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地理Bな人々(13) クルマ①               河岸段丘

 土曜日の午後,PCで打ち込み作業に取り掛かった。
 USBに残された画像からすると,グランドキャニオンのあと,先生はモニュメントバレー※1サンアンドレアス断層※2にも足を伸ばしたようなのだけれど,その時の日記が見当たらない。先生の旅日記作成は文章と写真を繋ぎ合わせる工程が一番手間が掛かる。けれども,写真を見てこれは一体どこなのだろうと考える時間が実はこの作業の一番楽しい時間でもあった。
 
 大学に入学してから根無し草のように東京をゆらゆらと漂っていた僕にとっては,集中して取り組むべき長期的ミッションはひとまず気持ちを落ち着かせてくれた。僕は恭子さんの顔を時々思い浮かべながら,まずは丁寧に作業を続けることに集中しよう,と思った。
 
 夜7時ころひと段落し,近所のローソンでパンと牛乳を買い,オリジンのメンチカツ弁当を買って部屋で食べた。お茶を飲もうと湯を沸かしていたら外からクラクションの音が聞こえた。
 来たのか…。
 まいったな。来週ぐらいだと思っていたんだが。。。
 
  ○           ○        ○   
 
 久留間という男と出会ったのは僕が岡山から上京して3日後のことだった。
 東京で初めてコインランドリーに行った帰り道,僕は交差点で彼の運転するレトロなトヨタマークⅡ※3に撥ね飛ばされたのだ。
 横断歩道を渡っている時(信号は確実に青だった),右折車が僕を目がけて突っ込んできた。僕はボンネットの上に一度乗り上げ,地面に落ちた。乗用車が右折の途中でスピードが緩かったことが幸いし大事には至らなかったが,トートバッグの中の洗濯物が飛び散るという派手な演出を伴ったため交差点にいた人たちから悲鳴が聞こえた。僕の上着は肘に大きな穴が開き,数カ所擦り傷ができた。

 病院で治療を受けた後、警察で事情聴取を受けた。  
 事故が起こったのは4月4日の午後4時4分だった。もう一つ4が加わらなくて良かったですね,とつまらない冗談を警官に言われ,東京で生きて行くっていうことはなんと大変なことなんだろう,と暗澹たる気分になった。
 レントゲンを撮ると右足の骨にヒビが入っていることが判明し,3日後の大学の入学式には松葉杖で出席することになってしまった。おかげで僕は同級生に“松葉杖の人”として記憶されることになる。
 
 マークⅡを運転をしていた久留間という男は,大変申し訳ない,と事故の翌日から僕の通学をサポートすると申し出た。毎朝僕の住むマンションの前までやってきて送迎を担当する,というのだ。最初は断ったが,大学は最寄り駅から緩やかな坂になっているので送迎は確かに有り難かった。
 
 運転手付きのマークⅡによる重役出勤を3週間ほど続け,大学生活にもひとまず慣れ,松葉杖が不要になったので,もう送迎はいいよ,ありがとう,もう大丈夫,と僕は言った。
 しかし彼は,いやまだ償いは十分じゃない,行きたい場所があるはずだ,どこでも連れて行く,遠慮は無用だ,と送迎の継続を申し出た。  
 いや,特に行きたい所はないし遠慮もしていない,と返事をすると,そんなはずはない,行ってみたい場所があるはずだ,そこへ連れていく,と譲らず,しばし押し問答が続いた。
 僕は少々あきれて「じゃあ,沼田」と言ってみた。
 久留間はぽかんと僕を見た。
群馬県沼田市※4。きれいな河岸段丘※5をみてみたい。」と僕は無表情に言った。
  時刻は夜11時を回っていた。
 こんな夜中にそんな遠くへ行く愚か者はいない,沼田までは120㎞以上はある。こちらも初めから行く気などない。諦めて早く帰ってほしいだけだ。もうそろそろ眠い。
 しかし,久留間は表情ひとつ変えず「了解。」といって後部座席のドアを開けた。「後ろでゆっくり足を伸ばしていてくれ。」と言ってすぐドアを閉めた。そして何事も無かったかのように北に向かってアクセルを踏んだ。
 
 始めは呆気にとられていたけれど,後部座席の単調な振動が適度な睡眠導入剤となり,ぐっすり眠って目が覚めると,しんとした朝もやの中にマークⅡが停車していた。自販機の前で缶コーヒーを片手にカメラで写真を撮っている久留間が見えた。彼はリクエスト通りJR上越線・沼田駅前まで僕を運んできたのだ。 
 「カガンダンキュウって一体なに?」と久留間は缶コーヒーを差し出し言った。
「河川の周辺の土地が階段状になっている地形のことだよ。」  
「ここは有名なのか?」   
「たいていの教科書とか資料集で紹介されているよ。」
「ふうん。」と久留間はそれ以上質問はしなかった。もともと地形になど興味などないのだろう。それでも駅前から続く急坂には少し驚いていた。坂をうねうねと上ると広い平坦地に出た。市役所があり,明らかにこちらが街の中心部であるというのが分かる。沼田の市街地は利根川※6とその支流の片品川(かたしながわ)によって侵食された谷が東西にあり,その間に広がるテーブル状の台地に位置しているのだ。

 河岸段丘は急斜面と緩斜面が交互に出現する地形で,急斜面は土砂崩れ等を防ぐために森林※7となっているのが普通なので,数段の河岸段丘を横からみると緑色の帯が何本も平行に走って見える。  
 僕らは沼田の市街地をぷらぷらと歩き,公園のベンチでぼんやりしたあと,幹線道路沿いのとんかつ屋に入り,段丘崖の緑の縞模様を正面に見ながらカツ丼を食べ,道の駅で野菜を買って東京へ戻った。
 これが,事故の被害者と加害者による不可思議な週末ドライブの始まりだった。 
 
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※1 モニュメントヴァレー
アメリカ・ユタ州からアリゾナ州にかけて広がる乾燥地域。メサと呼ばれるテーブル状の台地や,それがさらに侵食された岩山であるビュートと呼ばれる地形が見られ,それが記念碑(モニュメント)のように見えることから名付けられた。(12)で登場したナバホ族の聖地とされている。多くの映画やCMにも登場するアメリカ合衆国西部を代表する観光地。安定陸塊の楯状地の上に広がる侵食地形である。地P8,P56④D。
 
※2 サンアンドレアス断層
3種類あるプレート境界(広がる境界・せばまる境界・ずれる境界)のうち,ずれる境界の代表例(地P4④)として知られる,カリフォルニア州南部(地P56④B)にある長さ1300kmの大断層。北アメリカプレートと太平洋プレートが横ずれを起こすことで形成される。カリフォルニア州ではこの断層の運動による地震が頻繁に起こっている。
 
※3 トヨタ・マークⅡ
トヨタが1968年から2004年まで販売していた乗用車。クラウンとコロナの中間に位置する車種として登場。耐久性に優れ,タクシーや社用車などにも多く使用されていた。 
 
※4 群馬県沼田市
群馬県北部に位置する人口43000人の市。西部を利根川が,南部を支流の片品川が流れる。JR沼田駅は段丘崖のふもとに位置している。
 
※5 河岸段丘
河川の周りに形成される階段状の地形。沼田市は規模が大きく大学入試問題でよく採り上げられる。天竜川や信濃川(津南町)にも大きな河岸段丘が発達している。また,宮城県仙台市の市街地も広瀬川の形成した河岸段丘の上に広がっている。《成因》谷底に平野が広がる地域で,河川の流れが速くなると(例えば上流で隆起が起こった場合など),侵食力が強くなり谷が深く形成される。ある程度まで侵食すると今度は水平方向へ削っていく力が強くなり,谷の周辺に段丘崖が形成される。これを何度か繰り返すと階段状の土地が形成される。地P172,P92②。
 
※6 利根川
関東平野を流れ千葉県銚子で太平洋に注ぐ,長さ322km,日本最大の流域面積(16840㎢)を持つ一級河川。「坂東太郎」とも呼ばれる。ちなみに流域面積とは,河川水が流れている水面の面積のことではなく,河川に流れ込む雨の降った地域全体の面積のことであるので注意。日本最大の平野(関東平野)を流れている一番大きな河川が利根川なので,流域面積も日本一なのだ,とイメージしよう。 
 
※7 森林
日本の古い集落は湧水を求めて台地や崖のふもとに形成されることが多い。しかし,崖下は土砂災害の危険性も高い。そこで急斜面には樹木が植えられていることが多いのである。樹木が根を張り巡らされることで土ががっちりとキープされることで,土砂の流出を食い止めることができる。逆に,森林を伐採すると,大雨の際に土砂が崩れやすくなり災害発生のリスクが高まる。 

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