ゲーミング徒然草Part1

『うまおの真似すりゃうまおやぞ』って文を探しながら全部読んでるけどそこそこ親近感湧いて面白いから和訳してみた
和訳にあたって過激な文があるけど個人的におもろくなるようにやってるので私の主義主張とはあまり関係ありません
個人的に3段の「彼女おらんやつおもんない」を妻なし子なしが言ってるのめちゃくちゃツボです
和訳にあたって下記2つのサイトをめちゃくちゃ参考にしてます
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/literature_ja02.html
https://tsurezuregusa.com/

[古文]

序段.つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

[現代語訳]

暇やからスマホでツイッター開いてどーでもいいことポチポチつぶやくのなんか癖になるわ

[古文]

1段:いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事多かんめれ。御門(みかど)の御位(おんくらい)は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様(おおんありさま)はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方(しもつかた)は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢(いきほひ)まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(そうがひじり)の言いけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みおしえ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣り(こころおとり)せらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ

ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職(うしょく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。

[現代語訳]

さて人間は、この世に産み落とされたら、誰にだって「こういう風になりたい」という将来のビジョンが沢山あるようだ。

皇帝ともなるとあまりにも畏おそれれ多いので語るまでもない。竹林で育った竹が、その先端まで竹であるのと同じで、皇帝の系譜は、その末端まで遺伝子を受け継ぐ。その遺伝子が人間を超越して、わけが分からないものになっているのは、とても神聖だ。政界のナンバーワンである摂政関白大臣の外見が尊いことも説明する必要がなく、皇族の警備人とかでさえも偉そうに見える。その人の子供や孫がその後、没落してしまったとしても、それはそれで魅力があるように思われる。
もっと身分が低いゲーマーたちは、やはり身分相応で、たまたまラッキーなマッチングが重ってランカーになった分際で得意げな顔をして「偉くなったもんだ」と思っている人などは、他人からは、やはり「地雷プレイヤーだ」と思われている。

調整班くらい、他人から見ると「あの様には成りたくない」と思われるものはない。「人から、その頼りなさに樹木の末端のように思われる」と清少納言が、『枕草子』に書いているが、まったくその通りだ。出世した調整班が大きな態度で調子に乗っているのは、見た目にも立派ではない。蔵賀ぞうが先生も言っていたが「プレイヤーや、重役の顔色を伺うのに忙しくて、ゲームの画面と向かい合う暇がなく、ゲーマーとしての生き方と矛盾している」と思ってしまう。それとは対極に、もうどうでもよくなってしまうまで勝敗のことを捨ててしまったエンジョイ勢は、なぜか輝かしいゲームをプレイしているように感じられる。

ゲームをプレイしている人としては、腕前、礼儀が優れているのが一番よいに決まっている。そういう人は、何気なく何かを言ったとしても嫌みな感じがせず、魅力的だ。寡黙にいつまでも向かい合っていたい。

「立派な人かもしれない」と尊敬していても、その人の幻滅してしまうようなツイ垢を見つけてしまえばショックを受けるに違いない。「反応が良い」とか「ランカーの教えを受け継いだ」とか、そういうことは産んでくれた親や偶然と深く関わっているから仕方がないが、精神のことは努力して「スキルアップしよう」と思えば、達成できないこともない。腕前や判断が素敵な人でも、マナーが足りなければ、育ちが悪く生活態度が顔に滲み出ている連中に混ざって赤く染まってしまう。残念なことだ。

本当に大切な未来のビジョンは、刹那的な瞬発力、マクロな状況判断、チャット、そしてインターネットの作法で、人々からお手本にされるようになったら言うことはない。ゲームは優雅に勝利し、ネット上でもオフ会でもコミュニケーションが上手く、はにかみながら隙を晒すのだけど、実は潰しの攻撃を置いておくのが、真の美男子なのである。

[古文]

2段.いにしへのひじりの御世の政(まつりごと)をも忘れ、民の愁(うれい)、国のそこなはるるをも知らず、万(よろず)にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

『衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ』とぞ、九条殿の遺誡にも侍る(はんべる)。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、『おほやけの奉り物は、おろそかなるをもってよしとす』とこそ侍れ。

[現代語訳]

聖なる最初期のバージョンの環境を忘れて、プレイヤーの心配や環境の崩壊のことも考えず、すべてにインフレの限りを尽くして素晴らしい調整などと思い、「もっと自由度の高いゲームであるべきだ」とばかりにふんぞり返っている人は、何ともひどくて浅はかだと思う。

『キャラクター・装備などに至るまで、既存のものを用いれば良い。過度な強さを求めてはいけない』と、九条殿(右大臣・藤原師輔)の遺言状にも書かれている。順徳天皇が朝廷の決まりについてお書きになったもの(『禁秘抄』)にも、『課金スキンは、付属能力の無いもので良いとする』とあるのに。

[古文]

3段:万(よろず)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきの当(そこ)なき心地ぞすべき。露霜(つゆしも)にしほたれて、所定めずまどひ歩き、親の諌め、世の謗り(そしり)をつつむに心の暇(いとま)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

さりとて、ひたすらにたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

[現代語訳]

めちゃくちゃゲーム上手くても、彼女も作れん男は、たいてい面白んない。だから俺も夜露に服を濡らしながら、東京来たけど飲み行けるやつおらん? って声かけて回って、親の注意も世間の非難を聞くだけの気持ちの余裕もなく、彼女つくるためにとあれこれ思い悩んでるのよ。その結果、ネカフェで独り寒々と眠ることになったんだけど、その寝つけない夜ってのもまた味があるよね。

でも、ただ淫らに女を求める姫の囲いって思われるのもイマイチだし、俺みたいに女に軽い男と思われない程度に振る舞うのが望ましいやり方なんやで。

[古文]

4段:後の世の事、心に忘れず、仏の道うとからぬ、心にくし。

[現代語訳]

死んだら天国に行くか地獄に行くかいつも考えて、仏様の教えに従うの、ええことやな。

[古文]

5段:不幸に憂(うれえ)に沈める人の、頭(かしら)おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門(かど)さしこめて、待つこともなく明し(あかし)暮したる、さるかたにあらまほし。顕基(あきもと)中納言の言ひけん、配所(はいしょ)の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

[現代語訳]

「ほんまマッチ運悪いわ」と嘆いてる人が、突然ゲームソフトを投げ捨ててものの弾みで引退をするのではなく、門を閉じて自邸の中にひきこもり、目的もなくランクマを回している。そういう人になりたいものだ。顕基・中納言(源顕基)は『しょーもない負けを重ねた末にたどり着いた最下位マッチを無邪気な心で眺めていたい』と俗世からの解脱願望を語ったとされるが、私もそのように思っている。

[古文]

6段.わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。前中書王(さきのちゅうしょおう)・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。

染殿大臣(そめどののおとど)も、『子孫おはせぬぞよく侍る(はんべる)。末のおくれ給へるは、わろき事なり』とぞ、世継(よつぎ)の翁(おきな)の物語には言へる。聖徳太子の、御墓(みはか)をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや。

[現代語訳]

素晴らしいゲームならもちろんの事、取るに足りないゲームであっても、続編というものはいないほうが良い。前の中書王(中務卿・兼明親王)も、九条の太政大臣(藤原信長)も、花園の左大臣(源有仁)も、みんな自分の作品が綺麗に終わることを願っておられた。

『大鏡』では、染殿の大臣(藤原良房)も『続編制作チームなどいないほうが良い。ろくでなしの子ができるのは悪いことである』と語っていたそうだ。聖徳太子も自分の墓にするための筐体を買った時に『鍵をへし折って、調整用の扉を使えなくしてしまえ。LANポートに溶けた鉄を流し込み誰も触れないようにしろ。自分はアプデを入れるつもりなどはない』とおっしゃっていたと伝えられている。

[古文]

7段:あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙(けぶり)立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過す(すぐす)とも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

[現代語訳]

あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように環境キャラの人権が無くならないのであれば、このゲームの面白み・興趣もきっと無くなってしまうだろう。環境は定まっていないから良いのである。

命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のようにクラファン目標も達成できずに死ぬゲームもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずに最初のアプデでバグを抱えて全てを終えてしまうものもある。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一作のゲームのように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老害プレイヤーになるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ戦犯多し』とも言っている。長くても、せいぜい四十前に引退するのが見苦しくなくて良いのである。

四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に哀れな反応の遅さを晒して試合に交わろうとするだろう。潮時が近づくと、新人プレイヤーのことを気に掛けることが多くなり、そいつらが自分のマッチ帯に上がってくる将来まで引退を先延ばしにしたくなってくる。ゲーマーとしての安逸を貪る気持ちばかりが強くなり、読み合い・環境も分からなくなり、500バージョン前のセオリーを語り続ける。情けないことだ。

[古文]

8段:世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。

匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。

[現代語訳]

人の心を迷わすものといえば、色欲(性欲)に勝るものはない。人の心とは愚かなものだ。

女の匂いなんて本人の匂いではなく、服に付けた仮り初めのもの(焚きしめた香料の匂い)だと分かっていながら、いい匂いのする女に出会うと、必ず胸がときめいてしまう。久米の仙人が、洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという逸話があるが、本当にそういうことがあってもおかしくはない。女の手足・素肌が華やかに肥えて脂ののっている様子の美しさというのは、取ってつけた香料などではなく身体そのものの美しさ・魅力なのだから抵抗しがたい。

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