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アークナイツの魅力が持つ不思議

 アークナイツという物語の不思議について

 注意:この記事はゲーム本編に関するネタバレを含みます。予めご了承ください。

 およそ半年程前からアークナイツを始めました。そしてその世界観にどっぷりはまり、今では僕が一番時間をかけているアプリゲームになっています。

 ただ、どうして自分がこのゲームにはまったのだろうと、疑問に思うことが多々ありました。その最大の理由はシナリオです。総じてシナリオは面白いです。とても好きです。でも他人に勧めづらいなあ…、難解で読みづらいなあ…、と思いながら渋々シナリオを追っている自分がいるからです。

 シナリオはとても魅力的なのにも関わらず付きまとう、とっつきづらさと果てしない重さ。目を逸らしたくなる現実を描いてくれる誠実さの塊。このお話と向き合うのはしんどいのに、このお話は魅力的だと感じてしまう矛盾について。今回考えたいと思っています。


 アークナイツのシナリオを読んでいると、この世界の広さ、そして自分のちっぽけさを教えてくれるように感じます。

 そんな感覚を覚える度に僕は安堵します。この世界に、想像力を使ってこれだけ広大な大地を旅している人達がいるということ。そして、テラを旅するその人達は、その人達が信じる価値あるものの為、孤独で魅力的な旅をしているということに。

 アークナイツの物語が難解に思われる理由

 アークナイツの物語について語ることは様々な意味で難解です。

 一、物語を構成する要素が多岐に渡る

 第一に、物語を構成する要素が多岐に渡ること。各国の政治経済の動きから民間レベルでの企業群の動向、その裏で暗躍する組織の動き。謀略を巡らす各国の軍部。

 そのような世界を流れている大きな力の奔流を描くだけでなく、各国の民族的な文化、民草の暮らしに使われている卑近なガジェット、さらには医学的な知見に至るまで、様々な観点を下敷きにして物語が進んでいくからです。

 ここまでの要素を深い理解の下に描いている(少なくとも僕にはそう思える)作者の見識の深さには脱帽せざるを得ません。

 しかし、シナリオで描かれることが多すぎて、どんなお話だったのかと総括するのが難しくも感じられます。

 勿論、丁寧にもアークナイツはシナリオをスキップする機能がついていて、スキップする前に話の要約を読むことが出来ます。しかし、その要約を読んだからと言ってシナリオを理解したと言いきれないのは、アークナイツのシナリオを追っている皆さんなら頷いてくれるでしょう。

 二、組織や土地についての謎が残され続ける

 第二に、シナリオを読む度にテラという世界に存在する新しい組織や土地が数多く現れますが、殆どの事象について作中でその中身について3割ほどしか触れられないということ。多くの存在が未知のものとして、シナリオを読んだ後も残り続けていくということです。

 一般的なシナリオづくりで言われていることとして僕が昔かじり聞いたことなのですが、「読者にとって既知の情報を7割、未知の情報を3割として配分していくと、読者は話を理解しつつも未知の情報について知りたくてシナリオを追ってくれるようになる」ということでした。

 そして、アークナイツのシナリオを読んだ時に僕が感じたことは、このアークナイツの物語は僕が聞いた原則に反しているということでした。「未知の情報が7割、既知の情報が3割」と言ったところでしょう。

 アークナイツのシナリオを読み進めた人にとってはもう少し既知の情報は多いと思われるでしょうが、以前1章~4章を読んだ辺りでの僕の印象は少なくとも上記の通りでした。しかし、この原則に沿っていないことこそが、アークナイツの大きな魅力のひとつとなっていると思います。その点については後述します。

 三、登場人物に謎が多い


 第三に、登場人物のバックボーンが深く設定されてるにも関わらず、作中で語られるのは氷山の一角に過ぎず、殆どの人物が何者か分からないまま物語が進んでいるという点です。

 読者が物語を追う上で、その登場人物についてある程度知っていることは僕は重要だと思っています。登場人物の立場に感情移入するのに必要だから、という意味で。基本的に読者は登場人物の立場を想像し、彼らの心の動きを想像して楽しむのが一般的な読み物としての在り方だと思っています。

 ところが、アークナイツメインヒロインのアーミヤを考えてみましょう。彼女のバックボーンについては今でこそある程度情報が増えてきていますが、それでも彼女の過去については情報が少なすぎて想像を許してくれません。ドクターとの過去についても殆ど触れられず、大方の読者からすれば(とりあえず主人公を慕っているらしい、メインヒロインだし。)という位の印象になっていると思います。「アーミヤ推しが少ない」と嘆く人を見ることがありますが、アーミヤについての情報が少なすぎる為に、推すことも難しいというのは想像に難しくありません。アーミヤと同様にロドスの中心人物であるケルシーも謎の多い存在ですし、謎めいた人物達がシナリオの中心にいて、かつ未だにその姿を明かしていないと感じます。これが、この物語へのとっつきづらさの一因になっていると思います。


 ちなみに、その人物のバックボーンについて殆ど作中で触れられた(と思われる)人物も例外的に存在します。その人物とは?…作中で亡くなった人です。第6章、第7章はとても印象深く感じられた人も多いのではないかと思いますが、それはその人物の背景が全て語られ、完結してしまったからと言えるとも思います。

 悲しいですが、個々人の物語は死ぬ事で完結します。第6章、第7章で起きた死は、多くの人の心に残ったのではないでしょうか。


 キーワードは「世界に隠されたものを知ること」そして「隣人を知ること」


 ここまでアークナイツの物語の難解と思われがちな側面について整理してきました。しかしたとえ難解であったとしても、物語を追いたくなるような魅力がこの作品にある筈です。その魅力ってなんだろうと考えたときに、厄介だと思えることがあります。それは、今まで整理してきた難解と思われる点の〝裏返し〟こそがこの作品の魅力だと思えることです。キーワードは「世界に隠されたものを知ること」そして「隣人を知ること」です。

 世界に隠されたものを知ること


 テラの世界についての情報の意図的な欠落は、読者にこの世界について知りたいという欲求を持たせます。たとえ読者に渡された情報が不完全であっても、このテラという世界が精緻に設計されていることは読者に伝わっているからです。

 そして、穴あきのパズルを渡された人はどうしたいと思うか。穴の空いているところにピースを埋めて、パズルに描かれた精緻な絵を見たいと思うでしょう。アークナイツの物語というパズルは非常に巨大であり、穴あき部分はそこかしこに溢れていますが、それでもその穴を埋めたくなる程の魅力を持っています。ピースを埋めた後の絵がきっちりと描かれていることが読者には分かるから。

 巨大なパズルの穴を埋めて、精巧に出来た見事な世界を俯瞰してみたい。この欲求こそが、アークナイツの物語が人を惹きつけるひとつの理由になっていると思います。


 テラという世界に隠されているものを知ろうとすること。その未知を知ろうとすることの価値を伝えようとしているのが、アークナイツの作者が意図していることのひとつではないのでしょうか。

 エピソードの内の一つ、遺塵の道にて。ケルシー先生がヴィクトリア貴族の娘に語っていることで、これは作者の言葉そのものなのではと思える台詞があります。

「…ハイディ。自分の目で確かめるんだ。もしも君が外に大地に足を踏み出そうと決心したのなら……もう二度と文明の虚像に惑わされることなく、真実を知りたいというのなら、その目で見定めるんだ。」

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 アークナイツの物語の中では未知の情報が溢れているのと同じ様に、僕達を取り巻く現状の世界についても未知が溢れています。その世界に隠されたことを知ろうとすることこそが大事なのではないかと、作者は示そうとしていることなのではないでしょうか。「世界を理解するのは簡単なことではない、でも知ることは面白いことなのだ。」と。

 ちなみにアークナイツでイースターエッグのような隠しメッセージが多いことも、この作者の意図に沿ったものでもあるように思います。謎解きを楽しんで欲しい、という運営の粋な計らいに感じています。

 余談ですが、どうにもケルシー先生の考え方や立ち位置から、ケルシー先生は作者に最も近い存在のように僕は思っているのですが皆さんはどうお思いでしょうか。ケルシー先生の使役するMon3trのデザインも海猫氏の原型となるアイディアから生まれていることも、そう感じる一因となっています。


 隣人を知ること


 話を戻します。アークナイツの物語が重視していることのもう一つが、「世界に生きる人をその背景を含めてリアルに、ありのままに描くこと」だと思っています。アークナイツの物語に登場する人物の背景は多様で、その切り口も多岐に渡っています。各国に住む人々の文化的土壌から力を持っている組織、人々の生活に密着したガジェット、特定の職域に所属している人達が共通して持ちがちな考え方のひな型まで。人々を取り巻く環境を様々な視点から描写しているため、この物語は膨大なものになっています。

 そして、物語に登場する人物の、それぞれの立場についての問い掛けが多いこともアークナイツの特徴ではないでしょうか。それは物語の一つの山場となる、第八章において顕著に見られたように思います。第八章では様々な思惑が激突します。ロドスと遊撃隊、ウルサスと炎国、そしてタルラ、コシチェイ、不死の黒蛇。それぞれの立場があり、それぞれの目に映る世界はどのようになっているのか。そして、個々人はその世界の中でどうあるべきかという対話が多いように思いました。

 立場の異なる人が互いの立場について語ること。
 立場の違いや相互理解の無さが戦争の大きな要因になっていることも考えると、やはり立場を巡る会話は物語の欠かせない要素になっていると思います。

 世界をありのままに見ること。世界には暴力や差別に苦しめられている人々がいる。そして、全ての人に生活がある。虐げられる人にも、虐げる人にも、それぞれの立場がある。

 感染者は人間ではない。だから道具として扱う。作中で頻繁に見られる論理です。僕たちの隣にいる人を〝同じ人間でない〟と壁を作ることで、物語で語られるような惨劇が起こります。集団の内と外。他者を虐げる論理は人々の間に〝垣根〟を作り出した瞬間に生まれます。だからアーミヤ率いるロドスは、そんな感染者と非感染者との間に存在する垣根を取り払おうと努力しています。

 感染者か、感染者でないか。第九章はさらにその対立から一歩進んだ内容になっていました。ヴィクトリアの原住民か、原住民でないか。もっと言うと、「原住民としての意識に取りつかれた人」かそうでない人か。感染か非感染かというだけでなく、このテラという世界では様々な隔たりが生まれていることを表現した話にもなっていると思います。

 そして、第九章について言えば、ロドスの理念が端的に語られた話ではないかとも思っています。今までもロドスの理念はアーミヤやケルシーの言葉を通して何度も表現されてきましたが、もっと分かりやすい形で現れた。そう思えるのは、ロドスの部外者であるジェーンが登場したからです。

 第九章においてジェーンがロドスに加入する前の話が描かれる訳ですが(バグパイプにとっても加入前の話になりますが、バグパイプのことは一旦置いておきます)、Outcastとジェーンのした会話で、ロドスの根幹をなす思想が語られたように思うからです。以下本編の抜粋。

「だけど、少なくとも今この瞬間、自分がやるべきことは何なのか――それだけは、ちゃんと理解しているつもりです。お願いします。みんなと一緒に行動させてください。あたしは、怪我をした人たちをできるだけ多く助けたいんです。」
「その中に、先ほど君に向かって石を投げ、追い出した連中がいたとしても、か?」
「さっきあなたが仰ったように、あたしには、悪事が繰り返されるのをただ眺めているだけなんてできません。--あたしがどんな立場を選んだとしても、それは変わりませんから。」

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 このジェーンの発言そのものが、ロドスが掲げる理念の根っこの部分と一致していたのではないでしょうか。ヴィクトリアの原住民の側か、それともヴィクトリア軍か。どちらの立場にも立てずに悩んでいたジェーンが発したこの言葉は、より実際的なロドスの考え方を説明してくれたように思います。

 そして、このOutcastの台詞は、僕達読者にも同様の問い掛けをしているようにも思えるのです。この世界には様々な力が働いていて、力の奔流が人命を弄んでいる。あるいは立場の違いから生まれる軋轢に苦しんでいる人がいる。そんな光景を目の当たりにした時、あなたはどう動くのか。どう行動するのか。

 そして、その問い掛けに対する僕達の答えとして、アークナイツの制作陣が願っている、もしくは期待していることは、第八章ラストで語られるアーミヤの締めくくりの台詞に集約されているのではないでしょうか。

「この大地にどれだけ残酷な物語があるとしても――
 ――ドクターの心は温もりにあふれていると信じています。
 おかえりなさい、ドクター。」

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 最後に


 ここまでアークナイツという物語の持つ魅力について考えてきました。僕としては大分溜飲が下がる想いでいますが、皆さんはいかがでしょうか?拙い文章ではありますが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

 このテラという世界はどこまでも考えさせられる要素に溢れていて、その魅力は尽きません。これからもこのゲームに出会えたことに感謝しつつ、ロドスの行く末を見守っていきたいと思っています。この記事が、皆さんにとってアークナイツの魅力を再確認する一助になれば幸いです。記事に対する感想、ご意見等あればぜひお寄せください。どうぞよろしくお願いいたします。


 藍繕なつき

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