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ありがとう、と言いたかった…

父が亡くなって一年がたった。
あの日も桜が満開だった。

前の日、病院から尿パッドがなくなったという連絡があったので、それを補充するために病院に向かっていた。病院まであと数分というところで信号待ちをしていたら、病院から電話があった。

「11時33分 呼吸がとまって亡くなられました。」

時計をみたら11時34分だった。
心臓の音が頭の中で響いた。
覚悟してはいたが、とうとうこの時がきてしまった。
どうしよう。
信号の横のショッピングセンターの土手の桜が満開だった。
四月なのに妙に暑かった。

すぐに病院に着いて、父に会った。
まだ、温かくて眠っているようだった。
一目見た途端、涙があふれてきた。
「おじいちゃん、ありがとね。大好きだよ。天国で会おうね。」と声をかけるのが、精一杯だった。
聴覚は、心臓が止まった後も残っていることがあるとどこかで読んだ気がする。だから、もしかしたら聞こえているかもしれない。そんなことをぼうっと考えていた。

看護婦さんが「穏やかに逝かれましたよ。」と言葉をかけてくれた。本当に声をかけたら、いつものように「あい、あい」と起きてきそうな顔であった。


自宅で看取りたくて、何回も病院と交渉した。ケアマネジャーや訪問看護の事業所ともやりとりをした。ようやく訪問診療をしてもいい、と言ってくれたお医者さんを見つけて面談した。でも、できなかった。父の状態が自宅での看護がむずかしい状態だったからだ。

父の体は、パンパンにむくんでいた。動かすと、皮膚が破れてしまうと言っていた。たしかにこれでは自宅まで運ぶことはできなかったのだな、と思った。
点滴、酸素吸入、痰の吸引などすべてやめて自宅に連れて帰るのは、父の為になるのか。でもこのまま、病院で面会もできずに息を引き取るのはかわいそうすぎる。葛藤の日々だった。でも結局、病院でひっそりと亡くなった。2日前に頼み込んで、粘って粘って母と面会させてもらった。それが、せめてもの慰めだった。


一年たった今も時々考える。
せめて、亡くなる前に「ありがとう」って言って送りたかった。家族で看取りたかった。救急病院から転院するときに、自宅看護を選択すれば可能だったのかもしれない。しかし、まだ働いていたし、一人で寝たきりの父の介護をする覚悟ができていなかったのだ。私は四人兄弟だが、他の三人は県外に住んでいて、ここにはいない。果たして、一人でもできたのだろうか。
答えは見つからない。

「おじいちゃん、母さんが仕事やめるの待ってたのかな。迷惑かけたくないって言ってたおじいちゃんらしいよね。おじいちゃん、ちゃんとわかってたと思うよ。」と娘たちに言われた。

そうだ、そうなんだ。
きっと、父を看取れなかった、ありがとうと言えなかった、という後悔はずっと消えない。
でも、あれが最善だったのだと考えよう。私を取り巻く色々な状況。父の状態。その中での最善だったのだ。
いつか天国で再会したら、その時父に「あの時にはごめん」って伝えることにしよう。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
                (新改訳聖書 伝道者の書3:11)


 



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