俺的ビル・エヴァンス論

(前略)
 ここまでの思考をまとめると次のようなことが言える。私たちは、日常の体験や、喪失に対して、それらを言葉によって記号化することで「健全」な回復を試み、均一な事象が並んだ現実世界を生きることができる。しかし、言葉の行間に潜む歪んだ物事の関係性や曖昧さを強調し、記号化される前のモノ自体に対する体験と向き合うことは、人間の生き方として必ずしも悪いこととは言えないだろう。そのような方法で体験や喪失と向き合うことを、私たちは芸術、あるいは詩や文学と呼ぶのではないか。  
 このことを、ビル・エヴァンスの演奏作品を通して考えてみたい。エヴァンスはアメリカのジャズピアニストであり、残された数々の名演は今でも愛され続けている。彼は、トリオのベーシストを交通事故で亡くし、実の兄や恋人を自殺によって亡くしている。エヴァンス自身も、長年の薬物摂取によって身体を衰弱させつつ治療を受けることを拒否し、若くして亡くなってしまった。彼の人生は「時間をかけた自殺」と評される。それでは、彼がそのような人生を通して演奏したピアノにはどのような意味があっただろうか。私は、親しい人を亡くしたという喪失に対して、彼はまさに先に述べた意味の芸術によって向き合っていたのではないかと感じた。  
 エヴァンスの演奏について理解を深めるため、少し音楽理論の考察を挟む。西洋的な音楽は、原則として不安定な和音から安定した和音への解決によって構成される。19世紀までの西洋音楽はこの枠組みの下に作られており、20世紀におけるジャズなどのポップスも、それを顕著に引き継いでいた。エヴァンスは、不安定な和音から安定した和音に進むという既存の道程の間に、即興的な独自の経路を多く埋め込み、さらにそれぞれの和音の機能をあえて曖昧にした。また、ジャズ的なシンコペーション(リズムのアクセントを強調する技法)を多用し、演奏の中に時間的な歪みを生んだ。キャリアを追うごとに機能和声の多くを捨ててしまった場面もある。  
 私はこれらの演奏の特徴から、エヴァンスは、西洋音楽的な枠組みによって記号化されることのない、行間の曖昧さや歪みによって表現し得るものを追求していたのではないかと考えている。エヴァンスは自己の演奏を通し、不安定から安定へと向かうプロセスを、均一なリズムの上で再現するという行為から、脱却しようと試みていたのではないか。このことは、彼が自己の喪失から「健全」なプロセスを経て回復することを拒否していたことに重ねられないだろうか。  
 また講義では、自己を物語り、表現する中で、他者との関係性において人は喪と向き合うのだという考え方を学んだ。エヴァンスについて先のような考察をし、この場合の他者とはモノになり得るのではないかということを考えた。ピアニストであるエヴァンスは、モノであるピアノとの身体的な関係性を蓄積し、自己を物語っていただろう。  
 この中間課題に取り組む中で、エヴァンスが、決して「健全」とは評価できない人生を通して、喪失と向き合い、自己の芸術表現を追求していたことに関して、音楽的な考察と合わせてその意味を考え直すことができた。私たちがエヴァンスの演奏から耽美的な情緒を感じ取り、彼を詩的なピアニストであると評価するのは、彼の表現の中に行間の曖昧さや歪みを見出すからだろう。この授業の前半を通して、美しい表現はそれらを持っているのだと分かった。

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