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安藤 明-日本の敗戦時,昭和天皇の延命に貢献したつもりだった義侠心

 

 ※-1 敗戦直後,昭和天皇の延命工作のために必死に働いたつもりの安藤 明,ただし用済みになったあとは,完全にしらんぷりを決めこんだ皇族もいたという話題

 敗戦直後における日本政治社会史の話題となる。昭和天皇の延命工作に尽力したはずの「安藤 明の活躍」が間違いなく記録されていた。

 しかし,この安藤 明という人物は,「戦後GHQ的な汚史」に関する話題に直結する〈秘話〉的な物語の舞台も提供していたがために,現代日本政治史のなかでまともに取り上げられることは,まずありえなかった。「汚史」という表現がその点を明示する。

安藤 明,壮年期

 ともかく,旧大日本帝国が敗戦した。その直後,アメリカ軍が日本に占領統治をするために進出してくるにあたり,当時すでに大混乱していた国内の状況のなかで,マッカーサー元帥率いるそのアメリカ占領軍を受け入れる態勢作りに大いに貢献する男として,つまり安藤 明の介在があった。

 付記)冒頭の画像資料は,安藤眞吾『昭和天皇を救った男-安藤 明 伝』幻冬舎ルネッサンスブックス,2007年の帯から。原色は赤地に黒だが,ここでは「白黒」基調に変えてあるものを借りた。

 付記)本稿は,初出 2009年7月29日,2020年10月31日 補訂,そして本日 2023年4月17日 更新として再公表となる。
 
 繰りかえして断わっておくが,この男:安藤 明は,敗戦後の日本政治史の柵内ではけっして歓迎されない人物となっていた。

 それゆえ,政治史にかぎらぬ社会史全般においても「大日本帝国敗戦後史事情」の一環として実在し,実際にその歴史の展開に対して特定の関与をしてきたこの安藤 明という人間は,抹消すべき存在でしかありえなくなっていた。もちろん,歴史や社会の教科書に言及される人物でもなかった。

 安藤 明という義侠心あふれたこの男が,大日本帝国が崩壊したさい,一躍活躍しだした事実は,日本の「敗戦後史」のなかに特筆大書されてよかったはずだが,なぜかという以前に,しごく “当然であったかのように”,そして 「自然にかつ人為的に」といっていいような具合に,その時代にあっては「記録されるべきではない」人物あつかいされてきた。

 本日のこの記述の眼目,要点は以下の2点に表わしてみたい。 

  要点・1 安藤 明が本当にヒロヒトを救ったのか

  要点・2 敗戦混乱期において「天皇と庶民」が確かに織りなしていた「世相史の一コマ」

 なお,安藤 明についてはユーチューブ動画サイトで唯一と思われるが,「6年前」(ということは2017年)に制作・公表されていて,宮崎 学がじかに出演して「解説者」となっていた動画,『安藤明 フィクサー列伝』がある。これをさきに視聴してもらうことが,本日のこの記述の理解には大いに助けになると考え,つぎ(後段)にかかげておく。

 ただし,宮崎 学の解説のうち「21分あたり」からの画面で,1945年9月27日,昭和天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問したさい,つぎのような会話があったと綴っている。しかしながら,その点は,通説的な理解としてはすでに,「マッカーサー一流の作り話(ホラ話のひとつ)」だと受けとめられている。マックの口調に特有の満艦飾的な修辞のひとつであった。

 天皇の話はこうだった。『私は,戦争を遂行するにあたって日本国民が政治,軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して,責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に,私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。

 死をともなう責任,それも私のしるかぎり,明らかに天皇に帰すべきでない責任を,進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は,すぐ前にいる天皇が,一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年)。

 補注)ダグラス・マッカーサー,津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社,2003年。日本語訳初版が1963年発行。

『マッカーサー回顧録』の虚偽

  つぎのユーチューブ動画サイト『安藤明 フィクサー列伝』である。25分51秒の上映時間なので,面倒でも(早送りでもして)視聴してもらえれば,と思う。本記述に理解にとって有益な内容が収録・編集されている。

 

 ※-2 中山正男『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』2003年

 古川圭吾編・復刻「ニッポン秘録」中山正男『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』講談社出版サービスセンター,2003年という本がある。出版元の講談社出版サービスセンターは,自費出版を請けおう講談社グループの1社である。

 本書の詳細は,つぎのように解説されている。

 終戦直後,焼け野原の東京・築地に「大安クラブ」が誕生した。 多数の美女たちが雇われ,GHQ高官相手に接待攻勢が繰り広げられた。

 酒,女,破格の贈り物…私財を投げ打って,この昭和「鹿鳴館」を開設した男の名を安藤明という。

 その目的はただ一つ。天皇制護持。

 歴史の彼方に消え去った快男児の生涯が甦る。終戦史に一閃の光芒を放つ「大安クラブ」の全貌。

ニッポン秘録

 目次はつぎのとおりである

 第1部 中山正男著『にっぽん秘録』(厚木事件; “大馬鹿野郎” の履歴書;天皇護持の旗あがる;昭和鹿鳴館誕生す;死装束のクリスマス・パーティー ほか)

 第2部 証言 私が見た安藤 明(父,昭和三十七年八月十五日(終戦記念日)死す 父と母の思い出 政財界人の追悼録 ほか)  第3部 安藤明回想録 

中山正男・目次

 安藤 明は,1901年東京で生まれ,戦前から電話線工事を請けおう大安組を経営していた。この大安組は敗戦直後,「厚木事件」を解決したのを契機にさらに成長し,最盛期には日本全国に十数か所の支店,従業員16万人をかかえる大会社になった。

 この安藤 明を手っとり早く,簡潔に解説している文章は,つぎのように描いている。

         ◆ 昭和期の実業家 大安組組長 ◆
 生年:明治34〔1901〕年2月15日(出生地 東京),没年: 昭和37〔1962〕年8月15日    

 学歴〔年〕 下谷小学校〔昭和5:1930年〕中退

 経歴 --13歳で東京市役所給仕,以後旅芸人一座,馬車追いなどを転々。23歳の時運送屋を開業,朝鮮,満州にも進出。

 昭和11〔1936〕年土建会社「大安組」を設立,大東亜省,軍需省の顧問となり,軍需品輸送,飛行場建設などに従事。
 
 昭和20〔1945〕年8月24日,マッカーサー元帥を迎えるGHQは,徹底抗戦派の手中にあった厚木飛行場整備を日本側に要請,海軍省の依頼を受けた安藤は500万円で仕事を請け負い,突貫工事で一夜のうちに完了した。

 海軍省は「真珠湾攻撃と同等以上の功績」として “省最後の感謝状” を授与した。この画像は,古川編,中山『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』口絵に掲載されていたものである。

旧海軍発行最後の感謝状

 私財を投じGHQ用社交場「大安クラブ」(のち「若てんばクラブ」)を開き,GHQ高官を接待。

 ホイットニー将軍に天皇戦犯論撤回などを陳情したが,昭和21〔1946〕年6月贈賄容疑でGHQに逮捕され,禁固6カ月,罰金刑の判決を受けた。
 出典)日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』2004年。
 

 ※-3 1945年8月敗戦と厚木事件

 この「厚木事件」を説明する。--1945年8月15日正午「敗戦の詔勅」が天皇の肉声(録音盤)によってラジオ放送された。だが,これにいさぎよく服従することを拒み,反旗をひるがえしていた「海軍厚木基地,三〇二航空隊(司令:小園安名大佐)」という部隊があった。
 註記)以下しばらく,「厚木事件」 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-atugi.htm 参照。この記述の住所は2023年4月17日現在も閲覧できる。

 この厚木基地には1945年8月30日,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の司令官となって日本占領を指揮するダグラス・マッカーサー元帥が,専用機バターン号で到着している。

 だが,8月15日以降,小園司令の航空部隊は,それを妨害するかのように,滑走路上には破壊した海軍機やその部品などを多数ぶちまけており,これを片づけなければ航空機の離着陸が不可能な状態であった。

敗戦時・厚木基地画像1
敗戦時・厚木基地画像2

 1) 1945年8月15日
 本土防衛を任務とする海軍厚木基地の三〇二航空隊は太平洋戦争の後期・末期,小園司令のもと撃墜の戦果 120機(B-29 が 80余機)といわれる。1945年8月15日正午,天皇陛下の詔勅がラジオから流れた直後,小園司令は隊員に向かって

 「降伏の勅命は,真の勅命ではない」
 「皇軍には必勝の信念があって,降伏の文字はない」
 「日本の軍隊は解体したものと認める。ここにわれわれは部隊の独立を宣言し徹底抗戦の火蓋を切る」
 「小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。自分は必勝を信じて最後まで戦う」

などと,熱弁を振るったという。

 敗戦という出来事はこのように,海軍航空隊に軍紀違反,そして反乱を生じさせたのであるが,当時これを鎮圧する軍事力がもはや日本帝国海軍にも陸軍にもないほど混乱をきわめていた。

 2) 1945年8月16日以降
 小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を,海軍の各部隊宛に緊急電報で発信,陸軍や国民に向けて檄文のビラも用意した。そのビラは以下のような檄を飛ばし,零戦(首都圏),月光(関東・東北),彩雲(中部),銀河(北海道・中国・四国)によって,各地に撒布されたという。

 「国民諸子に告ぐ」
 「神州不滅,終戦放送は偽勅,だまされるな。いまや敵撃滅の好機,われら厚木航空隊は健在なり。必勝国体を護持せん。勤皇護国」
 「皇軍なくして皇国の護持なし。国民諸君,皇軍厳として此処にあり。重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。之真の忠なり。之必勝なり」

 8月16日,米内(よない)光政海軍大臣が翻意をうながす意向を伝えるが,これを小園司令が拒絶し,説得工作も決裂した。小園はのちに軍法会議で「抗命罪」に問われることになる。

 連合軍から,マッカーサーの厚木基地への進駐期限が通達され,裕仁天皇も軍人にあて隠忍自重の勅語を発する。米内海相は,横須賀鎮守府に厚木の断固強硬鎮圧を命じるが,寺岡謹平司令の猛反対を受けて,実行されなかった。

 8月20日,高松宮から「陛下の御心」を伝えられた菅原中佐・吉野少佐の2名は,抗戦態勢の終結を決意し,302航空隊の士官を説得に当たった。21日,小園司令は身柄を拘束され,海軍野比病院に監禁される。厚木基地では,納得ができない士官・下士官・兵たちが「降伏否定」の旗色を,いっそう鮮明にしていた。

 8月26日,アメリカ軍の先遣隊として輸送機13機が厚木に着陸し,つづいて8月30日,連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立つことになった。 
 

 ※-4 厚木基地の整理・始末とその後の日本

 海軍厚木基地の302航空隊が,連合軍の日本占領を妨害しようと滑走路上にぶちまけた航空機やその部品などを,この部隊がまだ居残るなかで「生命をかけて」片づける工事を請けおい,アメリカ軍の先遣隊の輸送機が到着する前日の午後4時から当日の午前8時までにかけて一気に実行したのが,安藤 明の「大安組」であった(古川編,中山『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』第1章「厚木事件」)。

 この厚木事件にさいして軍部の仕事を請け負ったのをきっかけして,以来,安藤は「天皇を護りきる」ことに人生を賭けることになったという。日本のため,天皇制を守るため莫大な私財を投げ打って,影で奔走したのが安藤であったというのである。

 1) GHQの占領政策
 安藤は,敗戦後の混乱を避けるためを思い,GHQ親日派将校たちとの太いパイプを作り,GHQ高官に天皇制の大切さを説いた。そして安藤の人脈と提案により,昭和20年9月27日「天皇・マッカーサー会見」が実現する。

 2) 昭和の鹿鳴館
 安藤は手もちの資材を投じて「大安クラブ」を作る。それは,GHQの将校だけを接待するために作られた高級クラブであった。

 3) その後の安藤 明
 しかし,日本が復興に向かうころ安藤の事業は辛酸を舐め,ついに病には勝てず 1962年他界する。奇しくもその日は17回目の「終戦」記念日であった。この厚木事件を扱った作品に,1967年に公開され映画:岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』がある。

 なかんずく,中山正男『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』2003年は,安藤が敗戦直後の日本を救う役割,それも昭和天皇をマッカーサー会見させるために尽力した人物と描いている。さらに,GHQ将校に酒池肉林を提供する「大安クラブ」を設営して贅沢三昧に接待し,帰るときには高価な貢ぎ物も与えていた。

 4) 問題の焦点:歴史の真実は?
 「マッカーサーと天皇会見」と 「GHQ将校接待」に関していえば,中山『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』の記述内容=主張点を,そのまま真に受けて,全面的に支持しうる「歴史上の客観的な根拠」は与えられていない,というほかない。

 連合軍・GHQ側の規定方針あるいは意思形成に対して,いかほど安藤の動きが効果を発揮しえたかといえば,これを具体的に実証するに足る「必要かつ十分な資料や証言」が提供されているわけではない。

 昭和天皇がマッカーサーと会見できた事実に関して,安藤の根回し・働きかけ・画策がなんらの影響を与えたことは,否定しきれない。しかしまた,「大安クラブ」でGHQの将校を接待し,一生懸命に懐柔した安藤による努力が,戦後占領政策にどのように関連し,どのくらい左右できたかは,そう簡単には評価のしようがない問題点である。

 しかし,敗戦後におけるGHQの占領政策とその実相については,日本政治史〔学〕からする学術的・専門的な研究業績があまた公表されている。確実にいえるのは,こちらの社会科学的な関心研究からはこぼれ落ちていた安藤 明のような人物が,敗戦後の日本史のなかで実際にいかほどの役割を果たしえたのかについては,その評価を具体的に定めるためにも究明されねばならない,ということである。

 中山『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』は,「マッカーサーと昭和天皇の会見」に関して,佐藤栄作〔元首相〕に直接聞いた話だとして「安藤君ひとりの冒険的演出であった。これはながく歴史に残る大場面とみなければならない」と言明したという(112頁,冒頭にかかげた画像にはその佐藤栄作の証言が紹介されている)。

 そうだとすれば,日本政治史において見逃された重大論点が「マッカーサーに会見した昭和天皇」をめぐって存在していたことになる。しかし,安藤 明の敗戦後史におけるそうした政治の舞台「裏」的な活躍ぶりは,米軍による日本占領体制が解かれる以前に,世間の関心からは遠のいていた。

 マッカーサーと天皇が並んで立っている「あの有名な写真」が撮られ,昭和天皇の〈神性〉が瞬間的に揮発させられた出来事の実現を斡旋・仲介した人物が「安藤 明であった」というのである。

マッカーサーと昭和天皇の会見,カラー補正版

 その事実が本当に本当であったとすれば,この〈史実〉に専門分野の1人の研究者も気づかずとりあげてさえこなかったという研究史が,のちのいつであっても問題になっていいはずである。

 中山正男は佐藤栄作から聞いたとする話を「某日,佐藤栄作と面会する機会にめぐまれた」と語っているが(112頁),これでは学問的に実証性=信憑性を発揮しうる「歴史的に十分な根拠たりえない」。ここに難点があったといわざるをえない。

 敗戦直後,GHQ体制に対して「大安クラブ」が実際に発揮できたという〈なんらかの効果〉の認識あるいは測定も,いままでのところ,これを現実的に関知・推測する術はない。これをもって,日本の政治学の怠慢だとか,歴史の真実が放置されていただとか嘆いてよいのかどうかについても,なお解釈しきれない要素がある。

 中山『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』を読むかぎり,この安藤という人物の個性が,以上のような解釈の余地を生むほかない軌跡を描いてきたといえなくはない。

 いずれにせよ,敗戦後における現代日本政治史,それもいままであまり脚光を浴びていなかった「その在野史の領域」に対しても,専門の研究者が関心を向けてみるべき問題が,安藤をめぐり実在している点は確かである。
 

 ※-5 その後における皇室・皇族側が安藤 明に示した姿勢

 1) 中山正男『昭和の快男児 日本を救った男 安藤 明』講談社出版サービスセンター,2003年にその名が出てくる人物として,昭和天皇の弟・高松宮がいた。この高松宮は,敗戦後も10年以上の時間が経過したあとでの対応となるが,自宅に訪ねてきた安藤のことなど, “知らぬ存ぜず” の態度に変わっていた。つまり,けんもほろろのあつかいをした。

 高松宮にとってみれば,安藤 明という存在は「過去におけるひとつの記憶」でしかなかった。多分できれば,その記憶じたいが抹消したい記録に仕分けされていたと推察される。「十年一昔」とはよくいったものである,いうふうに形容したらよいのである。

 2) 安藤眞吾『昭和天皇を守った男-安藤 明 伝』幻冬舎ルネッサンスブックス,2007年のなかには,木下道夫『側近日記』(文藝春秋,1990年)があり,そのなかに安藤 明に言及のある記述が389頁からなされていた。そしてつづけては,「天皇の伝わっていた『安藤情報』」という見出しをかかげた1節も設けられていた(402頁以下)。

 また,藤田五郎『にっぽん秘録 万世に太平を開いた男』(財元舎,昭和51〔1976〕年は,高松宮の名前を明記して記述する箇所があったので,こちらは該当頁を画像資料にして紹介しておく。

安藤 明と高松宮のその後

 3) 関連著書において「帯」に書かれていた「宣伝用の文句」
 ここでは,山田邦紀・坂本俊夫『「昭和鹿鳴館」と占領下の日本 ジャパンハンドラーの源流』現代書館,2022年の帯に謳われた「宣伝文句」を紹介しておく。

山田・坂本『「昭和鹿鳴館」と占領下の日本-ジャパンハンドラーの源流』の帯から

 以上のごとき安藤 明が関与していた「敗戦直後史における天皇・皇族たちへの側面援助」が本物であって,しかもそれなりに “特定の効果” を挙げえていたとしたら,天皇家じたいは安藤の尽力に対して深甚なる感謝を捧げても,なんら不思議ではない。

 もちろん,そのあたりの歴史学的な評価や位置づけには慎重さ要求される。それにしても現代日本政治史を専攻する歴史学者のなかで,安藤 明の存在に注目し,解明したという記録はない。なぜか?

 いずれにせよ,安藤 明という人物の経歴は,GHQ(占領軍最高司令部)との関係も念頭に置きつつ天皇家側の立場を斟酌してみれば,その関係の深浅・濃淡の度合がどうあったとしても,可能なかぎり抹消しておきたい「歴史上の記録」であった,と受けとるのが妥当な判断たりえよう。

 とはいえ,いまとなってはともかく,安藤 明に発する「皇室・皇族関連の〈歴史の記録〉」は,天皇家一族側の立場にとってみれば「記憶に残さないことが好ましい〈敗戦後史の一コマ〉だ」という解釈が可能である。

 天皇家だけでなく,皇族関係者たちの全般的な立場から観ても,ぜひとも必要な「敗戦後史に関する〈そうした思慮〉」「皇族生活に必要不可欠の知恵」であったと推察される。

 参考にまで触れておくと,『高松宮日記 第8巻 昭和二十年~二十二年』中央公論社,1997年において安藤 明の氏名が登場するは,1945年12月14日(金)の1回のみである(同書,208頁)。

 これはあくまで,本ブログ筆者の勝手な詮索として述べる点であるが,同書の編集・制作の過程で,安藤の存在そのものが最小化されたと受けとめても,けっして邪推の推定にはならない。

 また,冒頭で紹介したユーチューブ動画サイト『安藤明 フィクサー列伝』の「宮崎 学」による解説は,本ブログ筆者がこの記述で論及している核心とはまた,別様の関心事から準備されていた。

 4)「付 記」

 ネット上には,安藤 明に関しての伝記的な記述・解説そのものは,いくつも存在している。だが,敗戦後史から現在にまで至る「現代日本史」における論点とみなしたうえで,この安藤をどのように位置づけ評価するかという「むずかしい問題」に十全に言及したものは,冒頭に紹介した宮崎 学が司会者として登場するユーチューブ動画サイトを含め,ほとんどみかけない。

 いってみれば,安藤 明的に足跡が記録されてきた「その種の天皇・天皇制に基本からかかわる問題点」は,ブログ的な世界で直接に討究される以前に,学問の世界で本格的に追究されているべき課題・論点であった。

 しかしながら,そのようなあつかいは,いっさいなされていなかった。敗戦「直後」史のなかで大活躍した安藤 明という,まことに希有の個性が強烈で興味深い人物は,学問的な次元においてもあらためて,十分に解明されるべき余地がある。  

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