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地理Bな人々(23) 中島ノート⑩ ナミブ砂漠・無方

「それで,何か書いてあった?」とミドリが聞く。
春休みが近づき,学生食堂はいつもよりだいぶ空いていた。
「何かって?」 
「中島先生の知られざる秘密。ノートの中に。」 
「うん。あった。」       
「あったの? どんなこと。」  
「先生には恭子さんの前にも奥さんがいて,その人との間に子供もいたらしい。」
「何だ,そんなことか。みんな知っているわよ。恭子さんだってゼミのみんなだって」。
「そうなの?」 
「そうよ。先生の葬儀にだって来てたじゃない,親子で。」
「そうだった?」  
「気付いてなかったの? あなた何していたの。」
「受付の横にずっといたからかなあ。」
「呆れるわね。」   
「でも,もう一つ重要な情報が書いてあった。」
「なに?」   
「アフリカ旅行の日記の中に,“もし自分が死んだら,灰をこの砂漠に撒いてほしい”って書いてあった。」
「砂漠? サハラ?」      
「いや,ナミブ砂漠※1だと思う。」
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NOTE⑨ ナミブ砂漠
 
 ナミビア※2の大西洋岸は数千キロに渡って不毛の海岸砂漠が続く。
 その中で人気の場所のひとつ,ソーサスフレイに行く。
 4WDに乗って6時間の道のり。
 草木ひとつない荒漠とした景色がひたすら続く。
 だが,不思議と見飽きることがない。
 
 以前,『無方』という句集を読んだ。日本人女性の句集だ。 
 
 無方無時無距離砂漠の夜が明けて ———  
 
 津田清子※3というこの俳人はなぜ敢えて季語のない句を作ったのだろうか。
 思えば,季語ってヤツは四季の明瞭なモンスーンアジア※4だからこそ生まれたルールだろう。
 例えば,月平均気温がずっと27℃前後で推移する赤道直下のシンガポールで俳句という文化が成立するだろうか? 
 おそらくNOだ。
 
 果たして,砂漠という空間に降り立った時,俳句は成り立つのか――
 そんな問題意識が70歳を超えた俳人の心の中に生まれたのだろうか? 
 今となってはその真意を知る由もないが,俺も一度,時も方角もない世界というものを見ておきたい,いや見ておかなければいけない,そんな使命感にも似た気持ちでここにやってきた。
 
 視界いっぱいに赤い砂が広がる光景と聞いていたが,純粋な赤ではなかった。
 褐色でもない。
 ましてや肥沃な黒でもない。
 強いていえば杏色。
 おそらく数千年,いや数万年前から何度もうねうねと形を変えながら,この砂の山脈は横たわっている。
 何億もの杏子の実をぐっと押し潰し,それを天日にさらして水分がすっかり抜け,杏を構成していた粒子が全て細かな粒にくだけてしまったかのようだ。手ですくい上げて鼻先に近づけてみるが,もちろん杏の匂いはしない。
 
 ここは本当に地球なのか? 
 火星に大気があるとするならこんな光景になるのではあるまいか。
 世界最古の砂漠なんて説明がなくても,世界はここから始まったと分かる。
 
 不毛の大地とは言うものの,実際は多くの生き物がいる。
世界最長寿の花ウィルウェッチア※5。
 「奇想天外」という和名のこの花は,こんな退屈な砂漠で2000年も生き続けているものもいる。
 2000年――。紀元1世紀のディアスポラ※6で世界各地に離散していったユダヤ人は果たしてこの花を見たのだろうか?
 大西洋の孤島※7に流されたナポレオンの叫び声をこの花は聞いたのだろうか?  
 
 サボテンもいる。
 砂漠の植物には猛毒を持つものが多い,とガイドが教えてくれた。
 獲物はサボテンのすぐ下で死んでもらう必要がある。
 中途半端な毒を注入された動物がよろよろと遠くへ移動してしまったら,その死体の栄養分を手に入れることができないからだ。そんな毒は持っていても意味がない。
 一撃で獲物を打ち抜く強力な弾丸がないと砂漠では生き延びることができない。
 俺は,そんな強力な毒を持っているか?
 
 とりあえずオレも詠んでおこう。
 日が沈む方が西だという砂漠 ——— 
 クソすればクソを甘しと吸う砂漠 ———  
 
 砂漠に水がないというのは嘘だ。   
 もちろん,どんな砂漠にも地下水やオアシスは存在する。砂漠の下には豊富な水が隠し玉のように眠っている。けれども,この砂漠には目に見える形で水が存在する。
 
 霧だ。
 沖合いの寒流(ベンゲラ海流※8)が強力なパワーを発揮しているため,この地域は霧が発生するための条件が整っている。
 
 今朝。
 スワコプムント※9のホテルで目覚めると,ホテル全体がとろーんと濃密な霧に包まれていた。
 部屋の窓を開けるとドライアイスのようにぬっと霧が侵入してきた。
 手を伸ばして驚いた。
 指先が見えない。
 こんな濃い霧は初めてだ。    
 この砂漠に生息するカブトムシの一種は,海から運ばれてくる細かな霧の粒子を器用に身体を使って集め,必要最低限の水を得ることができる。 
 
 くるぶしまで砂に脚を取られながら標高数十メートルある尾根を越える。
 360度一面アプリコットカラーの大地が広がる。季節は無い。
 時間も無い。
 足元にぽたりとしずくが垂れた。
 涙だった。
 嬉しくも悲しくもない涙だった。                  
  
 わが胸の 奥の院なり 紅い砂 ———
 
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※1 ナミブ砂漠
アフリカ大陸南西部,ナミビア共和国を中心に大西洋岸に分布する海岸砂漠。沖合の寒流(ベンゲラ海流)によって海水面に接する大気が冷やされ上昇気流が生じないため,降水量が極めて少ない(地P12)。
 
※2 ナミビア共和国
南アフリカ共和国から1990年の独立。面積82万㎢(日本の約2.2倍)。人口は257万人。国土のほぼ全域が乾燥気候のため,人口密度はわずか3人/㎢。ダイヤモンド・ウランなどの鉱産資源が輸出の多くを占める。
 
※3 津田清子
俳人。1920ー2015年。奈良県生まれ。奈良女子師範(現在の奈良教育大学)卒。主な句集に『礼拝』『二人称』『縦走』『葛ごろも』『七重』『無方』『津田清子句集』など。2000年第六句集『無方』で第34回蛇笏賞受賞。 
 
※4 モンスーンアジア
インドから東南アジア,中国,台湾,朝鮮半島,日本列島,シベリア東部の夏季に降水の多い地域。夏は海洋側から湿った季節風(モンスーン)が吹き,冬は内陸側から乾燥した季節風が吹く。稲作に適した気候であり,世界の米の9割はモンスーンアジアの河川流域で生産されている。
 
※5 ウィルウェッチア

ウィルウェッチア

ナミブ砂漠周辺にだけ自生する裸子植物。巨大な2枚の細長い葉を大地にへばりつくように成長する。寿命の長いものは2000年以上にもなり「世界一長寿の花」とも呼ばれる。奇想天外という和名は昭和初期に日本に初めて輸入した商人が名付けたとされる。砂漠という季語が無いように,この花にも花言葉はない。
 
※6 ディアスポラ
民族離散。元の居住地を離れて暮らす民族の集団,または離散すること自体を指す語。「難民」は元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し,ディアスポラは離散先に定住する点が異なる。特に,パレスチナ地域の外で離散して暮らすユダヤ人集団のことを指すことが多い。
 
※7 大西洋の孤島
ナミビアの西,南大西洋のセントヘレナ島(イギリス領)。700万年前に大西洋中央海嶺上に形成された火山島。ナポレオン1世(1769―1821)が1815年に流され生涯を終えた島として知られる。地P47。
 
※8 ベンゲラ海流 
アフリカ大陸南部の大西洋岸を北上する寒流。海岸砂漠であるナミブ砂漠の重要な成因となっている。
 
※9 スワコプムント
ナミビアの主要港かつビーチリゾートの街。旧ドイツ領のナミビアで,ドイツ風の町並みが今も色濃く残る代表的な街。ベンゲラ海流(寒流)の影響で夏季も気温が上がらず過ごし安いため,内陸部やドイツなどから避暑に訪れる人も多い。 
 
 


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