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入力と出力を相関させない~結論のないコラム

2018/05/15 水田道男

一部の知り合いにしか話していないのだが、年初から能の稽古に通い出している。最初に師事した先生の稽古場が私には通いづらい場所に移転したことなどあり1.5ヵ月の空白を経て、今月になって漸く新たな先生と出会えた。25歳の若き師匠だ。月に1・2回の稽古のみで、家で熱心に予習・復習をするほどの勤勉な生徒でもない故に、技量の上達はさっぱりであり、毎回冷や汗の連続である。
「2052 今後40年のグローバル予測/ヨルゲン・ランダース著」という本の中の「未来にふさわしいものを好きになる」というフレーズに触発されたことがきっかけである。未来を予測することは難しいが、古くから続くものは、未来にも残る蓋然性が高いのではないか、という推論である。能なんぞ、実は観たこともなく、師匠にも驚かれるのだが、何だか今回は身体が先行して動いている。

さて、周囲から色々茶々を入れられるであろうことは容易に想像できるにも関わらず敢えてこのようなカミングアウトをしたのは、リクルートワークス研究所の最近のコラム「労働政策で考える『働く』のこれから~“世界最低水準”の社会人の学び、越えるべき3つの壁」に刺激を受けてのこと。シリーズもので、まだ途中ではあるが、何となく私たちが日ごろ感じていることが様々なデータで確認出来て興味深い。

・年をとるほど学ばなくなる
・男性/正社員の40代での自己啓発活動の落ち込みが激しい
・特に、非管理職の営業職/事務職でその傾向が顕著である

そして背景として、
・労働時間は減少し自由時間は多いが、その一方で家庭生活における両立ストレスが少し増えている
・自分に投資できる金銭的余裕も減少している
としている。

コラムの論旨としては、この状態に対して企業や行政がどのような働きかけが出来るのか、ということにつなげて行くのだと思うが、私が気になったのは、「学習観」そのものを見直して行かない限り、この状態は変わらないのではないか、ということである。つまり、「入力と出力は相関する、あるいはその相関を数値や外在的なもので確認する」という学習観がベースになる以上、学習に対する意欲は多くの経験を積めば積むほど企業組織に属する人間においては構造的に減って行くことになるのだと思う。40代というのは、出力に対する冷徹な事実がリアルに突きつけられる世代であり、上述の学習観を前提にする以上、その学習から離脱するというのはある種の合理性を持つように思う。「人生100年時代。キャリアシフト!ライフシフト!」と、異国のスーパーエリートに突然言われたところで・・・というのが現実ではないだろうか。

では、その学習観をどのように変えるべきなのか?その為にはどうするべきなのか?
タイトルにあるように、残念ながら答えはない。答えを求める方は、入力と出力を相関させる学習パラダイムに居着いてしまっている(笑)!
ただし、それを探ってみたいという気持ちならある。実は、能の稽古を始めた最大の動機はここにある。出力のイメージは全くなし。稽古においても師匠は多くを語らず、普通の意味で言う入力も僅少。
このプロセスから何がどうなるのか?自分でも何をしているのかよく分からない。だから、当然他人にもよく説明できない。学びは投資とは言うけれど、投資の目論見書すら書けない状態。。。
しかし、入力と出力の相関を大事にする消費モデルの学習ではなく、先ずは身を投げるという意味での投企モデルの学習が成熟する日本においては大切なような気はしているのだが。。。
皆さん、どう思われますか? 学びは続く。

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