「人の心」について書いたよ。長いけれど、ここに残しておくね❗

〜「美酒」〜

私は哲学者でも宗教家でもなく

地位や名誉も無く、只々生きた人間です

想い返せば長いのか短いのか

40の年月の間、私が見て、感じ、考察した事柄を敬愛する偉人達の言葉を借りながら

ここに残したいと思います

多く、そして深く考察して得た「何か」の

美しさを知り、その置き場を探しておりました

人生の機微は様々在りましたが、少なくともその「何か」に護られ、救われ、今の私が在る事は、間違いの無い事実です

「人が壁を乗り越えた時、その壁はその人を守る砦となる」

私が人生の何かを語る時

始まりとなる言葉は「欲」です

「欲」の色は様々です

「その人の精神性の段階」にもよります

ですが基本的に、欲は抑えるものではなく

叶えるものであり、独りで叶えられる欲望は叶えれば良い

誰かの力を借りれば叶えられる欲望であるならば、素直にその「欲」を相手に伝え、その上で「お願い」をする事

伝える事をはばかる「欲」であるならば、

それは「物事の道理に反する欲」とします

それでもそれを押し通すなら、「相手と自身への敬意の欠如」となります

これは、これからのお話の軸となります

そして常に、「心(想い)」と「思考(思い)」と「肉体(行動)」を伴わせる事です

これらが、私にとっての「三位一体」となります

どれかだけに傾倒してはなりません

刹那的な偏りがあるにせよ

必ずそこに戻る事

その為に、心の「バランス」を取る必要があるのです

それにより、行動と思考の程よい抑制と舵取りをする事が可能になります

私がこの人生で得た最境地がそれに当たります

それを可能な限りわかり易くお伝えします

メトロノームは左右に振れます

仮に左をプラスとし、右をマイナスとします

これを人の心とします

その針には、バランサーが付いています

これが重要です

それを得るには、知識、経験、等が必要となります

何故ならば、意図して針の振れの調整をする為です

物事の見方、視点の数、想像力のなせる技と捉えても良いでしょう

その視点も多ければ良い訳ではありません

多ければ多い程、選択肢が増える事でもありますから

人生には、取捨選択が付き物です

ですが、その選択を容易にする方法はあります

それは、自分なりの「道理」を持つ事です

この「道理」が、心の軸となります

戻る場所と言っても良いかもしれません

この「道理」を得るにも

知識と経験が必要となります

知識が多ければ良い訳ではありません

思考(思い)だけが長ける事になりますから

経験が多ければ良い訳ではありません

要らぬ苦労はしないに越した事はありませんから

要らぬ苦労をしない為にも知識が必要となります

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

知識(思考)を得て、経験(行動)し、納得すれば腑(心)に落ちる

「三位一体」です

これらは、一体であり、その為、順不同です

人により、始まりはそれぞれな為です

そして、「三位一体」を得るには正しさが必要となります

その正しさとは、常識的である事、大多数の意見などではありません

自身の心が知っています

その心が指し示す言葉としては

「夢、希望、理想」です

「敬意」や「畏れ」と言っても良いでしょう

そして、それ等に類するものを何かや誰かに見出したなら、その情報(知識)を取り入れる事です

ここからが大切な事です

その情報を元に「実践(経験)」をする事です

それを弛まず繰り返す事で、

「知識」は「心掛け」となります

失敗(道に外れる)事もあるでしょう

成功(道に即す)事もあるでしょう

それが経験値となります

そして納得となります

すると腑に落ちます

その「心掛け」が、自身の生活の中で、そうで在る事が「当たり前(自然)」なものとなれば、その知識は貴方のものとなります

「身に付いた」状態となるのです

様々に「身に付けた」心掛けが積み重なり、軸(道理)となるのです

「土台」と捉えても良いでしょう

「習慣が人格を作る」と

言われる所以が、そこに在ります

しかしながら、この道(経験)にはいくらでも、これでもかと言う程の罠があります

その為、貴方がその過程にいる時、貴方には苦しみが訪れる事でしょう

それはメトロノームが右(マイナス)に振れる時です

そうなる理由もあります

次の2つが全てではありませんが、精神性を求める道を歩む時、現れる色かと思います

得た知識が上手く活かせない時

得た知識のハードルが、その時点の貴方にとってとても高い時

「知識を得る事が、時に苦しみを伴う」と言う所以がそこにあります

総じてお伝えしておきます

私がお伝えしたい事は、現実(世間的)成功と言うよりも、人格的成功(人間的成長)を意味する事です

話しを戻しまして

その苦しみの本質を探してみてください

私に浮かぶものは

「その知識に達していない現実の自分」

理想の自分に達していない今の自分を観る事となるのです

つまりは、「理想の自分」と「それに至らぬ現実の自分」とを比較している状態です

その差に苦しみを持つのかと思われます

ここで一つお伝えしたいのが

「焦る必要はありません」と言う事です

生き急ぐ必要はありません

何故ならば、

右(マイナス)に振れたハリは、自然に左(プラス)に振れます

右(マイナス)に振れた時点で、それは決まっていますので

そして、左(プラス)に直ぐ振れる人と長く右(マイナス)に留まる人がいます

その理由もあります

右(マイナス)に長く留まる人

それは、その苦しみを何とかしようと

新たな知識を得て更に苦しみが増す

もしくは、その苦しみを共有しようと

誰かに話をする事で産まれます

知識を集めてはいけない訳ではありません

人にその話をしてはいけない訳でもありません

前者に関しては

知識の幅が広がり、深みが出るプラスがあります

但し、苦の時間が長くなるマイナスが伴います

後者に関しては

話す事で理解が深まります

それと、替えがたい方(同志)と出会うプラスがあります

但し、話す人間を間違え、苦を増すマイナスもあります

ですが、忘れないで下さい

どれを選ぼうとも、「偉大な経験」となります

その苦しみを知ることが出来、

人を観る洞察力(審美眼)を身に付ける事が出来ます

それ等を反復する事により

これからの貴方の人生の糧となる事でしょう

その糧は、やがて灯明(道理)となり

その時の貴方の足元を照らします

そして、先の道を照らします

照らされたその道を進むなら、やがては人格的な成長を遂げ、誰かや何か、自分以外をその灯明は照らす事となります

すると知らず知らずの内に徳が積まれます

そうなれば更に安寧を得ます  

貴方がそんな貴方として生きているだけで、誰かや何かに何らかの影響が出るからです

それがお釈迦様の伝えるところの

「自灯明」かと思われます

メトロノームに戻りますと

何が重要となるかが観えて来ます

結果的な到達点は

左(プラス)に振れすぎず、右(マイナス)に振れすぎず

「中道」となります

人の心は必ず

右(マイナス)に左(プラス)に振れます

ここからは、一つの対処法としての

お話です

その前に、「神様」は存在するのでしょうか?

私は存在すると只々思っています

「信心」と言われるものです

ですが、昔から「天誅」「神の裁き」「審判」等の表現が存在しています

これは真実でしょうか?

神様の行いなのでしょうか?

私はそうでは無いと感じています

大概が「人誅」かと思います

その理由を伝えます

私達が暮している国に法律が在る様に

この世の中、宇宙に法律が在るとします

神様を人格的に捉えると、その法律を以って

「人間に罰や制裁を下す」イメージとなります

ですがそれを一旦脇に置きまして

神様を人格的ではなく、私達の「心」を動かす原動力たるものと捉えてみてください

そこに意思や意図はなく

只々注がれるエネルギー

メトロノームの様に

右(マイナス)や左(プラス)に動く為の電源

そしてそのエネルギーはプラスとマイナスのどちらにも働きます

その事を「神の力」と捉えます

すると我々人間のする事は

その膨大なエネルギーを調整して

自分の人生に活かす事ではないでしょうか
力を得た者には、それを行使する義務とそれを調整する責任が伴います

メトロノームには調整の為のバランサーが付いています

振れ幅を大きくゆったりとさせる事も

振れ幅を小さく俊敏にさせる事も出来ます

そのバランサーに当たるものが

「理性」と言えるでしょう

理性と言うと、何かを抑える為のもの

西遊記の悟空の頭の輪

車輌で言えばブレーキ

を想像しがちです

ですがこれは、理性を以って、感情的、想いのままになってはならない事を意味するものではありません

人間は感情の動物です

野蛮性も備えています

感情的で在る事は、自然な事です

では理性とは?

それは冷静である事です

物事には「原因」と「結果」が有ります

冷静である事は、それらを観抜く力の事です

その力(冷静さ)が、心のバランスをとる事となります

これが、対処法です

心はプラスとマイナスに振れるとお伝えしました

その作用が「原因」と「結果」を創ります

自分の心に焦点を当てた時

それは如実に現れます

ですがその振り子の現象が、貴方自身の道理を知る糧となり、心のバランスを保つ理性(バランサー)を得る事にもなるのです

これが「経験」です

プラスにも行き過ぎず、マイナスにも行き過ぎない事

人が人格者を語る時、心動かさず

微動だにしないイメージを持つかと思います

それは誤った解釈

誤解です

彼らの素晴らしさとは

バランサー(理性)の精度の高さと、それを駆使した変化のスピードに在ります

的確であり巧妙です

「道理」をわきまえ、想像力を駆使し、視点を変え、一所、つまり、偏りの修整に長けているのです

例えば、凡夫に「喜び事」が有ったとします

当然心は喜びます

そしてその永続を期待します

するとそれを保とうと欲を持ちます

欲のままに動きます

更にプラスに傾くでしょう

更にその永続を期待します

プラスの時間が永くなります

更に心は喜びます

有頂天になり進み続けます

やがて針が右(マイナス)に振れる時が訪れます

その反動たるや、プラスと同等に

マイナスへ振れます

右(マイナス)へ振り切った針を目の当たりにした時、凡夫はそれを地獄と呼びます

逆も然りです

「この世の天国と地獄は胸三寸に在り」

自分自身で天と地を創ります

それが、「人それぞれが創造主」たる所以です

私はこの現象を「因果応報」と呼びます

人によっては、「天誅」「神の裁き」「審判」と呼ぶのでしょう

ですがそれらは、「因果応報」の為に起きた事柄ですから、私はそれらを「人誅」と表するのです

お釈迦様は言いました

自灯明(自身の道理を持つ事)

そしてもう一つ残しています

それは「法灯明」

それ即ち

「因果応報」の法、と私は捉えます

この世界の、宇宙の、そして、自分自身の心の法則

では、どの様に在れば良いでしょうか?

先の例を挙げますと

喜び事を只存分に喜ぶ事

ですが、その喜び事は自分自身の運や力を以って起こした事だけでは無く、周りの方、周りの物、勿論、自分自身の努力もあり、起きた事と捉える事

つまりは感謝(有難き事)と捉える事ではないでしょうか?

それが出来たなら、「喜び事を素直に喜んだ」、有難し となります

そしてそれにて、プラスへの傾きは必要最小限になるのではないでしょうか?

私は、感謝の気持ちは好きではありますが、

感謝と言う言葉はあまり使いません

何故なら、感謝と言う言葉を使い、自分自身を「尊大な存在」であるかの様に振る舞い、他を優越するだけの人種が居るからです

複雑なこの世の人の事情がそこには在ります

それは、言葉を扱う人の「精神成熟度」です

扱う言葉の意味を思慮せず、経験は浅く、ハリボテのままを大義と思い、振りかざす輩がいるのです

苦しみの時、話す相手を間違えない様にする意味がここにあります

「はじめに言葉ありき」

この世は言葉により、成り立っているのです

名によって縛られていると言っても良いでしょう

年齢や性別、各種立場などが、その一部で、全てに名があてがわれています

「感謝」も然りです

そのそれぞれを「優劣」の判断材料とせぬ為にも、扱い方を間違えてはなりません

いかなる言葉を用いようとも、敬意無くして人と人との真当な信頼関係を築く事など出来ません

そして、この判断基準(優劣)を以って「道理」を得る事は叶わないでしょう

人間関係とは、各々の「業(ごう)と業との関係」でもあります

まずは自身の「業」と、その成り立ちを知る事です

「業」とは、

産まれる前からの「因果」でもあり

産まれた後に、自身の心と行いで創った「因果」でもあるのです

それが観えたのなら、真摯に受け止め、自身のその「業」の解消に励む事です

それが、「道理」を得る事にも繋がるのです

「君子危うきに近寄らず、その交わりは淡き水の如し」

君子(道理を得た者)は、危うき(己の道理に外れる事柄、又はその人)には近寄らず、その交わり(事柄や人との関係)は淡き水の如し(さらりとしたもの)である

道に外れる哀しみを
自分に背負わせては成りません。

~獣の道~

王者たらしむ風格と

牙の磨きは誇らしく

他の者寄せぬ眼の光

光頼りに歩んでみれば

小さき川の渦の中

溺れる川の心地良さ

もはや助ける手立て無し

渡す掌振り払い

溺れに溺れて行き着く先は

憐(あわ)れ足付く水底よ

「尊大な自己」とは、自尊とは似て非なるものです

人格者のお話に戻しますと

「喜び事を素直に喜ぶ」先に

謙虚さが観えるのです

人格者たる方の人格者たる所以が

謙虚さにあるのです

これは、謙遜とは違います

謙虚さには、自分のなりふり構わぬ欲望を抑える効果があります

その欲望の果て(因果によって生まれる天と地と、その苦楽)を知っていればこそのものですので、知識と経験を伴った、「自尊」の動きと捉えるのが良いでしょう

己を苦しめんが為に、謙虚でいるのですから

自身を尊んでいるのです

つまりは「自尊」です

先に理性に関してお話をしましたが

理性とは欲望を抑える為のものではなく、自尊を保つ為、冷静であるためのものなのです

決して、理性(冷静)とは自分を縛る為のものではありません

針の振れた感覚(プラスとマイナス)を素直に体験した上で、対極に振れる為の準備をする為のものなのです

それがこのお話の道理です

これまでの内容のそれぞれは、独立して存在しているのではなく、相互作用(均整)を以って

成り立っているのです

故に、「道理」とは様々な意味を持ち合わせています

心の揺れ動きを認め、そしてそれらを理性で司り、調整する経験であり、知識でもあり、自身と他者の心を洞察し、人間の心を知り、それらを理論付け、個人の在り方(自然体)を模索するものなのです

万人にとっての絶対的真理は存在せず、

個々の感覚を元に、練り上げ、洗練させたもののみが、道理(自然、もしくは経験と知識により裏打ちされた信念)となり、個々の真理となるのです

その為に「三位一体」を体得する事

それは、それぞれの機能の均整を保つ事

それが、完全なる人間的自立への道と言えるでしょう

そして、その過程で得るであろう「何か」

現実的、物質的なものにしろ、精神的なものにしろ、それらを得る「目的」を見失ってはなりません

「目的」とは、「本来の想いの成就」です

「本来の想い」とは、自然に身から湧き出た、「純粋な感覚」の事です

「根本的欲求」と言っても良いでしょう

先にお伝えしました

「夢、希望、理想、敬意、畏れ」等、個々の感覚を大切になさって下さい

私はこれらを「根本的欲求」としています

「畏れ」は「敬意」であり、それは「理想」です

「理想」とは「夢」や「希望」、つまりは、憧れです

それ等は自身の身の内から溢れ出た湧き水

貴方に与えられたエネルギーの根源

渇きを潤すそれらが、貴方にもたらすプラスとマイナス、苦しみと喜びを感じて下さい

身体の強張りを解き、思考を柔軟にし、心を素直にする事が出来たならば、「三位一体」の人の在り方を知る事でしょう

それが道理(自然)であり、あなたの指針となり

この世に生を受けた意味となり

迷い少なく、歩む標となるのです

その為にも、道中「非」を持たぬ事です

「非」を持つ事は「目的(本来の想いの成就)」を見失った状態と言う事です

礼儀をわきまえず、欲のままに我のままに

願いを叶えようなどとは想わぬ事

野蛮性を以って、自然体(道理)としない事

心と身体の姿勢をただし

襟をただして、人と自分に向き合う事

それが「品性」となり、やがては「品位」を持つのです

それを重ねて得た「品格」は、全てを網羅するでしょう

そしてそれこそが、肉体と思考と心とを同体とした「三位一体」を体現した姿だと思うのです

「品格をまとう事を以って、三位一体とす」

この言葉を以って、現状の私の「人間完成」とします

そして、このお話の完結とします

茨の道とは知りつつも

その道を歩まずにはいられなかった

私の40の年月

今、この心は唄を詠まずにはいられない…

咲き誇る

花を目にして酔いしれる

生きた証と写す胸かな

最後に

自他への敬意の先には、決して非は立ちません

合掌の両の手が立つばかりです

~深水の心~

有知(ゆうち)の人は

井戸掘りの様なもの

果てまで観えぬ程の

深さを有している

その井戸には

汚れ無き澄んだ水が良く似合う

その心には

潤う叡智(えいち)が良く似合う

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