芸術(祭)の意義(ひろしまトリエンナーレ2020中止を受けて。)
本日の記事↓
「(社説)芸術祭の中止 うやむやは許されない」(朝日新聞 2020/04/16)
広島県 尾道市で今秋(9〜11月)開催予定だった「ひろしまトリアンナーレ2020 in BINGO」の中止が決まったらしい。(そもそも存在を知らなかった.....)
(中止決定に関する記事は最後に記載。)
話をまとめると、
本トリエンナーレが中止された理由は
表上の理由は、新型コロナウィルスの感染拡大。
1.来場者、アーティストの感染リスク
2.Artist-in-residence programを実行不可
3.誘致促進の困難
裏の理由は、去年大きな波紋を起こした「あいちトリエンナーレ(あいトレ)」出展作家の作品をプレイベントで出し、多くの批判が県に寄せられた事による大混乱。
1.県が出展作品を事前に全て確認すると突如表明
2.「検閲的だ」として、総合ディレクターの中尾浩治氏が辞任
「あいトリ」は、表現の自由の重要性、芸術監督の権限と責任、行政がすべきこと・してはいけないことなど、多くの問題を提起した。その教訓を正しくくみ取らず、むしろその逆を行った揚げ句、暗礁に乗りあげたというのが実態ではないか。
(引用:(社説)芸術祭の中止 うやむやは許されない 朝日新聞)
「あいトリ」が残してくれた教訓は、
1.表現の自由の重要性
2.芸術監督の権限と責任
3.行政がすべきこと・してはいけないこと
など(記事を参考)である。
つまり簡単に言ったら、
教訓を生かさずなんとなく進んだ結果、問題が肥大化してしまってどうしたら分からない→ちょうどコロナ問題がおきる→もう中止して問題を埋めてしまえ→放棄
なのかな、と。(あくまでも筆者の理解の仕方です。)
社説では、そんな風に問題と向き合わずに逃げてたら、後でもっと大きな問題になるだけですよ、ちゃんとコミュニケーションとって考えましょう、と言っている。
そもそも、教訓を生かそうとする意識と意気込みはあったのだろうか?という疑問はある。運営側が本当に「あいトレ」によって浮上した様々な問題が価値あるものだと真摯に受けたならば、コロナの影響で立ち止まっている時期だからこそ、中止する前に問題を本質的に解くための解決策や打開策、せめてその様な動きがあったはずではないかと考える。
中止後でも何かしら動きがあることを願いたい。
ちなみに、こんな約半年ほど先の予定を、コロナの状況をこれ程早く踏まえて迅速に中止まで判断できるなんて、この国や身近な大学教員たちの対応・判断の遅さを考えると何とも皮肉である。
芸術、つまりクリエイティビティの何が良いかって、既存の概念や常識を覆して凝り固まった脳みそを柔らかくしてくれる点であると筆者は考える。
現代芸術家の役割の一つは、社会に対しての問題定義である。
ちなみに、問題解決するのはデザーナー。
そして、地方にありがちな難点は、「保守性」である。
つまり、ひろしまトリエンナーレの様な地方での芸術祭の取り組みは、単なる地方活性化などといた政策・経済的効果という考え方を超えて、
・国際交流
・芸術家の視点
などが、住民及び地域を取り巻く「保守性」を解き放ち、良いバイブスがより良い地方を作るのだ。美しい資源が潤沢な地方を。
筆者はアート関係者ではないが、No art, No life である。
アートのない世界に新しい発展があるとは考え難い。映画、音楽も全て含めて。
余談だが、コロナ混乱によって、日本で芸術がいかに弱い立場にいるのか、日本の政府が文化・芸術をいかに軽んじているかがより明確化された気がする。国のトップに芸術に対する理解がある人が多いとは考えにくい......
惚れてしまったドイツ政府の対応に関する記事を参考までに。
「ドイツ政府「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」大規模支援」(Newsweek日本版)
「テクノは重要文化。ドイツ政府がベルグハインを文化施設に認定」(clubberia)
参考記事↓
「ひろしまトリエンナーレ中止「検閲的」、批判のさなか 新型コロナ」(朝日新聞 2020/04/11)