで買ってきた『不老銘菓・梅干』八個入りのうちの一個をタミコさんは美味しそうに食べて、湯呑みのほうじ茶をひと口啜った。二個目に手を伸ばさない。逡巡している。
「タミコさん、不老銘菓梅干、好みじゃなかったですか?」
「かずちゃん、好みも好み、旨いお菓子だ。柔らかい羊羹のなかに白いあんこと梅干しが入っていて、みっつがほどよくマッチしとるね。美味しい」
 不思議。タミコさんは餡の色を把握している。記憶だろうか。いや、記憶というよりも感触なのか? いやいや、記憶プラス感触だ。
「タミコさん、お菓子まだありますよ」
 思案顔だった。
「でもね。お菓子をぱくぱく食べてしまうと、夕飯が美味しくなくなるからねえ」
「デザートやフルーツは別腹って話があります」
「話はあってもね、罪に感じることがあるんよ」
「罪、ですか?」和奈は首をかしげた。
 タミコさんは思い出していた。昭和二十年七月の末、宇治山田市(現・伊勢市)は、米軍のB -29爆撃機から落とされた焼夷弾によって市街地面積の5割に被害が及び、全戸数の3割に相当する4.859戸が焼失したのであった。死者七十五人、負傷者百十一人であったと記録には残っている。志摩半島の波切町、和具町、浜島町などは空襲に遭わなかったが、津市、宇治山田市に焼夷弾が落とされて甚大な被害を被ったことは、志摩にも伝わってきていた。タミコの父・浜口政義の弟である政信は伊勢神宮・外宮の別宮、月夜見宮(つきよみのみや)で宿衛員嘱託の役割を担っていた。左の脚を引き摺っていたので戦地には赴けなかったのである。
 太平洋戦争の開戦時からじわじわと食糧不足の波は押し寄せ、昭和二十年、日本国民の主食は麦ごはん、じゃがいも、サツマイモなどであった。
「毎日まいにち麦飯はいやや。お米のごはんが食べたいよ」と嘆くタミコに向かって、「贅沢は言わないの。戦地に行って、死ぬか生きるかの瀬戸際に立っているひとが大勢いるのよ。宇治山田も空襲に遭って、大勢のひとが亡くなった。生きていてご飯を食べられることがどんなにありがたいことか。麦ごはんを噛みしめて食べなさい!」と母・静枝は厳しく言ったのであった。外宮の別宮、月夜見宮で宿衛員嘱託の役割を担っていた叔父の政信は七月末の空襲で亡くなったが、月夜見宮は萱葺き屋根であったため、焼夷弾は屋根に突き刺さり、不発となった。辺りの民家は大半が焼け落ちたが、職員らの懸命な消火活動によって社殿は焼失を免れたのであった。
「まあ、美味しいお菓子がどこにもない時代があったからねえ」
 タミコさんは戦時中の話をふたりに伝えた。穏やかな声遣いだと和奈は思った。
 和奈は、タミコさんの言葉を胸にとどめて、遥かなる遠い昔に思いを馳せようとしたが、映画で観たことがある戦時中の風景が想起されるだけであった。
「戦争のときは志摩にも空襲があったのですか?」
「いや。志摩には焼夷弾は降って来んかったし、艦載機からの銃撃もなかった。せやけど、宇治山田や津は酷かった。うちの叔父は外宮に近い月夜見宮におった。宿衛員いうのは警備員みたいなもんや。社殿を守るのに必死やったやろな。けど、敵は空からや。防ぎようなかった。昭和二十年の七月二十九日に叔父は亡くなった。わたしと母は叔父を弔うために宇治山田に行った。町は焼け野原やった。酷いもんや」
 毎年夏に津市や伊勢市で開催される空襲展に足を運んでみようと、和奈はふと思った。戦争を起こさないことを徹底できない理由はどこにあるのだ。そこはかとなく浮かんできたものから大切なことに繋がることだってあるのだ。考えてみるのはわるくない。
B -29爆撃機は志摩の上空を超えて宇治山田に向かったのか。タミコさんは、爆撃機のエンジンの音が耳にとどいた夜があったと証言した。低空飛行だったのだろうか? そのときの心持ちなんて想像が及ばないことだ。
 立て掛けてあった俎板を寝かせるような音がタミコさんの耳にとどいた。そういえば、俎板借ります、との知加さんの呼びかけがあったような、なかったような。どっちなんやろ?
 トン、トン、トンと小気味いい、野菜をカットするような音がして、がっこ🎵 がっこ🎵 いぶりがっこう🎵 と即興の歌が聞こえた。
「タミコさん、秋田の、いぶりがっこ食べますか」和奈の声が冷蔵庫の方から聞こえた。タミコさんは向き直って、「大根を燻煙乾燥してから漬物にしたものやなあ。食べたことないけど食べてみたい」と言う。名産品は数々あれども、食べたことのないものの方が多かった。娘の啓子が婦人会の旅行で立山連峰に行ったときに買ってきた『ますずし』は旨かった。笹の葉に包まれたますずしはクセがなくて、ほどよく酸味が効いていた。将軍吉宗が鱒寿司の旨さを称賛したおかげで富山名物として定着したとのことだ。タミコは、旅行から帰って来た啓子の土産ばなしから、日差しに彩られて黄金色のベールを纏い、青空に迫るように映える立山連峰の白きかがやきを思い起こしたものだった。それは、若き日にどこかで鑑賞したまぼろしの風景なのかもしれない。
 知加の気配が空気をふわっとさせたのちに、食卓にコトッと何かが置かれた。いぶりがっこではないかと、タミコは思った。
「タミコさん、いぶりがっこうカットしてきました。大根が学校に入っていぶされたから、いぶりがっこうですよね?」
 和奈は笑い声がこぼれそうになる。咄嗟に手のひらで口に蓋をした。知加は何が可笑しいのかわからず、キョトンとしている。眼球がまんまるだ。
「知加さん、いぶりがっこうじゃなくて、いぶりがっこです。たしか秋田県の方言では漬物を『がっこ』と呼ぶんだと記憶しています。正式な名前はいぶり漬けだったような」
「いぶりがっこだったのか。いぶりがっこうでもおもしろいのに」
 そう言って知加は、ここに来るまでの道すがらのコンビニで買った缶ビールを冷蔵庫から出した。アサヒ黒ラベルだ。肩まであると思われる茶髪を後ろで束ねたヘアスタイルが知加に似合っていた。
「目玉焼きの黄身の固さは、兄貴や和奈さんと好みが合わない。実家にいた頃は、こんなに柔らかい黄身はだめだとわがまま言って、兄貴や母に叱られた。でも、和奈さんもアサヒ黒ラベルが好きだとわかって、共感の幅が広がった。好みが合うって素晴らしい」
「そうだね。おんなは黙ってアサヒ黒ラベル」
 知加は座卓の近くで立ったままアサヒ黒ラベルのプルタブを開けて、ひと口飲んだ。フライングだ。
「和奈さん、うちの兄貴、いろいろとこだわりを持っているでしょう?」
「そうだなあ。歯みがきのとき、かならず奥歯から磨くこと。ふたりで食品を買い出しに行くときは、あらかじめ買ってくるものをメモ用紙に書くこと。それから、休みの日に布団を日干しするときは、じかではなく、布団カバーに入れてから日干ししないと気が済まないこと。いま、思いついたのはそのくらいか」
あっ。何かを思い出したかのようなタミコさんの声だ。
「布団。昼ごろ、啓子が布団を二階の窓のでっぱりから干してくれたんよ。わたし、昼ごはん食べてからうたた寝しとった。啓子、布団取り込んでくれたかなあ」
「二階の押し入れに入っていた布団ですか?」
「そうや」
「わたし、見てきます」和奈は応えた。
 タミコさんは「わるいなあ」と言った。伊勢志摩の方言で『すまないなあ』という意味だ。タミコさんの『わるいなあ』から感謝の響きを和奈は受け取った。
 かろうじて艶が残っている階段には所どころ補修した形跡が残っているが、一歩一歩あがっていくとギシッと音がした。段の端の方からわずかに聞こえただけなので、抜ける恐れはまだないだろう。階段をあがってすぐの六畳間が、娘の啓子さんがかつて暮らしていた部屋だ。去年の三月に訪れたとき、和奈と知加はこの六畳間に布団をふた組敷いて泊まったのだった。啓子さんが暮らしていた部屋には茶色い文机がぽつんとかたすみに置かれているだけだった。無垢材かなと思った。和奈は独身時代、土木事務所(役所)に勤めていたこともあって木の材質には詳しかった。啓子さんは学生のころ文机で勉強に励んでいたのだろう。セピア色に変化している箇所が見受けられた。鉛筆で書いた落書きもあった。東南側にある窓に近づいてカーテンを少し開けて、窓から顔を出すと、波切漁港が視界の左端に臨めた。係留されている何艘かの漁船は西からの淡い光を受けて、活躍の朝になるまでほわりと静かに時を刻んでいるようであった。
 啓子さんが住んでいた六畳間の南西側にはもうひとつ部屋があるのか、襖で仕切られていた。遠くに霞むような山、ふもとの渓流や松林を描いた襖絵は江戸時代の画風なのか、それっぽい。襖は三十センチほど開いていたので、となりの部屋を覗いてみると、三方の壁にペナントが貼られていた。すごい数だ。ペナントは観光地の風景や名跡を描いた土産物の類ばかりであった。現在、南米ペルーで暮らしているダイスケさんの部屋だ。ダイスケさんは二十六歳のとき、ペルーに移住して、首都リマの学校で現地の子供たちに日本語と英語を教えていると、タミコさんから聞いたことがある。
 あ・い・う・え・お・と数えていっても数え終わらない。ペナントは五十枚を超えているだろう。『箱根』は温泉でゆったりのんびりだ。『札幌』は白い時計台と青紫色の花。『妙高高原』は白樺の林を縫って滑降するスキーヤーたちだ。ペナントからは、その場所の特色や良さが伝わってきた。ダイスケさんは日本にいるとき、旅に出かけることが多かったのだ。
 階段を下っているとき、ボンボン時計が五時を知らせた。タミコさんの誕生日を祝う会を始めてもいい時間だ。食卓にはお寿司の盛り合わせ、取り皿、醤油の小皿、湯呑み、缶ビール、ビールグラス、皿に盛り付けられたいぶりがっこなどがならんでいた。
 祝宴や祭式という言葉があるが、タミコさんの誕生日会は去年と同じように淡々と始まった。『宴もたけなわ』という時間がやって来るわけではない。淡々と始まり、淡々と終わる。その時間の中にタミコさんの「生」のきらめきを感じとることができるかもしれない。
 生成り色の薄手のセーターを着ているタミコさんは、皿に取り分けたお寿司を一カンずつ、小皿に入ったわさび醤油につけて、慎重に口にはこんでいた。目が見えなくても周囲に不安を感じさせない所作であった。
「タミコさん」和奈はタイミングを見計らって遠慮がちに呼びかけた。
「ん?」
「ペナントが飾ってある部屋をはじめて見ました。ダイスケさんの部屋ですよね?」
「ペナント?」
「ペナントは二等辺三角形っぽい形をしていて、不織布でできていて、観光地の土産物屋で売られている記念品みたいな」
「ああ、思い出した。ペナントな」
 そう言うとタミコさんは鉄火巻きに醤油をつけてパクッと食べた。和奈はタミコさんの言葉を待つ。知加は、旦那さんが経営しているBARでも出している魚介のマリネを小皿に取り分けていた。
「魚介のマリネを食べると頭がよくなって、ミスが少なくなるのかな?」
「それはどんな意味?」知加の言ったことがわからず、疑問を投げかけた。
「魚介のマリネをミストマーレって呼ぶから」
「ちがうよ。マーレは海のものという意味だよ。ミストは何だっけ?」
「大輔は高校時代から旅行が好きやったからねえ。京大のときも札幌、富良野に行っていた。奥さんの倫子(みちこ)さんとは北海道で知り合ったんよ。いまは五年に一回くらい帰ってくるだけ。去年の年末に会った。ペルーと日本は季節が逆やからね。こちらが冬なら、向こうは夏。帰って来たとき、こんなに日本はさぶい(寒い)のかってブーブー文句たれとったわ」
 タミコは、ペルーに日本のお寿司を瞬間的に送ることができたらいいのになあと、ふとそんな考えが頭に浮かんできたのであった。

 (3)

 玄関の引き戸がガラガラッと開く音が聞こえた。啓子さんだ。
「かずちゃん、ともちゃん」啓子さんは大きめの声を出した。和奈は箸を置いて立ちあがった。玄関まで行ってみると、蓋付きの手鍋を腰の高さのところで掲げながら微笑んでいる啓子の姿があった。
「かずちゃん、玄関の戸、閉めてくれない?」
「はい」なぜ、啓子は鍋をかかえて固まっているのか気になったが、とにかく和奈は土間に下りて玄関の戸を閉めた。
「あったかいものがあったほうがええと思って、あさりの味噌汁つくってきたんよ」
「ありがとうございます」
 啓子は履いてきたサンダルをパパッと脱いで、上がり框に足を下ろした。
「啓子さん。旦那さんの夕飯拵えてきたん?」
 味噌汁の鍋をガス台に備え付けた啓子の方に顔を向けて、タミコさんは言った。
「うん。功ちゃんは夕飯食べるの、早い時間や。さっき生姜焼きつくって食わしてきたわ」
「ほう、そうか」
 啓子さんは、和奈と知加の服装を見て、「ふたり、対照的なファッションやなあ。個性におおとるわ(合っているわ)」と妙に感心する。知加さんはフード付きパーカーとブルージーンズだから、黒のニットにドット柄ロングスカートの和奈とは、たしかに対照的だ。
 啓子さんは、タミコさんの横の席に、あぐらをかいて座った。上下とも黒のトレーニングウェア姿だ。家ではときどきあぐらをかいて柔軟体操しているから、いちばん楽な座り方なのよと言う。
「ふたり、汗かき地蔵尊に寄ってきたん?」
「はい。汗かきの地蔵さんに手を合わせてきましたよ」と知加は自分のグラスにアサヒ黒ラベルを注ぎながら答えた。
「汗かき地蔵は鎌倉時代から堂の山薬師堂に祀られとる。吉事が起こるまえには地蔵さんは白い汗を掻き、凶事、つまり悪いことが起こるまえには黒い汗を掻く。神秘的や」
 啓子さんの言うことが納得できなかったのか、知加は「うーん」と意味ありげに言葉を投げかけた。啓子さんは、えっ?と言いたげな表情だ。
 和奈は、啓子さんのグラスにアサヒ黒ラベルを注いだ。
「汗かき地蔵さん、神秘的でした。威風堂々としていた。鎌倉時代から祀られているんですね。志摩の守り神かも」和奈は率直な感想を述べる。
「ふと思ったこと。地蔵さんはそれほど太っていない。汗かきの体質には見えなかったのです。すっきりした体型でしたよ」知加は、汗かき地蔵に対する疑問を口にした。
「まあ、しょっちゅう(頻繁に)、汗をかいているわけやないからね。阪神淡路大震災が起きた、あの日の朝は変やった。漁協に向かって歩いとったら、強い風が頬っぺたにぶつかってきた。小石混じりの風や。ありえへん。それから二十分後に地震発生や。これはえらいことやと思って、ラジオ聞いたわ。それからテレビも観た。高速道路が崩れ落ちたり、立派なビルがぺちゃんこになったり、この世の終わりみたいになっとった。その日、朝の十時半ごろ、汗かき地蔵さん拝みに行ったら、黒い汗をかいたような跡があったわ」
 啓子さんの言葉に知加は「えーっ!」と驚きの声をあげた。
 汗かき地蔵尊の話題をつづけるのか?
「ところで啓子さん、二階の奥の間にペナントがいっぱい飾ってありましたよ。ダイスケさんの部屋ですよね」和奈は意識的に話題を変えた。
「うん。弟の大輔は幼いころ、からだが弱かった。南米ペルーで活躍するひとになるなんて、思いもよらなかったよ」啓子さんはしみじみと言う。
 タミコさんは魚介のマリネをゆっくりと味わっていた。ちらりと横に視線を向けると、知加は旦那さんが仕込んだマリネを持ってきて正解だったと思っているのだろう。安堵の表情がうかがえた。
「ペルーは『セビーチェ』という魚介のマリネが名物料理や。セビーチェもこんな味かもしれんなあ」タミコは南米ペルーに思いを馳せた。
 母さん。おれは、あと四年で還暦を迎える。六十を超えたら日本に戻ってきて、志摩の子どもたちにいろんなことを教えるよ。待っていてほしい。
 国境を超越して、榊原大輔の力強い声がタミコの耳にとどいた。
「ああ、そうだ。『光の沼』という小説のなかに、わたしの好きな言葉があって、メモしてきたんよ」啓子さんは寿司をつまんでいた箸を置いて、トレーニングウェアのポケットからメモ用紙を取り出す。
「─アンタハ、イイノヨ。ソノママデ。アトハアシモトヲミテ、クイナッセ、ノミナッセ、ハシラッセ、トビナッセ、ヨー」この土地の古い言葉で『食べなさい、飲みなさい、走りなさい、飛びなさい』という意味の〈聲〉であると、啓子さんは言った。こえの漢字は難しい字だそうだ。志摩の別荘にときどき滞在していた小説家・稲葉真弓さんの小説『光の沼』からの抜粋だった。なんとも素朴で良い言葉だと和奈は思った。知加は、「なんか、いいですねー。うーん」と言った。タミコさんは言葉を味わっているのか、「なるほどね-」とつぶやいていた。
「食べなさい、飲みなさいはわかるけど、走りなさい、飛びなさいはイマイチわからないなあ。志摩の風土に合わないような気がします。啓子さん、どう思われます?」
 知加の抱いた疑問は素朴な疑問だと和奈は思ったが、啓子さんは答えを引き出せるのだろうか。志摩に伝わる古い言葉とのことだが、いつごろ生まれた言葉なのか。
「そうね。食いなっせの『なっせ』は志摩弁とはちがうからねえ。九州の熊本あたりに住んでいたひとが、志摩に移住してきて広めたような気がするんよ。こじつけかもしれへんけど、走りなさい、飛びなさいは漁師が漁に出て、さかなを釣り上げる仕事に、呼応する言葉じゃないかなと思ったりするんよ」
「なるほど。啓子さんの推察すごいですね」そう言うと、知加は啓子さんのグラスにアサヒ黒ラベルを慎重に注いだ。
「ともちゃんの旦那さん、バーテンダーだったよね?」啓子さんはふいに何かを思い出したかのように、知加に尋ねた。
「はい。津市の大門で『BAR ・SiN』を運営しています。小泉信次郎って名前から店名を付けました。政治家の小泉進次郎と一字違いなので、お客さんに名刺を渡すと、すぐに名前を覚えられるみたいです」
「日曜日は休み?」
「はい。日曜定休です」
「草のこと、頼みたいのよ。草刈りは、嫌いじゃない?」
「草刈りですか? そういった作業は嫌いではないと思います。マメなひとですから」
 啓子さんは、古い実家の周りにボウボウと伸びている草を刈りたいのよ、と言った。古い実家とは、タミコさんたち三姉妹が幼いころから住んでいた家で、いまは空き家になっているとのこと。ちなみに新しい方の実家とはタミコさんが住んでいる、この家のことだそうだ。
「息子の淳基は伊勢のタウン誌の編集なんかで忙しいから、なかなか帰ってこんのよ。娘の由有(ゆう)は鵜方で割烹料理屋やっていて、日曜は休みやけど、由有の旦那は志摩観光ホテルで腕を磨いたひとだから頼みにくいんよ」啓子さんはぼやき気味に言った。
「信ちゃんに頼んでみます。やんわりと」
「貧乏暇なしって言うけど、逆や。淳基も由有も小金持ちやろな」
 タミコさんの言葉に啓子さんは首をわずかに傾けながら、そこまでは知らんわ、と言った。
「いま思えば、古い実家が閉じられるまえは、恵美子さんがひとりで住んどったなあ」
 啓子さんの頭のなかに思い出のひとこまが浮かんだのだろう。
「ずっとひとりだったのですか?」
 啓子さんの言葉を受けて、和奈は尋ねた。
「いや。お母さんの静枝さんが亡くなったのが平成十年。静枝さんは明治三十八年生まれやから長寿やった。静枝さんが亡くなってから、十年か十一年、恵美子さんひとりで住んどったんよ」
「恵美子姉さんの人生は波乱万丈やったねえ」
 タミコさんはぽつりとつぶやいた。
「お母さん、爽健美茶飲んどるん?」
「うん」
 タミコさんはビールや炭酸飲料の類はあまり好きではなかった。
 啓子さんは食卓に置かれている『芋焼酎・木挽』900ml入りの紙パックに目を遣り、顔を綻ばせた。
「お母さん、さつまの芋焼酎あるよ。薄めのお湯割りつくったろか?」
「芋焼酎は風味がええなあ。飲むわ」
 啓子さんは、「よっこらしょっ」と立ち上がり、芋焼酎のパックを掴んで、和奈と知加に目配せしてから台所に向かった。知加が芋焼酎を買ったのは正解だったと思った。
「味噌汁もあっためるからね」と左手の台所にいる啓子さんの声が聞こえた。和奈たちは感謝の気持ちを投げかけた。
「えみ子さんは、うちの富美江(ふみえ)おばあちゃんの姉ですよね?」
 和奈は、タミコさんともっと話したい、話してみたい、そんな気持ちが湧きあがってきていた。
「うん。恵美子は長女や。富美江姉ちゃんは二十六で結婚。わたしはその三年後に結婚したんよ。せやけど、恵美子姉さんはなかなか結婚せんかった。選り好みしてたんかなあ? 三十七のとき、伊勢の畠田さんという居酒屋経営のひとと結婚したんよ。まあ、七年で離婚したこともあってな、畠田さんのこと、ようは覚えとらん。いまでも忘れられんのは、恵美子姉さんが三十歳を過ぎたころ、妻子あるバタやんと付き合って、ゴタゴタしよったことやなあ」
 タミコさんのまえの食卓に芋焼酎のお湯割りがそっとだされた。
 タミコは記憶の糸を辿りはじめた。タミコが二十七歳のときの出来事。六十二年という歳月は人の記憶をあやふやなものにしていたのだが。
「恵美子はほんまにあんごやねえ」母・静枝は吐き捨てるように言った。『あんご』とは馬鹿のことだ。恵美子姉さんは母と衝突してしまったのだ。恵美子は昨夜、ひさびさにバスで実家に帰ってきた。八ヶ月ぶりになる。去年のお盆休みに帰ってきてから、なかなか実家に顔を出さなかった。大王町波切と阿児町鵜方。恵美子が乗っている軽自動車『スバル360』なら鵜方のアパートから大王町波切まで三十分もかからないだろう。バスでも鵜方駅から三十分弱だ。タミコは、恵美子はバタやんと上手くいっているから、実家のことは頭から抜け落ちてしまっているのだ、と思い込んでいた。バタやんの愛称で呼ばれているのは田畑猛次郎だ。彼は宅地建物取引士の資格を有していて、鵜方の町で宅建業を営んでいる不動産関係の専門家であった。恵美子は二十九歳のときからバタやんの宅建事務所で秘書でもあり事務仕事もこなすという重要な役職に就いていた。最初の二年間、恵美子は波切の実家からバスで通勤していたのだが、三十一歳のとき、バタやんと親密な関係になったことで実家を出て、鵜方のアパートに移り住んだのであった。バタやんこと田畑猛次郎は交際して一年が経ったころ、恵美子に『結婚』の二文字までほのめかしてきたのだった。バタやんは四十代後半の年齢で、妻子持ちであった。バタやん家の長男は名古屋市で洋食調理師の仕事に就いており、いわば実家から独り立ちしているのだが、次男と長女はまだ学生の身であった。
 したがって冷静に思考を巡らせば、計算高いバタやんが妻と離婚して新しい家庭を持つことは考えられないが、惚れた弱みからか恵美子は、五十がらみの虚言を信じ込んでしまったのだった。
「バタやんに裏切られた。ちくしょう!」
 昨日の夜、徒歩ですぐのところにある実家に駆けつけたタミコは、恵美子姉さんから愚痴を聞かされたのだ。宅建事務所を辞めざるを得なくなるほど、関係は悪化していた。泥沼化の様態であった。恵美子の悲痛な叫びにタミコは暗澹たる気持ちになった。
 タミコは榊原甚吉と三月末の大安の日(二十六日)に結婚式を挙げたばかりであった。幸せいっぱいの日々であったが、漁業(甚吉の職業)の手伝い仕事や家事全般をこなさなくてはならなくなり、時間に追われてもいたのだ。恵美子の近況を気にかけて連絡を取る余裕はまったくなかった。恵美子は元気にやっていると思い込んでいただけに、バタやんとの破局や宅建事務所からの解雇は、寝耳に水のできごとであった。
「姉さん、車はどうしたん? スバル360乗っとったんよね?」
「バタやんに裏切られたんが悔しくって、アパートで一杯ひっかけてからドライブしとったら、志摩横山の細い道で脱輪してしもうてな。夜の十時ごろやった。警察呼ぶわけにはいかんから、朝まで車で寝とったわ。いま、修理と点検してもうとるとこや」
「姉さん、お酒を飲んで運転は、はざんてや(いけないよ)」
「そんなん、わかっとる。わかっとるけど悔しかったんや」
 居間からひとつづきになっている台所の隅(こちらからは死角だ)から、母の静枝は、じっと息をころして、恵美子を観察している。タミコにはそれがわかった。静枝は気性の起伏が激しい面があるので、恵美子と衝突しなければいいが、と思った。
 昨日の夜は三十分か三十五分くらい恵美子の話を聞いて、今後のことを話しあったのだが、タミコは、恵美子のちからになることは容易ではないと痛感した。慰謝料を請求するといっても婚姻関係にあったわけではないし、不倫の関係は女性側も『悪』とみなされる場合が多いのだ。
 そして今夜は母から電話があった。タミコが夕飯の仕度を終えた時間であった。「ちょっと来てんか。話したいんや」と言ってきた母の声は、憤懣やるかたなしといった調子だった。恵美子姉さんと揉めた顛末を聞かされることになると読めたので、すまないがひとりでご飯を食べていてほしいと、甚吉にことわりを入れてから、薄手のジャンパーを羽織って実家に向かった。徒歩二分の距離であった。
 母・静枝は夕飯の仕度をしている時間であったが──俎板のうえにじゃがいもと人参があった──中断しているのか、居間の藤の椅子に座っていた。
「あたまにきたから、はりみじい(はりたおし)たったわ。恵美子はほんまにあんごやねえ」
 母は吐き捨てるように言った。
「はりみじくって! 暴力はあかん! なんの解決にもならんやないの」
「せやけど、バタやんを刺し殺して自分も死ぬ、とか言いよるんよ。アホちゃうかと思う。いっぱつバーンと、はりみじいたらなわからへん」
「お母さん、気持ちはわかるけど……」
 母・静枝は、タミコに嘆き節を吐き出したことで気持ちの収まりがついたのか、夕飯の仕度をするために台所に戻った。
 短い包丁を器用に使ってじゃがいもの皮を剥いていたが、突然手の動きがぴたっと止まった。
「恵美子、どこ行ったんやろ?」
 居間にいるタミコの方を向いて、不安そうに言った。
「何時ごろ出ていったん?」
「出ていってから一時間は経ったなあ」
「うーん。わたし、いったん家に帰ってから、探しにいくわ」
 恵美子は遠くに行っていないはずだとタミコは考えた。バスで鵜方に行ったとしても、帰りのバスはない。気分的に鵜方のアパートには戻らないのではないか? 根拠はないが第六感がそう言っていた。
 恵美子姉さんが戻ってきたら電話で知らせてほしい、と母に告げて、タミコは自宅に向かって引き返した。薄暗くなっている防波堤沿いの道を歩いていると、右側に伸びている路地から恵美子が飛び出してくるのではないかと思い、目を凝らしてみたが、人の気配はない。闇が無言で伸びているだけだった。
 自宅に戻ると、甚吉はヤリイカの刺身を肴にキリンの瓶ビールを飲んでいた。タミコは寂莫(せきばく)たる気持ちをかかえていたが、甚吉はまったく気づいていない。柔和な顔で刺身を味わい、舌づつみを打ちながらテレビを観ていた。
「法政二高、強かったなあ。柴田勲はプロに行くかもしれんなあ」
 甚吉は、きょう決勝が行われた選抜高校野球のニュースを観て、ぽつりと言う。
「あの、甚吉さん」
「うん?」
「恵美子姉さんがおらんようになったんよ(いなくなったのよ)」
「えっ?」
「姉さん、母さんとけんかして、家を飛び出したんよ。わたし心配やから探しにいく」
「ちょっと待て。ひとりでいったらあかん。おれ、軽トラ出すわ」
「甚吉さん、ビール飲んでるやん」
「いま、飲みはじめたばっかりや。ぜんぜん酔うてへん。いっしょに探しにいこ」
「うーん。あのね。姉さん近くにいるんやないかな。第六感がはたらいたの」
「第六感か……」
 甚吉とタミコは軽トラには乗らずに徒歩で恵美子を探しに行くことになった。甚吉は懐中電灯を持って家を出た。タミコは手提げカバンに財布を入れて出た。恵美子を探すことにお金は必要ないが、おまじないのようなものだった。
 大万食堂、小林雑貨店、田中料理店で、姉が来ていなかったか訊いてみたが、無駄足であった。
「波切は狭い町や。恵美子さん、いくとこあるんかな?」
 甚吉は困惑顔であった。
「魚市場のあたりはどうやろ?」タミコは言った。
「魚市場? 漁協は閉まっとるで。おるわけないやろ」
「とにかくいってみよや」
 街灯の明かりがないアスファルトの道を懐中電灯の光を頼りに歩いた。波切の魚市場は、事務室と倉庫以外の水揚げ場は屋根があるだけなので、たやすく入り込めるつくりになっている。魚市場は明かりが消えていて真っ暗なので怖い。
 倉庫のまえを通り、事務室の脇をすり抜けて、ふたりは水揚げ場に足を踏み入れる。水揚げ場に入った刹那、タミコのからだは硬直した。何かの気配を感じたからだ。獣なのか、人なのか?
「誰かいる」
 タミコの囁きを聞き、甚吉は身構えた。身構えながら息をふっーと吐く。
「誰か、おるんか?」
 甚吉は呼びかけてから一歩、二歩と踏み出し、懐中電灯の光を水揚げ場の端の方に向けた。海に近いところの柱に凭れている誰かの背中がわずかに見えた。恵美子姉さんだ。直感でそう思った。
「姉さん、何やっとんの?」
「見つかってしまったか」
 恵美子はゆっくりと気怠そうに立ちあがった。
 駆け寄る。安堵の心地がタミコのからだに広がった。恵美子はこちらに向き直ったが、うつむきかげんだった。顔がはっきり見えないので、恵美子ではなくて別人ではないかと疑った。
「恵美子姉さんやな?」
「はあ? あんた酔うとるんか?」
「ごめん」
 タミコは二歩、三歩と踏み出して恵美子の手をぐっと握った。手は冷たかった。
「なに、しとったん?」
「暗い海を見とったんや」
「海は暗いで、見えへんやん」
「そうやな」
 恵美子はこのとき、「もう誰も信じへんわ」と言ったのだ。その記憶が、八十九歳のタミコのなかで湧きあがった。タミコは、「自分を信じることからはじめようや」とアドバイスしたのだろうか? 姉にそんなアドバイスができたのだろうか? できたとすれば、恵美子は多美子(タミコ)の言葉も胸にしまい込んで、死んでいったのだろうか。
「お母さん、あさりの味噌汁、湯呑みの右側に置いたよ」啓子は言った。
 焼酎のお湯割りが入った湯呑みの近くに、タミコは指を伸ばした。そこには味噌汁のお椀があった。味噌の香りがタミコの鼻孔をくすぐった。
 あさりの身を殻から取るのは面倒でもあり楽しみでもあった。

 (終章)

 翌朝。一階からボンボン時計の鳴る音が聞こえた。午前七時だ。和奈と知加は当初の予定どおり、タミコ家の二階、六畳間に宿泊したのであった。昨日はタミコさんから、昭和二十年の伊勢空襲の話を教えてもらったり、姉の恵美子さんがバタやんに裏切られて、絶望感に苛まれた話を聞いた。恵美子さんが裏切られた話は昭和三十六年のできごとだ。恵美子さんはバタやんと別れたあと、波切の実家に戻って、魚武商店の従業員になったそうだ。そして三十七歳のとき、伊勢に住む四十四歳の男性と見合い結婚したのだが、紆余曲折あって結婚七年目に離婚。その後は、八十歳で亡くなるまで波切に住んでいたという。
 和奈は、パジャマから黒のニットとドット柄ロングスカートに着替えて、一階に下り、歯を磨いて顔を洗った。智史はいまごろ津市を越えたころかもしれない。三十五分前、LINEで四日市を出発すると連絡があったのだ。洗面所と居間は障子で仕切られていないので、タミコさんが冷蔵庫から何かを取り出しているのが見えた。
「おはようございます」
「あっおはよう。その声はかずちゃんだね」
「はい。ぐっすり眠れました。きょうもお天気、晴れみたいです。昨日は三月なのに夏日でした。きょうも夏日になるかも」
「あったかいのはうれしいね。暑すぎてもいやだけど」
 タミコさんが冷蔵庫いや冷凍庫から取り出したビニール袋には六枚切りだと思われる食パンが入っていた。
「食パン、冷凍されているんですね」
「うん。ひとり暮らしだから、常温だと食べきるまえにカビがきてしまう。冷凍しておくのがいちばんだよ。かずちゃんもパン食べるかい?」
「いえ。ゆうべ、いなり寿司を食べきれなかったので、冷蔵庫に入れさせてもらいました。朝はいなり寿司とお茶にします」
 タミコさんの朝食は、トースト(ジャムは五種類から日替わりで)、ホットコーヒー、サニーレタスとカイワレのサラダを毎日食べているそうだ。和奈がやかんに水を入れてガスコンロにかけたところで、知加が一階に下りてきた。

 午前九時すぎ、智史から【波切到着】とLINEが入った。
 タミコ家にやって来た智史は、コンビニで買ってきたいなり寿司を差し出す。
「朝ご飯に丁度いいと思って、買ってきた」
「ありがとう。実はさっき、いなり寿司を食べたんだ」
 智史は困ったような表情になった。
「タミコさんの昼ご飯に丁度いいかも」
 和奈がそう言うと、智史は満面の笑みを浮かべる。そして、靴を脱いで居間に上がって、タミコさんと向かい合った。
 タミコさんは、智史の匂いを感じたのか、破顔一笑だ。
「タミコさん、昨日は仕事だったので、来られなかったのです。遅ればせながら、誕生日おめでとうございます。松田聖子と誕生日が同じなのはすごいですね」
「何がすごいのか、よくわからないけどね」
「いまからみんなで灯台に行きます。タミコさん、行きませんか?」智史は言った。
「わたしはおばあちゃんだから、灯台まで行きつけるかどうか?」
「途中でしんどくなったら、智史がおんぶしますよ」
「ええ。おんぶでも抱っこでもします」
 智史の誘い方がよかったのか、タミコさんも杖を片手に持って、大王埼灯台まで行くことになった。
 三月初旬にしては暖かい日になりそうだった。四人はタミコさんの家から出発する。柔らかい日差しが波切漁港や町に降りそそいでいて、誰かが悲しんでいるとしても、外に出れば、希望のひとかけらが見つけられそうな日だと思った。
「和奈。サリンジャーのナインストーリーズの読みすすめ方、小次郎さんに訊いたよ」
「どうだった?」
「一回読んでわからなければ、二回、三回読めばいいって」
 智史はそう言ってから、杖をつきながら歩いているタミコさんに微笑みを投げかけた。

 (了)

参考文献・稲葉真弓 「海松(みる)」より「光の沼」 新潮社 発行

 


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