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「マイノリティ・リポート」はなぜ、傑作なのか

フィリップ・k・ディックの短編小説「マイノリティ・リポート」は、傑作である。言うまでもないが、スピルバーグの映画ではない。あの映画は、アクションに逃げた駄作であった。
 マイノリティ・リポートの筋は、シンプルだ。未来予知によって発生が予見された犯罪を、捜査当局が阻止している近未来。捜査当局の長官である主人公は、「自分が殺人を行う」という予知を知り、逮捕を逃れるために逃亡する。その過程で、自分の犯罪についての三つの予知のうち、一つだけ異なった未来を述べた報告=「マイノリティ・リポート(少数報告)」の存在を知る。それは、主人公の無実を証明すると同時に、未来予知によって成立している治安維持システムを崩壊させる可能性を秘めたものであった……。最終的に主人公は、社会システムを守るために、自ら殺人を選択する。
 シンプルな筋書きの中に、ディックが込めたテーマ、それは「社会と個人」であることは明らかだ。それは、大げさに言ってしまえば、近代になって登場した全ての物語が追求してきたテーマかもしれない。近代とは、人間が「個人」を、自分と同じように思考と感情を持つ他者と呼ばれる化け物を発見した時代であった。他者の内心に潜む暗い意志を主題としたミステリーが文芸ジャンルとして近代に発達したのはそれ故だ。SFもまた、近代に発展した文学であった。それは、19世紀の産業革命による個人の生活のあまりにも急激な変貌というミクロ的な状況と、人類を滅ぼしうる核兵器の登場というマクロ的な状況の二つによって醸成された想像力を土壌として発展した。社会と個人は、決して分離されえない。社会が変われば個人も変わるし、一人一人の個人の意識の変化もまた、社会を変えうる。変わってしまった社会の中で、個人は、どう変わってしまうのか。この問いかけにこたえはなく、答えのない問いかけに答えるのが、きっと文学の役割だ。
 マイノリティ・リポートは、他者の内心に対する主人公の不安から始まる物語だ。目の前に突然現れた若い部下が、自分の年下の妻を奪い去るのではないかと彼は不安を抱く。そこに、彼が統率する「犯罪予防局」という組織の指揮権を、議会が奪おうとしているのではないかという政治的な懸念が被さる。個人の情念というミクロな不安と、政治というマクロな不安が、同時に両立する状況の中で、彼は自身の殺人を予告する報告を、自分を陥れようとする政治的な陰謀であると予測する。個人的な不安と政治的な危機意識との接続は、陰謀論が現実を脅かす脅威となっている現代社会にも通じる問題だ。物語は、彼が殺すと予告された相手との邂逅、彼を助け、「マイノリティ・リポート」の存在を告げる謎の人物、社会システムの維持のためにその存在を隠蔽しようとする人物との対決といった過程を経て、彼に一つの決断をさせる。
 中盤で、彼はこう言う。
「無実の人物を逮捕しなければ存続できないシステムならば、破壊されるべきだ。私がこう考えるのは、私が人間だからだ」
 社会というシステムは、時にその維持のために、個人を犠牲にしようとする。それは、歴史において何度も見られた光景だ。その過程においては、社会の認定する「真実」なるものも、いともたやすく歪められてしまう。
「真実」これが、ディック作品の根底に共通して流れる主題であることは、「高い城の男」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」といった長編を読むだけでも、一目瞭然であろう。「偽物と本物」の二項対立として、その主題は追求される。偽物の人間と本物の人間は、いかにして区別されうるのか? 連合国が勝利した歴史と、枢軸国が勝利した歴史を、分かつものとは何か?
 大量生産品があふれかえる近代の消費社会において、「真実性を備えた本物」は、果たして存在し得るのか?
 ディックは、「真実」を、「本物」を、探し求め、守ろうとする人間を描き続ける。聖杯を追い求める騎士の巡礼を描くように。「マイノリティ・リポート」も、同じだ。誤解された「真実」を探し求める物語だ。

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