誕生日の、してもらった幸せ、してあげる幸せ。
この数日、悶々と考えていることがある。
どうしても理解できない、決断について。
それは、『つるの恩がえし』のラスト、
ツルの選択についてだ。
ある日、罠にかかった一羽のツルを
どこぞのおじいさんが助け(若い男という説もある)
その恩を返そうと、ツルが若い女性の人間の姿になって
おじいさんの家に現れるという話だ。
夜な夜な部屋にこもり、美しい機(はた)を織る娘=ツル。
「のぞかないで」と頼んだにもかかわらず、
ある晩、おじいさんが部屋をのぞいてしまい、
驚いたツルは空へ帰ってしまう結末だ。
約束を破ったことは悪いが、
どうして空に帰る必要があっただろう。
話は急カーブする。
今日は、私の誕生日だ。
ありがたいことに、家族や友人、仲間たちが
「おめでとう」の言葉をくれて
花束やプレゼントやケーキで祝ってくれた。
ちょっと気恥ずかしくもあるが、
いくつになっても、お誕生日を祝ってもらえるのは嬉しい。
これまで生きてきたなかで、
誕生日にまつわるエピソードを思い返してみて
一度だけ、すねた記憶がぼんやりとある。
幼い頃だったと思うのだけど、
なぜすねたのか、理由はわからない。
毎年祝ってもらっていたはずなのに、
素直に喜びを伝えられていたか、
子どもの頃ほど、記憶がないのだ。
祝ってもらうことが当たり前のように思っていたのだろうか。
誕生日の歌を歌ってもらって、
ケーキのろうそくを消して、
親や兄弟に、「ありがとう」と言っただろうか。
悲しいかな、覚えていないのだ。
大人になるほど、「もうそんな歳じゃないから」などといって
誕生日のお祝いから遠ざかってしまう人もいるだろう。
だからかわからないけれど、
大人になるほど、誕生日を祝われることの
ありがたさを感じる。幸せを感じる。
一方で、強く記憶している誕生日の思い出は
大好きな友達のために準備したプレゼントを喜んでもらえたことだったり、
大好きな推しの誕生日に行われたイベントで
一生懸命つくったお祝いうちわを振ったことだったり、
コロナ禍でオンラインを通じて仲間を祝ったことだったり、
誰かのためにしたことばかりだ。
人は不思議と、
してもらったことより、
してあげたことのほうが、
いつまでも記憶しているようだ。
してもらった喜びより、
してあげた喜びのほうが
強く記憶されるのだ。
今日の誕生日は、
祝われた私も幸せだし、
祝ってくれた人たちの心の中にも、
「祝ってあげた喜び」が残っていくのかもと思う。
祝われる人だけでなく、祝う人のためにも
誕生日は、あるのかもしれない。
その人のことを思ってあげる時間が一瞬でもあると
なんとなく満ち足りた今日になる。
なにかをしてあげることで
人は幸せになるものだと思う。
「おめでとう」という言葉は、言うだけで幸せな気持ちになるし、
「ありがとう」という言葉も、言うだけで幸せな気持ちになる。
というわけで、『つるのおんがえし』だ。
ツルはおじいさんに助けてもらったことが、
ありがたくて恩を返したかった。
おじいさんはツルの娘が自分たちに孝行してくれたことが
ありがたくて嬉しかった。
と同時に、
おじいさんはツルを助けてあげたことで
心が満ちていて、
ツルの娘はおじいさんに尽くしてあげたことで
心が満ちていたのだと思う。
お互いに、相手のためにしてあげることが嬉しくて
それでよかったんじゃないか。
「約束を破ってはいけない」という教訓だ。
という人がいるけれど、
別にいいじゃないか。
娘がツルだろうが、いいじゃないか。
これが、韓国ドラマなら、
相手が悪魔とわかろうが、宇宙人とわかろうが、
互いの心が通い合っていれば、オールOKなのに。
「してあげること」と「してもらうこと」に
どちらが上で、どちらが下もない。
どちらにとっても、心が温まることで、
誕生日はまさに、そんな日だなと。
でもまぁ、してもらったことって、忘れがちだから。
今日のことを含め、これまで誰かにしてもらった幸せを、
今日は噛みしめる日にしよう。
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