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女傑列伝:高場乱

こんにちは!
志士たちを支えた女傑の物語シリーズです。

高場乱(たかばおさむ)と言います。
女性にしては(・・?なネーミングですね。
それは、女性武士になった故に父親から命名されたためです。
命名には、乱世を生き抜くためとの願いが込められていたようです。

彼女は、1831年(天保2年)福岡県の博多瓦町の眼科医の娘として生まれました。
幼少のころから、才気あふれ武芸にも秀でている才能が父からも認められ、男子として生きるように諭され本人も決意、何と藩からも快諾され帯刀が許される武士の身分になりました。

その後、漢学・医学を習得した乱(おさむ)はちょんまげを結い、心も言葉も大和男子になり、更に勉学に励むべく荻生徂徠派(おぎゅうそらい)の亀井塾に入りました。
※荻生徂徠は江戸時代に活躍した儒学者ですが、その知見の深さと柔軟な解釈は実にユニークですが、注釈では長くなるので続きは次回に・・・

この亀井塾は、身分や男女の如何を問わず引き受ける学風のため、自ずと破天荒な塾生が多く集まり、その中にがあこがる女傑がいました。


野村望東尼(のむらもとに)や原采蘋(はらさいひん)です。
女性でありながら、男装帯刀していた列記とした武士です。
その先達の影響もあり、10歳で元服してから乱は、男子の言葉遣いで、袴姿で馬を操り往診にも出かけていました。

尊王精神を抱いている乱、その心は京の町へと向いていましたが、武士と医師の二足のわらじで奔走していたため、また華奢な体質であったため地元を離れれられず、そこで若者に己の思想学問を伝えるべく明治6年に私塾を開きます。
当時42才。
その塾名は、興志塾(こうしじゅく)
人参畑に作ったため「人参畑塾」とも呼ばれ、また、優秀な塾生を輩出したため「梁山泊」とも呼称されていました。
※梁山泊(りょうざんはく) 水滸伝からの引用で、優秀な若者が集まる場所のたとえ。

荻生徂徠の精神が脈々と伝承され続けているのか、その人気は瞬く間に広がり、また自ずと集まる若者は血気盛ん、かつ変わり者の塾生が殺到しました。

入塾者は、新藤喜平太・来島恒喜・玄洋社の創設者当山満などなど。
特に、頭山は晩年「徹頭徹尾その教えは、実践的だった。」と懐古しています。

豪放磊落に成長していく塾生でしたが、時勢は不満を抱えた不平士族が台頭し、特に西郷隆盛が明治政府に反旗を翻したことを支持し「福岡の変」を起こします。

監督責任を問われ、塾生と共に捕縛された乱、本来なら死罪に当たりますが「監督責任を問うのなら、県令(知事)も県民の取締りがなっておらず同罪として私の首と共に晒してほしい。」と、少しも動じることなく持論を展開し官憲を論破しました。
その後、釈放されますが、の闘志は衰えることを知らず、残った塾生の頭山満が、玄洋社(向陽社)を立ち上げたことを全面的に支えていましたが、乱の思いとは裏腹に、自由民権運動の荒波は多くの塾生の命を奪い続けていました。

そんな折り、塾生の来島恒喜が時の外務大臣大隈重信に、爆弾テロを企て、来島も直後に自決するという大事件を起こしました。
短慮の行動を嘆き悲しむ乱でしたが、病魔が更に追い打ちをかけ、翌年(明治24年)に、一切の治療を拒んだ乱は他界しました。
享年59才。

柔と豪の精神を相持ち、武士道を全うした乱。
もし男に生まれていたら、どんな人生を歩いたでしようか。

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