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「きみは大器晩成だね。」と言われたけど、私はいつ大器になれるのかな?

「日記風」に書いていこう、と決心して、投稿は今回が3回目。でも自分で全部読み返してみたら、現在のことよりも過去のことばかり振り返っていることに気がついた。
もしかしたら過去をふりかえることで、現在がより見えるのかもしない。

またまた中学時代のはなしだが、教会学校で先生をしていた大学生のお兄さんが私に、「君は大きくなったら何になりたいの?」とおもむろに聞いてきた。
「…まだ、わからない。」と答えた。(その時は自分でわかってたけど、そのお兄さんには言いたくなかった)
「…君は大器晩成だね。」とお兄さんはつぶやくように言った。

まだ中学生だった私は、この「大器晩成」という言葉をポジティブな意味でとらえるべきか、ネガティブな意味で理解すべきか、どう解釈したらわからず戸惑った。
「君は、いつか大器になれる」というポジティブな意味?
「君は、歳をとるまでは、大した人間になれない」というネガティブな意味?

今、私は58歳。
大器になっただろうか?
なっていない…、と思う。
じゃあ、「私は、大器晩成よ」とこれからも自分を信じて、生活していくのだろうか?
でも、そもそも「大器」と言われる人は、どのカテゴリーで、どの度合いで「大器」とみなされるのか?
有名さで? お金の有無と量で? すごい発明や発見で?
文学や絵画、音楽などの芸術の世界で?

考えてみたら、有名なオランダの画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、死後にやっと絵が売れるようになったというし、有名なスイスの心理学者カール・グスタフ・ユングも、死後に功績がだんだんと認められるようになったと聞いた。
ということは、彼らは「大器『死後』成」だったのだろうか?

一般的に「大器」かどうかは、結局、外側の、別の人からの尺度で決められているような気がする。
じゃあ、内なる「大器」があったっていいじゃないか。
「大器『自己満足』成」だ!
外から「大器」と思われていても、苦しかったら、人生台無しだ。
今、与えられている生活の中で、満足していて、毎日やっていて楽しいものがあったら、外側から認められなくても、「やった、成功した!」と思えばいいし、もしかしたら、別の人がこっそり「あー、さくらんぼケーキさん、いいな~」って羨ましがってるかもしれない。

お墓に入る前に、あーよかった。自分の中で「大器」になって終わったわ。「大器『自己満足』成」だったわ。…と思える生活をしたい。






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