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二・二六事件から 80年あまり

こんにちは!
今から約80年前の1936年2月26日から3日間、日本を揺るがした出来事をご存じですか。

陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。
このとき高橋是清、斎藤実など首相経験者を含む4名、警察官5名が犠牲になりました。
事件後に軍法会議が開かれましたが
  「一切非公開、弁護士なし
で、審議され刑が確定し、主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心にd死刑が執行されました。

この事件の背景は、何だったのでしょうか。

この事件から遡ること6年前、世界大恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。
次々と倒産する企業、失業者であふれる界隈、当然農村でも作物価格が下落した上、ふるさとの農山村に戻った失業者は多く生活は大変苦しくなりました。
中には、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。

こんな、国難に際しても、当時の政党内閣は何ら対応をとらず、反対に汚職事件が続発しました。
また不景気にも関わらず、巨大な資本を有する財閥だけが利権をむさぼり肥え太る状況が生まれました。
このため、人びとは政党に失望し財閥を憎み、満州などの大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。
こうした国民の支持を背景に、一部の軍部や軍に所属する青年将校たちの勢力が勃興し、右翼団体と協力して国家の一新を目指すようになります。

実際、過激な計画や事件が続発していきます。
クーデターにより軍政内閣の樹立を計画する陸軍青年将校の桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍の青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。

当時の陸軍には「統制派」と「皇道派」という2つの派閥がありました。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になり、政府や経済に介入し軍部指導によりに政府を変えていこうと考えています。
対して「皇道派」は、天皇親政を頂点に頂く国家を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派です。

両派の争いは「統制派」が勝利で決着します。
ところが1935年に「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山軍務局長を「皇道派」の相沢三郎中佐が斬殺する『相沢事件』などが起こったのをきっかけに「皇道派」勢いを取り戻し、1,483名の下士官・兵が蜂起し主要部署を占拠するクーデターを決行したのです。

青年将校たちは天皇を中心とした体制を掲げて『昭和維新』を決行、政治家と財閥の癒着を正し、経済回復を急ぎ不況の打破するなどを主張しました。

時の陸軍大臣も「気持ちはよくわかる」といったメッセージを出すなどして、決起した青年将校の要求に沿うように見えましたが、思いもかけぬ誤算がありました。
「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇は、彼らを「賊徒」と断罪し、政府に対する反逆者と見なしたことでした。
自分の重臣たちが惨殺されたことに昭和天皇は激怒し、自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで陸軍大臣に言いました。

天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことでした。
ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。
一転「反乱軍」として武力鎮圧を警告して、永田町一帯を陣取る軍へ原隊への帰還を求めました。
その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせましたが、将校の二人は武力行使の責任をとって自決。
その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考えて、裁判闘争に訴えようとしたものの収監先の『陸軍刑務所』からの、彼らの思いは斟酌されることはなく、事件の首謀者らは銃殺刑となりました。
こうして、クーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃されました。

翻って、現代の政治不信と経済の停滞の状況は、奇しくも二・二六事件前夜に酷似しています。
国民の政府への怒りがクーデターに繋がるようなことないでしょうが、この二・二六事件の教訓として政府も考えを変えたのは「排除では何も変わらない」「暴力では政治の改変はできない」ということですね。

二・二六事件の背景を深く知ることで、日本の「日本型組織の問題点」が見えてくると、ある大学教授は言っています。
その一つが「上司に恵まれない部下の悲劇」だと、日本の組織社会の闇と指摘しています。

この期に、二・二六事件について、触れてみてはいかがでしょうか。


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