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とある労働者の身勝手なシンパシー

2回目の育休後、職場に復帰した時、私は採用から8年目を迎えていた。

個人的には、育休をとっている期間は空白だし、むしろ経験値がリセットされてマイナスカウントになるべきだと思うのだが、
そうは見なされない職場なので、8年目ともなるとまあ中堅扱いとなる。

自分の仕事はできて当たり前、組織運営が円滑に進むように、
管理職の一歩手前の働きを求められる年代だ。

というわけで、復帰直後で電話の取り方から始めたい私の意向は無視され、10人1グループのサブリーダーとなった。特に手当はつかない。
更に、配属された新人の指導係、職場全体研修の役目も振ってきた。ついでにメンターもどうかといわれたが、さすがにそれは辞退させてもらった。
8年目なら普通の分量だとは思う。
ただ、私は時短を取らせてもらっている。
1日2時間、5日で10時間。実質週4勤務しているようなものだ。
皆と同じだけの担当量に、新人教育、何かと降ってくる雑務。

なんだかな、と思いつつも、上司(決済のみで実務はしない)とリーダーと私と新人さん以外の人たちは契約だったりアルバイトだったりなので担当分以外の仕事を振るのも躊躇われる。
「とりあえず、新人さんがなる早で稼働してくれることを祈ろう」
「ですね」
リーダーとそう打ち合わせて、4月の新体制はスタートした。

初めの山場は6月の締めだった。
それまでに終わらせないといけない膨大な量の単純作業があった。
日々のルーティンについて新人さんに教えつつ、その山場に向けて準備していく。
新人さんはいい人だった。
一生懸命、自分で調べようとしている。
だが私は4時に帰らないといけない。
一緒に調査に出たり、電話のやり取りを聞いて訂正したり、書類の作り方を横で見ていると時間はあっという間に過ぎてしまう。
4時になれば走ってバスに乗り、電車を乗り継ぎ、自転車に乗って保育園(2か所)にお迎え。
子どもを前と後ろに乗せて、金曜日には布団セット(布団セット!!)を担いで帰る始末。
雨が降っていた時にどうしていたか、リアルに記憶にございません。

5月、私は自分の誕生日に夫に頭を下げて「どうしても締めに間に合わないから、この日は残業させてくれ」と頼んだ。
それがお誕生日プレゼントだった(思い返すと全力でなんだかな案件)

6月の山場を終えて、8月頃には新人さんはひと通りのことをこなせるようになってくれた。
喜ばしい事だが、すると気が抜けたのか、私は毎朝、出勤時に相当気合をいれないと家から出られなくなる症状に見舞われた。
足が動かないのだ。
なんとか電車にのって、職場の最寄駅についても、そこから職場までの道のりが激しく足が重い。息苦しい。
目に見えないスライムのような低反発の壁にめり込んでいく感覚だった。

なぜだろう。
1度目の育休からの復帰の時は、体調不良のオンパレードで死にたくなった。(拙note:『2月のベランダ』参照)
あのときにくらべれば、家族は比較的元気だ。
子供たちは2人ともよく頑張っている。
新人指導もある程度、形になったのだから、あとは自分の仕事をやればいいだけ。
夏季休暇も付与されたことだし、一日休んで立て直そう。
そう思って何度仕切り直そうとしても、毎朝身体は重かった。

乗り換えがどうしてもできなくて、
途中下車で一旦カフェで休んでから出ないといけない日もあったし、
休憩してすら行けない日もあった。
お腹がいたい、手足が痺れる、頭が痛い、息が苦しい。
職場に行けさえすれば、なんとかなる。
フルパワーで案件を処理し、メンバーの様子を見て、上司に報告する。
昇格試験の話もあったから、空いた時間は勉強しないと。
それとは別に自分の取りたい資格もある‥‥‥。
最低限のことすらできないのに、色んな考えがぐるぐる回る。
そして何もできない自分にとてつもなく自己嫌悪する。

完全なメンタルダウンだった。

過去に一度、死ぬことを考えて計画を立てたが未遂に終わった身としては、死ぬほどのことではないなという見通しは立っていた。
(二度と後妻候補に手紙なんて書きたくない)

ノートに現職のメリット・デメリットを何度も書いて、
要は、私はもうこの仕事を続けられないのだということに思い至った。
判断基準が曖昧な割に、求められるものが多すぎる、3K上等、年々ブルシットなルーティンワークが膨れ上がる現状に辟易している。

私がこの職場に残る理由は、慣れた環境であること、時間や休暇の融通が比較的利きやすいということだけだった。
じゃあ転職活動をしよう。
そう思って、秘密裏に転職活動を始めた。
程なく、パート採用で仕事が決まった。
私は上司に相談した。

「転職したいので、退職したいです」
「なぜ?」
(嫌だからだよ!)
そう言いたかったが、流石に憚られて「家庭と仕事の両立が困難で‥‥‥」というと上司は首を傾げた。
「そんな風に見えない」
(まじかよ)
その頃の私といえば、月曜、木曜の朝はほぼ毎回時間休を取っていたし、
同僚にも「顔死んでるけど大丈夫?」とよく言われていた。
毎日出退勤の報告はしているのに、何も気づいてないのかこいつ。
「もったいない」
そう言われると、転職したいという気持ちも萎んでしまった。
「異動狙えば?12月に社内公募でるでしょ」
「‥‥‥」
12月どころか、月末までも保たないくらいの気持ちだったのだが、そう言われると「こんな状態で、新しい職場でやっていけるのか」という不安がもたげてしまった。
こんなに休んだりなんだりできるのも、今の職場だからこそ。
新しい環境で自分が通用するかもわからない。
足がすくんでしまい、続投することになった。
「‥‥‥がんばります」
そう言ってしまった。
私は逃げ遅れてしまった。
因みに11月に、グループ内から1人病休者が出た。
この時ほど、自分の判断ミスを呪ったことはない。

この身の上話から、私が言いたいことは何か。
意外と、人は他人の様子について気づいていないということと、
無理だと分かった時はなりふり構わず逃げるべきだが、逃げるには思い切りが必要、ということだ。

私は毎日、必死の思いで身体を引きずって出勤して、
息も絶え絶えで仕事をしているつもりだった。
当然それは周囲に伝わっていると思っていた。
ところが、直属の上司にすら伝わっていなかった。

そして、いざ辞めるという段になって、余計なことをあれこれ考えてしまい、上司の引き留め(というほど強い慰留でもなかったが)に頷いてしまった。

今回の宝塚の件で、私は亡くなってしまった彼女に身勝手に自分を重ねてしまった。過重労働、新人指導、板挟み。いっぱいいっぱいの状況なのに気づいてもらえず、降りかかってくる仕事に叱責。
辞めたいと思っても、この日まではやらなくては、とつい考えてしまったのだろうな。周囲に色々気を遣ったのだろうな、自分が不義理な辞め方をしたら、家族に迷惑がかかると考えたのだろうな、と。
誰も、本当の意味で彼女の死を予見できてはいなかったのではないかと思う。
ギリギリまで笑顔で、毎日懸命に、勤めを果たしていたのだろう。
ましてや彼女は、自分の仕事を、舞台を愛していた。
——そう思うと、とても切ない。

勝手なシンパシーを感じてしまった身としては、
これ以上彼女が、体制批判のアイコンとして使われることなく、
安らかに眠れることを祈るばかりだ。

多分この先も、私は彼女のことを「もしかしたら自分が陥ったかもしれない可能性」として、時折偲びながら生きていくだろう。
その度に目を伏せて、彼女の魂の安寧を祈る。
そんなことは、台だの碑だのがなくてもできると思う。

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