「diabolus ex」第三話
湯上がりの気怠さを心地よく思いながら、兼続はベッドに腰をかけた。そのまま勢いよく倒れ込むように横に成る。その後を追うように、二匹の犬たちもベッドへ飛び乗ってきた。
昨日に続き、今日も驚きの一日であった。昨夜と同じく、今夜も一花の事を考える。一花の事は嫌いではない。それはハッキリとしている。なら、好きなのかと自身に問う。
一花の姿を思い浮かべると体温が急激に上昇し、鼓動も早くなる。試しに他のクラスメートの女子を適当に思い浮かべてみたが、同じような状況には成らなかった。今まで色恋沙汰には縁が無かったとはいえ、さすがにこれは好きだという事なのではないかと考える。
二匹の大型犬に占領され、狭いベッドの上でなんとか寝返りを打つ。冬は暖かくて重宝する二匹だが、さすがに今の時期では暑苦しい。だが、物心がついた時にはすでに二匹と一人で寝るのが当たり前に成っていた。二匹に挟まれたまま、狭さも暑苦しさも構わずにすぐ横に横たわる犬に抱きつく。
父親の紫苑に言われ、一花を家まで送っていった。別れ際の寂しそうな一花の表情が何度も脳内で繰り返される。その度に、より深く心の奥底に一花が刻みつけられていくような気がした。
告白をするということが、どれほど勇気が必要で大変なことなのか、それを考えるだけで、自身にはとても無理な事柄のように思える。好意を伝えてくれた一花に感謝と喜びを抱く。
一花を想うと高鳴る鼓動が、恋ではないのだとしたら何がそうなのか分からず、今、自身を支配する感情に兼続は名前を付けてしまった。
騒音が兼続の幸せな時間を壊そうとしていた。これ以上の幸せは無いのではないかと思える程の状況を取り戻そうと、兼続は騒音のする方へと手を伸ばす。元凶が指先に触れ、騒音を止めるためのスイッチを押す。再び平和な時間が戻り、兼続の意識は闇の中へと落ちていく。
すぐに、容赦なく身体に重みがのし掛かり息苦しさで兼続は目を覚ました。何かを期待したように覗き込む犬たちの顔が、ハッキリとしていく視界に入り込んできた。
「おはよ。シロ、クロ」
寝ぼけた声で二匹に挨拶をすると、返事の代わりに思いっきり顔を舐められた。兼続は上体を起こし、思いっきり身体を伸ばすとベッドから起き上がり窓へと向かう。カーテンを開けた途端に飛び込んでくる朝日が眩しくて、反射的に目を細めた。
「じゃあ、散歩に行くか」
兼続の言葉に反応し、二匹は嬉しそうに尾を振った。千切れんばかりに尾を振りまくる二匹から洋服ダンスに視線を移し、着替えを取り出す。せわしなく部屋の中を動き回りながら、二匹は兼続の支度が終わるのを待った。
「お待たせ」
そう二匹に向かって言うと兼続は廊下へと向かう。待ってましたと言わんばかりに、二匹はその後に続いた。
庭に出た兼続は、早朝の爽やかな空気を思いっきり吸い込むと、まだ少し残っていた眠気もそれで吹っ飛んでしまった。
犬たちにハーネスとリードを付け、兼続は散歩へと向かう。同じように犬の散歩させる飼い主達と挨拶を交わし、いつもと変わらないコースを進む。途中から微かな違和感を感じ始めるが、特に変わった様子も見受けられず、気のせいだと思い散歩を続ける。
散歩を進めるにつれ、何かおかしいと兼続は足を止めた。何がおかしいのか、辺りを見回し、普段と何が違うのかを考える。
妙に静かで人の気配が何も無い。いくら早朝とはいえ、ここまで静かなのも変だと兼続は気が付いた。急激に気味の悪さが兼続を襲い、逃げるように小走りに走り出す。不気味さに相まって、何かが追いかけてきているような気がして、小走りだった足が無意識に思いっきり駆け出す。
突然、リードを持った手が思いっきり引かれ、勢いの付いていた兼続はそのまま倒れ込みそうに成った。
「シロ? クロ?」
体勢を立て直した兼続は二匹へと視線を向けた。二匹は揃って一点を見つめ、何かを警戒しているようであった。
「何? どうしたんだよ?」
二匹の視線の先を辿るが、そこには特に何も無く、兼続は再び二匹へと視線を戻す。その途端、背後に何か嫌な気配を感じ同時に二匹が唸りだした。
何かが背後に居るのは嫌と言うほど伝わって来る。しかもそれからは身の危険を覚えるような気配を感じ取れた。振り返って確認をするべきなのか、それともこのまま何事も無かったように立ち去るべきなのか、兼続は選択を迫られた。
兼続にはかなりの大きさの大型犬が二匹いる。普通ならわざわざ危険を冒してまで襲ってくるという事は考えられない。だが、背後に存在するものは、そんなこととは無関係に思えた。
ゆっくりと背後で何かが動く気配がし、二匹の犬たちは兼続を守るように立ちはだかる。兼続は手にしたリード引っ張るが、二匹はかたくなにその場か動こうとしない。まるで、その場から動いてしまえば兼続に危害が加わるとでも言わんばかりである。
「シロ……クロ……」
二匹の名を呼ぶが、それに応えることなく変わらずにその場に立ち尽くす。
背後の気配がすぐ後ろまで近づき、すでに逃げることは無理だと悟った兼続は意を決して振り返った。何となく予想はしていたが、そこに在るのは人ではなかった。その存在を視認した途端、兼続の中にあった恐怖や不安は薄れてしまう。
目の前にいるのは一匹の巨大な黒い猫であるが、その姿は恐ろしいほどに人を惹きつける美しさがあった。ビロードのような艶やかな毛並み、整った顔立ちや細いしなやかな身体をした猫は、曇りのない黄金の瞳を兼続に向けていた。
すぐ側にいる二匹の大型犬にも劣らない巨大さに違和感もなく、兼続は目の前に居る猫を見つめる。ゆっくりと近づいて来る猫を嫌悪する事はなく、兼続は歓迎すらしていた。
二匹の犬たちのうなり声が激しくなり、臨戦態勢を取っているといっても過言ではない。ゆっくりと歩みを進めてきた猫が行動範囲に入った途端、待っていたと言わんばかりに犬たちは一気に行動を起こす。一斉に猫に飛びかかった犬たちにリードを引かれたショックで、囚われていた兼続の意識が解放された。
「シロ! クロ!」
慌てて二匹を制止させようとしたが時既に遅く、猫に牙を立てる二匹の姿が兼続の視界に飛び込んできた。痛みを何も感じていないのか、猫はジッと兼続を見つめる。何事も無いかのような猫の様子に恐怖を覚えた兼続は、その場から必死で逃げ出そうとし始めた。
二匹と繋がるリードを懸命に手繰り寄せるがびくともせず、兼続の中で焦りと恐怖が広がって行く。
「シロ、クロ……」
二匹を呼ぶ兼続の声が震える。今すぐこの場から逃げられれば何でも良いと思うが、二匹がこの状態ではどうにもならず、祈るように名前を呼んだ。その声の調子に二匹は唸ることを止め、視線だけを動かし兼続の様子を窺った。声だけではなく全身で恐怖を表すかのように震え、その表情は絶望と不安に彩られた兼続に、二匹は猫に牙を立てるのを止めた。
すぐに駆け寄ってきた犬たちを確認し、兼続はすぐさまこの場から逃げだそうとしたが、思うように足が動かずに縺れ倒れてしまう。自由を得た猫は再び兼続に向かって来た。先ほどまで牙を立てられていた箇所に傷一つ無く、艶やかな毛並みが光りを受け煌めいている。
アレは猫ではないのだ。それどころか、生物ですらないのだ。恐怖と共に兼続の中で何かがそう告げる。ならば、アレは何なのか。アレから逃れる術はあるのか。兼続は恐怖に染められた思考で必死に考える。
思うように動かない手足をバタつかせるようにして、兼続はなんとか後ろへ下がろうとした。倒れ込んだ拍子にリードが手から離れ、自由になった犬たちは揃って兼続を守るように位置を変える。
恐怖を覚えながらも、すぎるほどの美しさを持つ存在について、何か引っかかることがあり、兼続はそれが何なのかを確認しようと記憶を漁りだす。霞がかかるほどの過去の記憶の中に、繰り返し何かについて聞いていたことがうっすらと浮かぶ。
幼い頃、父親が何度も繰り返していた。毎晩、新約聖書を枕元で読み終えた後、兼続に言い聞かせるように話していた。過ぎるほどの美しい存在に出会ったらどうこうと言っていた。それが何なのか、どうすれば良いのか、後一歩というところで思い出せず、恐怖の中に苛立ちが混じる。
そんな兼続に構うことなく、猫の形をした存在は、優雅に歩みを進めていた。
「シロ! クロ!」
確実に近づいて来る存在に恐怖を爆発させ、救いを求めるかのように兼続は二匹の名を呼んだ。途端、二匹は天に向かって遠吠えを始め、それと同時にそれぞれの色に対応した光に包まれた。猫の形をした存在は、それを確認すると足を止め、二匹を観察するかのような視線をしばし向けた後、かき消すようにその場から消えてしまった。
その存在が消えると同時に周囲を支配していた違和感は消え、生活感を感じさせる雑音が戻ってくる。いつのまにか取り巻いていた光が消えた犬たちが、心配そうに兼続に擦り寄ってきた。震える両手を伸ばし、兼続は二匹を抱き寄せた。
紫苑の代わりに連絡を受けた琉架は、力なく地べたに座り込む兼続を見下ろした。すぐに、傍にいた兼続の様子を案じて連絡くれた近所の住人に、琉架は丁寧に礼を述べる。そのやり取りを、どこか遠くボンヤリと兼続は聞いていた。
「大丈夫ですか?」
ハッキリと聞こえた琉架の声に、兼続は顔を上げる。そこには、手をさしのべている琉架の姿があり、反射的に兼続は手を伸ばした。琉架は差し出された手をしっかりと掴み、力を込めて兼続を立ち上がらせた。
「具合が悪そうだと連絡を頂いたのですが、大丈夫ですか?」
再度、琉架は兼続の様子を確認する。
「あ……はい。大丈夫です」
力ない声で兼続が答えた。
「家に戻りますか? それとも病院へ?」
「あ、家に帰ります。ちょっと立ちくらみがしただけなんで、もう大丈夫です」