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Commencement:卒業式という名のはじまり

2019/01/28 水田道男

長女の成人式が無事に終わった。
広辞苑によると、成人とは成年に達する人のことで、その成年とは人が成長して完全な行為能力を有するに至る年齢のことを言うようである。完全な行為能力とは、随分大げさな定義だと思うが、思春期を卒業して、一人の大人になるあるいは社会的にはそのように認識される、ということであろう。

私は当日の運転手としてわずかな関りを持っただけであるが、半年ほど前から一族の女性陣を何かと巻き込み、大そうなイベントであったようである。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とはフランスの哲学者のボーボワールの言葉であるが、
さながら「成人になる(その自覚を促す)」社会的な通過儀礼としての意味合いは長女及びそれをとりまく私の家族においてはあったようである。

そんな慌ただしい14日の朝刊を読んでいると、「民法改正で、2022年4月から成人年齢は20歳から18歳に引き下げられるが、18歳成人式を決めた自治体は『現時点では聞いていない』(法務省担当者)」ということらしい。逆に「京都市は政令指定都市ではじめて式典の20歳維持を表明している」とのことだ。

元々20歳という年齢に明確な根拠を求めるのは難しい話で、「決めの問題」ということなのであろうが、通過儀礼という社会的資産をこんな簡単に、変えてしまってよいのか?という疑問は当事者であるからこそ余計に感じる。政治主導、経済優先と息巻いたところで、それらは社会のサブシステムに過ぎないということだろう。

通過儀礼といえば、長女はまもなく就職活動に突入する。これも、文字通り社会に社会化される為の壮大な通過儀礼なのであろう。経団連の「就活ルール」廃止の発表とそれに対する様々なリアクションにみられるよう社会的な関心も高く、個別の企業も様々なリソースを投入して、学生の通過儀礼を盛り上げてくれているように私には思える。その一方で、最近気になるニュースを耳にした。

「退職代行サービス」である。

組織開発を生業にするものとしては、これには心がざわつく。
個人の観点からみれば、ブリッジズのトランジション論を持ち出すまでもなく、新しい会社へ社会化される通過儀礼は、前の会社との関係にしっかり自分でピリオドを打つところから始まるのが筋だと思う。
一方で会社の観点からみても、どのような人材を登用するのか、ということ以上に、どのような形でだれが退職するのか、というのは今いる社員や未来の社員への強力なメッセージになるように思う。
外資系企業を中心にアルムナイという卒業生のネットワーキングの話はよく耳にするし、出戻り社員を歓迎する会社は組織開発視点でみると元気な会社が多いような印象もある。
やはり、退職時の通過儀礼を個人としても可能な限りきっちり通るということ、組織としても意図を持った儀礼のデザインをすることが必要ではないだろうか。
その意味で、Attraction(引きよせ)&Retention(引きとめ)に加え、Network(卒業前後の関係づくり)という視界で組織開発をデザインすることを意識したいと思う。
はじまりの物語は多彩で世にたくさん溢れているが、おわりの物語はモノクロですくないような気がする。

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