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12.だから、もう私に花はいらないんです

始まりの記憶は、花模様のワンピース。

花柄の服ってなんだか落ち着かないと、小さい頃から感じていました。
だから私は、着るものも文房具も自分から花柄を選ぶことはまずなくて、ついでに言えば華やかな色味のものや、キャラクターものもほとんど持っていませんでしたから、ずいぶん地味な感じの子どもだったと思います。

そのまま大人になりましたが、それでも花は人の目と心を楽しませてくれるものだとずっと思っていました。
さらに言えば、"花のある暮らし"は女子のたしなみ、みたいな意識がどこかにしっかり刷り込まれていたようです。
花柄を身に付けないまでも、せめて部屋に飾るくらいはやってみようと、お給料が入るようになってから通販の頒布会で一輪挿し用の花器を注文しました。
しかし、いざ届いた器に写真を真似て花を生けてみても、何だかしっくりしません。
そして当然ながら飾った花は、数日たてば萎れていきます。花器から取り出して処分する時のわびしい感じにも、なかなか慣れませんでした。
結局数回生けただけで終わり、その後一年間毎月届いた花器だけが、今も手元にあります。

生け花を習いかけたこともありました。
これは20代後半の頃、勤めていた職場にお花をこよなく愛する10歳ほど年長の先輩がおられました。
華道の師範でもあるその方は、職場のあちこちにさりげなく花を生け、花鋏を手に日々水を差して回る、物腰の穏やかな優しい男性。
その先輩に有志でお花を習おうという話になり、わざわざ教室に行かずにお花の基本が身に付くならと、私も参加しました。

お気楽に始めたのはいいけれど、これが予想に反してシビアでした。
先輩の教え方はあくまで優しく、その場の雰囲気も和やか、決して居心地が悪かったわけではありません。
ただ、植物の美しさを引き出して一定期間留めておこうとすれば、枝葉はもちろん場合によっては花そのものにも迷わず鋏を入れて落とし、針の山に立てなければならないという、ごく当たり前の事実に突き当たったのです。
「花材」を組み合わせて空間に作品を作るというこの作業に、自分が全く向いていないことはすぐにわかりましたから、こちらも早々に断念しました。

それでもこの頃はまだ、花の話を振られて一瞬胸がチクリとしても、「お花好きなんですけど、上手く世話ができないんです~」と笑って返せば済んでいました。
お見舞いやお祝いに花を贈ることもありましたし、たまに自分がもらった時は花びんに入れてあまり目につかない場所に置き、咲き終わるまで毎日水を代えました。

花に親しめないのは何故なのか、ことさらに考えることもなかったのですが、このチクリと刺さって気になる感じをそのままにしていたことが問題でした。


転勤した次の職場では、年下の若い人たちと一緒に仕事をすることになりました。
今思い出しても、その人たちは皆ひたむきで、思いやりがあって、迷ってばかりの頼りにならない私を信頼し、とても素晴らしいチームを組んでくれました。
立場としてはリーダーでしたが、日々助けられていたのは間違いなく私の方だったと思います。

3月にそのチームの任期が終わり、今日で解散という日のことです。 
それぞれに挨拶をして、では最後に、というタイミングで、どこからともなくその場に運ばれてきたもの。
それは、今まで一度も見たことのないような巨大な花束でした。
男子が両腕で抱えていても見るからに重たげで、丈は私の身長より少し短いくらい。びっくりの次の瞬間には、私は完全に固まっていました。

まさか、それ、私にですか?

もちろん感謝の気持ちは湧きました。
お金を出し合い手間をかけて、今日のためにこれを準備してくれたと思うと、胸が熱くなりました。
にもかかわらず、あろうことか、その時の私の精神の八割五分くらいを占めていたのは紛れもなく恐怖心。この大量の心尽くしの花に囲まれたら、いったいどうなるんだろう?!

どうにかその場を終わって、アパートの自分の部屋にその花束を持ち帰ると、とにかく何とかしなくてはとバスタブに浅く水を張り、花束をそのまま入れて、風呂場のドアをぴったり閉めました。
その夜は扉を隔てた空間にあの花束があると思うだけで、胸がバクバクして冷や汗が滲み、ひたすら明るくなるのを待つばかり。とにかく長かったです。



次の日、華道をやっている友人に事情を話すと、大半の花を引き取ってもらうことができました。
放置も廃棄もしなくて済んだのがせめてもの幸いで、もしそんなことをしていたら、自己嫌悪で立ち直れなかったと思います。
そうして、半ばパニックになっていた自分の精神状態を、ようやく落ち着いて振り返れました。
(花を愛する方が以下を読まれてもし腹立たしく思われたら、どうかお許しください。)


つまり私は花を見ると、美しいと感じる前に怖いと思ってしまうのです。

どんなに可憐な花でも、どこか生々しい気がして圧倒されてしまうこと。
切り花を見ると、命を断たれて店先に並ぶ魚と同じように思えてしまうこと。
器に生けられた草花が朽ちていく様子を見るのも、そうして枯れた花を始末するのもとても苦痛に感じること。

「花が怖い」と言葉にした途端に、滞ってもやもやしていたものが、パズルがはまるようにはっきりわかりました。
ずっと前から自分の心が、「花を見て怯えてるよ」「あなたに花はNGだよ」とサインを出していたのに、その声に耳を塞いで花が嫌いではないふりをし続けてきたのだ、と。


だからと言って、それ以後周りの人に「花が怖いんです」と言って回るわけにもいかないので、私は今のところ二人にだけカミングアウトしています。
一人は、あのバスタブに浸かった大量の花を快く引き受けてくれた友人。
そしてもう一人は、結婚以来十数年間、毎年私の誕生日に花束をプレゼントしてくれていた連れ合いです。
(彼の理解を得られて最大のハードルは越えたので、かなり気が楽になりました✌️)

私は花を慈しむことや、思いを託して贈り合うという素敵な習慣を否定するつもりは微塵もないです。
自分で抱えていくしかない何かがある時、重みに耐えていることにまず自分が気づいてあげないと、たとえそれが小さくても、いつか支えきれなくなってしまうと教えてくれたのが、花。

だから今日のnoteは、花に心からの感謝を込めて書きました😊


お読みいただきありがとうございました🐪


































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