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酔拳の謡い~結論のないコラム②

2018/06/05 水田道男

前回出力と入力を相関させない学びの探求という文脈で、能の稽古のことを書いた。
案の定、文脈を全く無視した茶化しにあって苦笑いの連続である。
まだまだ、「謡えません。舞えません!」と、はっきり言っておく。
とは言いつつ、今回も最近の私の関心事から、更に酔っ払い感の強い戯言を。

能と同様に、「未来にふさわしいものを好きになる」という考え方に触発され、最近意識しているもう一つのことが地元(宝塚市)とのつながりを増やすということである。
特段の必要はないのだが最寄り駅の近くにスモールオフィスを借りてみたり、休みの日には路地をくまなく歩き、少しでも自分の心が動かされる場所や風景を探してみたり、と。

その一環で先週の土曜日に、地元の街バルにも繰り出した。協賛する地元の飲食店が、500円~1,000円でその日限りのバルメニューを提供し、我々のような酒好きが多数のお店をはしごして楽しむというイベントである。
行ったことのない店に気軽に顔を出せるということで私自身は大いに楽しんだのだが、そこで気づいたことが一つ。土曜日にも関わらず、バルに繰り出している酔っ払いさんは、ほとんどが女性の二人連れかグループ。家族はほんの一握りで、ましてや私のような中年男性のペアやグループは皆無であった。
(ちなみに、私は嫁と二人で。。。)

前回は、中年になると学習をやめる人が増えるというのは、サボっている訳ではなく入力と出力を相関させて考える学習観を持つ以上、それは合理的な選択かもしれないということを書いた。
今回は、消費モデルの前提(=たくさんのお金を使う人ほど良い顧客となれる)に無自覚でいることの弊害を書いてみたい。

普通、私たちは出来るだけ高いものをたくさん買うことで、店にとって良い顧客になろうとする。だから、
普通のカードよりも、プレミアのついたカードを持ちたいと思うし、料理のコースであれば高い方を選んでしまう。そのことにより店の贔屓を得て、自分も心地よくなる。
ところが、街バルではその前提は成立しない。なんせ、大金持ちだろうが、学生だろうが、提供されるメニューは一律。そこに、妙な虚栄心や見栄が入り込む余地はない。
つまり、消費モデルに染まり切っている人が楽しめる余地が少ないのである。
だから、私もそのど真ん中にいるのだが、中年男性のバル参加者が極端に少ないのではないか。。。
消費者として楽しませてもらうことに無自覚に漬かり過ぎていると、街バルのようなコトづくりになじめない、あるいは自然と足が遠のくということが起きはしないだろうか。。。
ちょっと、こじつけた感じもないではないが、消費者側にではなく、提供者側には、楽しそうに店のお手伝いをしている、中年男性が一部いたのは事実である。

「未来にふさわしいものを好きになる」ということに戻ると、消費者でい続けることには、これから老いてゆく私の未来においては一定の限界があるのだと思う。買い手の自分ではなく、作り手の自分をどう作り、好きになれるか?サービスを買うのではなく、コトを遊ぶ。即時ではなく継続。貨幣交換ではなく贈与交換。そう言えばある店のおじさんが、「バルは業態を指すのではない。新しい文化を言うんだ!」と。

働き方改革、結構。人生100年時代、大いに結構。が、しかし、今のパラダイムの延長で労働期間が長くなるだけならまっぴら御免だ。
生き方を変える結果、働き方が変わる。その因果が、自分には心地よい未来を約束してくれそうな気がしている。

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