私の入信動機

  おはこんばんにちは。
かさかさたろうです。
色々な人がnoteで様々語られているのをみて、「自分も創価学会について語りたい!」と思ったのでnote書かせて頂きます。
少々乱雑になるかもしれませんがよろしくお願いします。

浄土真宗本願寺派の子ども

  私は福岡の筑後出身の両親の下に生まれた4人兄弟の3番目です。兄弟は上から兄、姉、自分、妹で見事に男女男女と産み分けられています笑
  私は1991年生まれですから、当時は専業主婦は当たり前に居ましたが、私の母は仕事で忙しく、子どもたちの面倒はほとんど父がワンオペで見てました(父も調理師としてフルタイムで働いていましたが…笑)。
  幼い頃から割と神秘的なものに興味があった反面、神仏を絶対と思っていなかった私は当然祀られてある阿弥陀如来やたまに連れていかれる太宰府天満宮、成田さんなど懐疑的な目を向けている部分が多かったです。というか仏像ってなんだか顔が怖いし、成田さんも同じ、神聖というよりは薄気味悪かったのが正直なところです。
  あとすごい今でも覚えているのが、母方のばあちゃんの世間話する時の愚痴の多さ。本当に信じられないくらい「この世には希望がない」みたいなこと言ってて、子どもながらにドン引きしてたのを覚えています。

優秀な小学生時代、悩みの深い中学生時代

  小学生の頃は本当に頭のいい子と思われてました。運動はぼちぼちだけど知識量がめちゃくちゃ多いし、大抵の話は少し聞いたら大人とも対等に話し合える。そんな子どもだったのでちょっと生意気な、でも愛らしいという評価を受けてたみたいです。
  転機は中学生時代でした。小学生から好きで続けてたバスケットボール。中学1年生の頃にオスグッド・シュラッター病という成長痛になりました。それも両足。

  これが、痛いのなんのって。中学1年生でユニフォームを貰って試合に出るくらいには上手かったんですが、そんなことはお構い無し。
  走ったりジャンプをしたりする基礎動作で走る激痛。そして、これが成長期が終わるまでは治ることは無いという絶望感。
  最初は「頑張れるー!」と思ってた自分もだんだん部活に行くのが嫌になりました。というのも練習ができない。バスケットボール漫画スラムダンクの三井寿の気持ちが本当によくわかりました。

  不幸は重なります。中学2年生になったある日、親父が倒れます(文字通り笑)。すぐに姉が119して、病院へ。病名は多発性硬化症。国指定の難病でした。

  親父は即入院。そして、残された私たち。
幸いにも母は割と経済力があったのでそこは何とかなりましたが、私の頭の中では

  「治らない病気って何?」

という言葉が鳴り響きました。
治療法が見つかってない。今のままでは治ることは無い。明るく働いていた親父が大好きでしたし、親父の料理人としての夢も知ってましたから、一瞬で絶望の底へ叩き落とされた気分でした。
  その日から自問自答の旅が始まったと思います。

師匠を探すこと

絶望の底にあった私は若干不登校になりかけました。家を出て、公園で一日中絶望に浸る。そんな感じでした。というのも当時母の年収をよく知らなかった私。
「家にも住めなくなるんじゃないか。引っ越さなきゃいけなくなるんじゃないか」
色々な不安で胸が押しつぶされそうでした。
家族は私がそんなことを思っているのは親父以外分からなかったみたいです(親父は実は私のことを1番心配していたようです)。
さらに多発性硬化症は口が動かなくなるような病気であれだけ明るかった親父が全然喋らなくなりました。

ともあれ、若い生命は絶望の中でも一縷の光を探します。
私は今まで本で読んだ内容や、人から話で聞いた事、実際に会った人の言葉や雰囲気など、持てる限りの知識や経験を総動員して、ある事を思索していました。

それは

絶対に幸せになれる法則を見つけること

でした。

もちろん思索中も本を読みながら考えておりました。

そして、実際にその法則は朧気ながら見えてきました。それとは

他者に尽くす人生

だったのです。それから、当時、死ねとか消えろとか、お前なんて価値がないみたいなことを言ってた自分をまず否定しました。人の話はどんな人でも聞くようにしました。

そんなこんなで、最終的に平和と健康と人生などについて思索を深めるようになり、最終的に辿り着いたのが、

師匠を探そう

ということでした。

そして、その思索も深まった中学三年生の時偶然ひょんなことから出会った先輩に後に折伏されることになります。

高校生の時代ー信心を始めるー

高校どこに行こうか迷ってた私ですが、その偶然出会った先輩と同じ高校に行くことにしました。1回会っただけの先輩が高校選びの決め手になるとは不思議な話です。
  高校に入学して、2年目の冬とうとうその先輩に折伏されたのです。

  私は池田先生の話をその先輩から聞きました。まあ、一言にして言えば「すごい人がいるんだよー」ですね。
  そして、会合に行き、勤行を初めてした時、全身が震えるほど感動したことを覚えています。南無妙法蓮華経、すごい。OK?

それから座談会と本部幹部会中継にも行きました。池田先生が当時はまだ幹部会に出席していましたから、必死で話してる様子を聞いていたのを覚えています。
  ガンジーの話とかしてましたね笑
もううっすらしか記憶にありませんが…笑。

長くなりましたが、与太話は本当にいっぱいあります。書ききれません。なのでそれは別の機会に。
最後に信心を始めて、貰った功徳のこと最後に紹介します。

遅刻魔が3ヶ月間無遅刻の快挙

文字通りです。私は本当に時間にルーズです…
ただ、勤行し始めて3ヶ月間は1回も遅刻しませんでした。友人からは奇跡だと言われてました。

親父が退院

これもほんとそのままなんですけど、入退院を繰り返していた親父が退院してずっと家にいるようになりました。

めちゃくちゃ喧嘩してた兄弟が喧嘩しなくなる

これもほんとにその通りなんですけど、それまでは本当に心の荒れた家庭だったと思います。一切喧嘩が無くなりました。

朝は太陽に夜は月に

私はこの時親の反対があり、入信が出来ませんでしたので、朝は太陽に向かって勤行し、夜は月に向かって勤行してました。
それからなんやかんやあって今があります。

ということ長くなりましたが私の入信動機終わります。

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