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これぞ東京!これぞポテサラ!「これぞ」を見つける旅に。

今朝、起きて早々に母親が興奮して話しかけてきた。
「ねぇ、これぞ東京!ってところ、知ってる?」
ものすごく得意げな顔でスマホを取り出し、彼女は言った。
「見せてあげる!」

荻窪駅バスの時刻表/撮影:我が母

じゃーん、と見せてくれたのは、スマホで撮影したバスの時刻表だった。
「見て見て。7時台なんて、17分と47分に2台くるのよ!9時台も55分に2台も来るの!」
母曰く、田舎ではありえない、東京だから成り立つ時刻表だと。
確かに。そういった視点で見たことはなかった。
当たり前の日常過ぎて、これぞ東京!なんて感覚はなかったかもしれない。
友達にも同じように見せて、「この視点は新しい!」と褒めてもらったそうだ(笑)。
母は、長く田舎に暮らし、東京で暮らし始めてまる4年になる。
田舎の暮らしを知るからこそ、この時刻表の「すごさ」を感じるのだろう。
確かに、この本数、当たり前じゃないよなぁ。
母は「東京らしい写真が撮れた!」と喜んでいる。

ところで。
これぞ東京!というところ、いかにも東京!というところを、東京に暮らして30年を超えた私が思いつくだろうか。
東京タワーとか、新宿の高層ビルとか、皇居で走っている人たちとか、スタバでノートパソコンを開いて仕事をしている人たちとか、いかにもな光景しか浮かばない。
長い間、同じ場所にいると、そのものの「すごさ」や「魅力」や「特異性」といったものが、わかにくくなっていくものなのかもしれない。

ごくたまに海外に旅行に行くと、空港で感じる匂いというものがある。
韓国ならキムチ、インドならスパイスの香り、そして成田や羽田に戻ってくると感じるのが「醤油」の香りだ。
出国時は感じなかったのに、戻ってくると懐かしく香ってくる醤油の香り。そばの汁の香りっていうのかなぁ。
一度離れて戻ってみると、気づいたり、見えたりするものがある。

話はズレるかもしれないが、昨年だったか、オタ友の家に遊びに行って、彼女お手製のポテトサラダをごちそうになったときのことだ。
それは、私が知るポテトサラダとは大きく異なるものだった。
いや、大枠は同じ、ポテトを使ったサラダなのだけれど、炒めたベーコンが入っていて、それが大層な衝撃だった。そして、それが大層美味しかった。
これぞポテサラ!の常識が覆されて、家が変わると、ポテサラも変わる、と学んだものだった。
(ちなみに、我が家のポテサラは炒めていないハムが入っている)

料理の当たり前が、家によって違うことはよくあることだ。
しかし、これはほかの人の家に行って、その家の食事を食べない限り、わかりえないこと。
慣れた調理法が、その人の「これぞ!」になっていくのだ。

再び話は変わって。
子供の頃の思い出で、忘れられない事件がある。
仲良しの友達の家に遊びに行ったときのこと、遊んだおもちゃを片付けずに帰ろうとしたとき、友達のお母さんに引き止められた。
美人のお母さんが鬼のような形相になって、私と友達2人は厳しく諭された。「遊んで散らかしたら、片づけるものだ」と。
我が家でも、遊んだ後、片づけるという習慣がなかったわけではない。
が、友達の家では、優しいお母さんがいるしと、甘えが出たのかもしれない。
とにかく、その衝撃ゆえ、「人の家に遊びに行ったら、帰る前に片づける」という“当たり前事項”を学んだのだ。
そんなわけで、人の家に行くと、学ぶことが多い。
めちゃくちゃ怖かったけれど、叱ってくれた彼女のお母さんのことは忘れないし、感謝している。

東京のバスの時刻表じゃないけれど、「これぞ!」をあらためて感じるためにも、ときおり慣れていない場所に足を運んで、なにかに驚いたり、今いる場所との違いを感じたり、そんな体験をしておきたいなぁと思う。
友達のお母さんや、友達の旦那さんや、違う業界の人たちや、そんな人たちと接して、いろんな「これぞ!」にも触れてみたいなぁと思う。

そんなわけで、今年の目標は引っ越し。
住み慣れた「区」を出ようと、ワクワクしている。





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