見出し画像

RE_PRAYにおける「僕は媒体」を語る その2

 前回noteの続きです。
 アマチュア時代、ソチ五輪の後くらいだったかな?何かの番組で「表現力はスケーティングスキル」みたいな事を言ってたよーに思います。競技における表現は演技構成点(PCS)で評価されるから、当時の羽生くんにとって表現は勝敗を左右する要素だったのかもしれません。
 そんな羽生くんが観客と繋がる表現を意識し始めたのは「Let's Go Crazy」からだったと思います。2016GPFを4連覇した後に「観客とのコネクトを意識した」とコメントしてます。この時は観客とプログラムの世界観を共有する、観客を沸かせるとゆーニュアンスに近かったように思います。
 その後、平昌五輪で連覇した後の会見ではこのよーに語ってらっしゃる。↓↓

芸術というのは明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力、芸術であって、それが足りないと芸術にはならないと僕は思っています。

2018年平昌五輪後、外国人特派員協会での記者会見より

観客とコネクトする表現も意識はしてるけど、表現とは技術とゆー確固たる思いが強く感じられます。
 ところが、プロ転向してからはそーゆう話をしなくなりました。その代わりと言って良いのか分かりませんが「羽生結弦は媒体」とゆー言葉をよく聞くようになりました。
 私の想像ですが、表現は技術とゆー気持ちは今も強くあると思ってます。でもプロの世界は技術の評価でお金を貰える訳じゃない。てゆーか、プロなんだから正しい技術は当たり前とも言えます。じゃあプロの表現とは何かと言われたら、お金を払ってでも観たいかどーかだと思います。
 お金を払う時って対価に見合う満足を得ようとして払いますよね。で、満足が得られなかったらもう払わない。つまりもう観ない。単純でシビアな話です。で、また観たいと思う原動力って何かと言われたら、やっぱり心が動かされるかどーかだと思います。でも心が動かされるかどーかは観る側の経験や心で変わってくる。(前回note参照) だから羽生くんがどんだけ素晴らしい表現をしても伝わらない人には伝わらない。もっと言うと、以前は伝わったのに伝わらなくなる時がある。例えるなら担降りとか拗らせちゃった人のこと。羽生くんはそれをよく分かっていらっしゃる。
 エンタメの世界って浮き草家業みたいなものだからファンの気持ちが明日どーなるかなんて分からない。身体が資本で怪我したら詰むし。大手事務所のタレントさんみたいに忖度される訳じゃないから週刊誌に好き勝手書かれるし下げられるし。プライバシーも何もあったもんじゃない。凄い実績があるんだから組織や権力とうまく付き合っていけば人生安泰なのに、そーゆうルートを選ばずに困難なルートを選び挑戦し続けている。凄いよね。
 話がちょっと逸れましたが、「僕は媒体」とゆー言葉には観客に評価を委ねるプロとしての覚悟を感じます。自分の表現、パフォーマンスだけを拠り所に挑戦する。だからこの人を応援したくなるんだ。
 単独公演3作目のRE_PRAYですが、今までに無い表現、魅せ方で、従来のファン以外の層にも刺さる作品になったと思います。特にゲーマーさん達。羽生くんに忖度する事なく評価するだろうゲーマーさん達を惹きつけ泣かせる。チケットは取りにくくなるけどファンとしては誇らしい。あなたには需要があると横浜でも伝えたい。いや伝えに行く。水色パーカー着て絶対参戦するからね!

おまけ①
ゲーマーさん目線の解説かと思いきや、スケオタもびっくりな深い解釈。ゲームやらない人ほど視聴してほしいにゃちだーやさんの解説動画、1時間があっとゆー間です。↓↓

おまけ②
ヒオカさんとお席がめっちゃ近かったかも。心の栄養は完全同意。↓↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?