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社員への愛が、理念の起点

2018/09/25 水田道男

真意のほどは定かではないが、私が大好きなエピソードがある。
元リクルートの方から聞いた話で、創業者の江副さんがおっしゃったことらしい。
「お前たち管理職は死ぬまで働け。でも、俺は死んでも働くぞ。なぜなら、俺が残す会社のDNAは、俺が死んでも会社で活きてるからな」と。

最近、企業理念を構築するプロジェクトに多く関わらせて頂いている。経営陣ではない、ミドルクラスの選抜メンバーが喧々諤々の議論が出来るような場づくりの支援と、言葉の方向性をディレクションして行くことが役目である。そんな時に上記のエピソードを話すことがあったりする。選抜メンバーに対して、理念構築というミッションの重さに対する自覚を促すきっかけとして。

私はこうした理念構築のプロジェクトが(言葉が適切かどうかは別にして)大好きであり、自分のライフワークにしたいとも思っている。合理と情理、論理と直感、現実感と跳躍感、固有性と普遍性・・・いくつもの答えのない問いの間に線を引いてゆくような作業がとても好きなんだと思う。
この答えの定まらなさ故に、当事者同士のこだわりのぶつかり合いにもなり、それが思わぬ展開やドラマを興すことがある。先日も、プロジェクトメンバーから本部長・執行役員クラス以上が出席する経営会議にて新理念案を提案する場に同席した。会議では、ポジティブな反応を示す本部長・執行役員クラスと、慎重な姿勢を示す取締役クラスに二分され、膠着した状態に。すると、本部長・執行役員クラス一人ひとりが、自ら自分の決意・覚悟を述べる展開になり、最後は社長が賛意を示すことに。文章で書くと陳腐だが、様々な人間模様や、空気を読み合う激しいエネルギーの交換、そしてプロジェクトメンバーの鼓動が聞こえてきそうな沈黙。想定外の展開に、私自身の頭も心も激しく揺れ動く時間であった。

理念の「理」とは「ことわり、おさめる、みがく」という意味。語源は「玉」と「模様」の組み合わせで、玉を磨くことで模様を表すことを示していると言う。つまり、理念とは生まれる過程、そしてその後の浸透の過程において磨かれることで、企業にとっての本当の「念」になって行くのだと思う。

この「念」になって行くという文脈で大切だと改め思い出す言説がある。中原淳さんが、2009年8月号の「人材教育」でこう述べている。

「経営の神様と言われた松下幸之助さんはかつて、正月に全社員を集めて“ビジョンを語って”いました。そこで示されるビジョンは、どちらかというと、シンプルだけれども非常に難解なもの。平たく言えば、『どうとでも解釈可能なもの』が多かったようです。

重要なことは、松下さんがビジョンを語り終わったあとにありました。全社員参加の会議が開かれるのです。『社長の言っていたことは、こういうことだったのではないか』『いや違う。社長はきっと、こう述べたかったに違いない』と、社長の示したことを相互に解釈する会、ビジョンを語りあう会が開かれたそうです。そのうえで、今年1年をどのように過ごすか、自分の仕事のあり方、自分の職場のあり方を見直していたと聞いています。
松下さんはビジョンを語ることを放棄してはいません。しかし、そのビジョンをいかに解釈し、腹に落とすかは現場に委ねられていたのです。
とにもかくにもまずはビジョンがなくては始まりません。しかしそれは、きっちりしたものよりは、解釈の可能性を残すものであってよいのだと思います。より重要なことは、『ビジョンとは、現場の多くの人々のセンスメイキングによって腹に落ちる』ということです。
つまり、組織メンバーの相互の解釈の中で明らかになり、達成されるものではないでしょうか。トップができることは、『相互解釈のためのタネ』と、『タネを解釈し合う場をつくること』なのではないでしょうか。そして、ビジョンとは、それぞれの立場で解釈され、それぞれにインプリメンテーションされて初めて、効力を持つものなのではないでしょうか。」

この立場に立つことがとても難しく、でも重要だと実感している。言葉の作り手側からすると、なるべく完成度が高い=解釈の余地が少なく、立場・部門・職種を超えて理解しやすいものを求める傾向がある。しかし、この理解しやすいものは、現場に何の指南力も発揮しない。結局は、作り手側(多くは、最終的に決裁する経営者側)がどれだけ現場を信じているか。つまり、作り手側が現場に落とし込むのではなく、現場が主体的に「玉」を磨き現場に意味のある「模様」を織って行く過程を作り手側が愛を持って見守れるか、が力を宿した「念」に至るポイントの一つだと思う。

理念=フィロソフィーの原義は知を愛することだという。
理念の起点は、社員・現場への愛ということか。

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