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神に変わる虚構としての自由と責任

2018/10/23 水田道男

前号のブログで、野元が、「私が新卒で入ったリクルートは、当時『他責な人』を採用したらしいのです。社会に強い問題意識を持つ人を採る。そして入社したら撤退的に”自責性を高める”。すると、全権意識を持つビジネスパーソンが育つというシナリオだったらしいのです。」と、述べている。

なるほど、凄い戦略である。心理学をいち早く経営やマネジメントに活かしたリクルートさんらしい、とも思える。実は、この自責とか、自己責任とかは、最近私が気になるトピックでもあるので、この話をもう少し拡げてみたい(=収束しないですよ。明確な結論や指針もないですよ)。

最初にこれらのことに興味を覚えたのは、小坂井敏晶さんの「社会心理学講義」を読んだことがきっかけである。アイヒマン実験や、フェスティンガーの認知不協和理論などをベースに、「意思が生じる前にすでに行為の指令が出ている」「意思が行動を決めるのではなく、外界の力により行動が引き起こされ、その後に行動に合致する意思が形成される」と、当時の私の常識が大きく揺さぶられる言説に満ちた読書体験であった。そして、自責的な人間こそ、実は強制された行為を自己正当化しやすく、意見を変えやすいと喝破していた。自分で決めたことだから、何とかそれを正当化しようとするバイアスがより強く働くということである。

自責性の高い社員。
なるほど、経営者にとっては、これは有難い。それは、より早く成長してくれるという意味ではなく、マネジメント・コントロールしやすいという意味において。

小坂井さんの別著「神の亡霊」においては、こんな件もある。

同期入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、意地悪い上司の不当な査定のせいならば、自尊心は保たれる。序列の基準が正当でないと信ずるからこそ、劣等感に苛まれないですむ。(中略)公正な社会ほど恐ろしいものはない、秩序原理が完全に明らかになったら、人間は生きられない。

自責性の高い社員。
なるほど、経営者にとっては、これは有難い。それは、評価処遇を自責的に受け止めてくれるという意味ではなく、評価処遇制度の適度な曖昧さ・いい加減さを自ら進んで擁護してくれるという意味において。

私のキャリアの大半は、自責性の高い社員、風土作りを支援し、公平な処遇制度作りにエネルギーを注いできたように思う。

がしかし、これらは並び立たないのだろうか?
当然に、解は今のところ見えていない。存在するのかさえ分からない。

冒頭の野元が伝える、リクルートさんの考え方は一つの解かもしれない。私なりの解釈で言えば、相対化する視点を持つ、ということだろう。
でも、釈然としない気持ちは残る。
そもそも、どの問いに答えるべきなのかが定まっていないからだろう。

小坂井さんは、「主体を虚構と捉える本書は、遺伝・環境・偶然の相互作用として人間及び社会を把握する」と説く。企業組織に置き換えるならば、遺伝とは?環境とは?偶然とは?、
この辺りの問いを持ち続けることが当座出来ることかもしれないと、私は考えている。

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