【数とメンタル】出来ないのねという暗示に気づく

こんちゃんです。

「自分は数字に弱い」と思っているのは、家族など身近な人の言葉の暗示にかかっているためかもしれない、という話をします。


悪意のない刷り込み

数字に弱いという自己認識がある人は、

「あなたは算数数学ができないのね…」
「算数数学がもっとできていたら、〇〇校も狙えたのに…」

というような言葉を、家族や身近な人から継続的にかけられた経験はありませんか。

私こんちゃんも、家族から常々「あなたは算数数学ができない」と言われ続けた人間。

どんな感じだったかというと…


意地悪心よりは同情心で言っている

例えば点数の良くないテストを持って帰ると…

「あなたは、もうほんとに…算数数学が出来ないわねえ~(可哀想に)」

と、同情。

「何で出来ないの!?」

と、叱責されるわけではないところがミソですね。むしろ相手にあるのは「真面目に取り組んでいるはずなのにどうしてなのかしら」という同情心。

「は~~~~~哀れねえ~~~~~」

という調子で毎回、同情されていると、

自然と自分のほうでも「自分は数字に弱い可哀想な人間」というセルフイメージを作りあげていくものなのです。


「できないキャラ」化

このように、出来ないことを責められたりすることはなかったものの、

「数字に弱い」という「キャラ」が家庭内で確立されているため、たとえば何かの折に計算をするタイミングがあって、私がちょっと考え込んでいると、

「…プッ……(ほらほら、また分かんなくなってるんでしょ~~~~)」

という失笑が飛んできたりすることはよくありました。

こういうことが重なった結果、私は

数字にまつわること(算数数学の問題であれ、日常的な計算であれ)は、瞬間的に!「あっ!これはこうだね~♪」という感じで処理できなくてはならない。

という思い込みを持つようになりました。

クラスのできる子が、算数数学の問題を見るなりサッとひらめきサッと解いているように見えるのも、

陰でいろいろな問題にじっくり取り組んでいる時間を持っているからこそ。

そこに気づけず、ただただ「サッと分からない自分は、やっぱり数字に弱いんだ」と、間違った思い込みを持っていたのは、

他責的ではありますが、やはり上記のような家族のふるまいが影響していたと思います。


呪いが解けてから、見る世界

そんな私こんちゃんですが、あるときから、計算したり、数字に関する話に触れたりすることがそこまで苦しくなくなりました。

(このnoteでは、自己流で作ってきた、そういう計算をしたり数字情報に触れたときのイメージの方法などを書いていけたらと思っています。)

その状態になってから、家族と会話していたとき、いろいろと相手の言っていることに対して「あれ?」と思うことが出てきたのです。

・スーパーで「安い」と言ってモノを買ってきているが、どういう基準で安いのか、実は分かっていないのでは?

・その計算、0が一個多いけど、気づいてない?

などなど。

そしてついに、こんな見解に至ります。

あんなに私を「できないキャラ」扱いしていた家族も、実は数字に弱いのでは?

「自分は数字に弱い」と思い込んでいたときには見えなかったものがどんどん見えてきました。

・自分に足りないのは、「もともとの能力」ではなく、「技術」や「経験」であること。

・算数や数学は、時間をかけて自分なりに答えを出す、という過程が、自分に力をつけてくれるということ。

このようにはっきりと言語化することは出来なかったものの、「呪いが解けた」と言っても良い状況でした。


まず暗示に気づく、それから頑張る

「呪い」というと怖ろしいですが「暗示」と言いかえることも出来ます。

さて、このようなことがよく言われます。

「他人の言葉なんか気にしないで頑張ればできるようになる」

この考えは正しいと思います。

ただし、この場合は、頑張ろうと思っている本人に不要な暗示(あなたは〇〇が出来ない)がかかっていないことが前提になる、と今は思います。

不要な暗示がかかったまま、必要な技術を知ることもなく、ただやみくもに「頑張る」だけでは、本当に結果が出ません。

まずは、「自分はこれが出来ない」という現状認識について、

・なぜそう思っているのか?誰かからそういうことを言われ続けた経験はないか?

などと振り返ってみて、不要な暗示にかかっていないかどうか確認する、という段階をはさんでみてほしいと思います。

暗示にかかっている、と気づくことができれば、それだけで違ってきます。

頑張るのはそれ以降でも十分。ぜひ、ご自身の経験を振り返ってみることをおすすめします。

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