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ドライブ・マイ・カー 濱口竜介:監督

展開自体は結構ベタで、不倫してるんだろうな、死ぬんだろうな、最後は自分が演じるんだろうなという展開はことごとく予想通りだった。
ただ劇中劇の『ワーニャ伯父さん』のセリフと登場人物の心情をリンクさせる部分は非常に巧みだった。

演出家である家福は、役者が辟易するほど本読みをさせ、彼の表現によるとテキストが語りかけてくる状況にまで芝居を昇華させる事を求める。しかし、彼自身が真実を見ようとしていなかった事を妻の不倫相手の一人である高槻に指摘されてしまう。自分自身の知らない物語を不倫相手が知っていたというのは、不倫という事実以上にショックだったであろう。その直後、彼があれほど大事にしていた車の中でタバコを吸うシーンからも衝撃の大きさが見てとれる。
しかし、真実とは結局のところ何なのだろう?所詮、人は、例え、親兄弟、夫婦であってもその人の全てを理解する事は出来ない。永遠に共感し得ない存在が人というものなのかもしれない。しかし、自分に向けられていたのはその人の一面であったとしても、だからそれは偽りの姿とも言えないのではないか、その事に気付けたからこそ、彼は再び役を引き受ける覚悟ができたのだと思う。真実を聞くのが怖くて、帰りを遅らせ、その為に妻の心筋梗塞に気がつくのを遅らせ、妻を死なせてしまった。そもそも、不倫に気がついていながら気づかぬふりを続けてきたことが、今回の死に繋がったという後悔を彼は抱えてきたわけだが、そもそも真実の姿などないのかもしれない。同じような事を、かつて井上陽水さんが筑紫哲也さんの追悼本の中で語っていた。

彼は人との付き合いで最後まで一線を越えようとしなかったとも聞きますが、本当にそうでしょうか。最後の一線と言っているものを取り除いた後に何が残ったのかという気もします。もしかしたら何もなかったのかもしれない。

井上陽水

身もふたもないが、結局、人というものは『ワーニャ伯父さん』のセリフではないが、例えとてつもない苦難であると思うことでも全てを粛々と受け入れ現世を生き続けていくことしかできないのだろう。

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