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大日本帝国と満洲帝国の思い出,赤塚不二夫の作品にまつわる歴史性の問題

 ※-1 大日本帝国と満洲帝国の思い出,赤塚不二夫の作品に反映されつづけていた「帝国の欲望のなれのはて」への批判精神を吟味する                  

 付記1)冒頭の画像は,「バカボンのパパ」『プリ画像』投稿日:2018/01/12,https://prcm.jp/album/cc282615f0dac/pic/73899948

 付記2)「満洲」と「満州」という漢字の違いには一定の意味があるが,ここでは区別せず,しかも以下の記述では気にせず混用している。

 1) 昔「満洲国」という国があった
 『朝日新聞』2014年1月10日朝刊に,山室信一「〈過去 2014 未来〉「満洲国化」する日本」http://digital.asahi.com/articles/DA3S10917668.html?iref=comkiji_redirect が掲載されていた。冒頭部だけ引用する。なお,以下で〔 〕内捕捉は引用者であり,現時点(2023年4月)に合わせておくための補語も添えてある。 

 --かつて中国の東北部に,13年間だけ存在した「国」があった。満洲国と呼ばれたその国は,高い理想をかかげながら,矛盾と偽りに満ちていた。

 安倍〔晋三の元〕政権の誕生から1〔10〕年〔以上〕を経たいま,山室信一さんは「いま進んでいることは,日本の満洲国化だと思っています」という。2014〔そして2023〕年の日本は,あの国とどこが似てきているのだろうか。

 記者が「いまの日本が『満洲国化』しているというのは,どういうことでしょうか」問うたのに対して,山室はこう答えていた。「安倍〔晋三〕さんは『自立する国家』をかかげてきました。

 でも現実には,特定秘密保護法やTPPなどで,アメリカのかいらい国家という性格が強くなってきているのではないか。理想国家の建設をかかげながら,日本のかいらい国家への道を歩んだ満洲国に似てきています」。(引用終わり)

 2) この発言があってからすでに9年と3カ月ほど経った。
 山室信一が指摘したのは,「現在の米日関係」に「過去の日満関係」が似てきたという事実であった。1932〔昭和7〕年3月1日,前年9月18日の「満洲事変」のあとを受けて,日本のカイライ国=満洲国(2年後の3月1日からは満洲〔帝〕国となる)が建国されていた。もちろん,日本が属国としてこの国づくりをしたのである。

 その満洲国の地図をかかげておきたい。この地図をかかげていた現著者が満洲国について若干説明を与えていたので,そのなかから少し引用してある。下部に転記した。

満洲国地図など
  

 ※-2 敗戦時の満洲日本人人口と犠牲者(推定数)

 1) 日ソ戦などによる犠牲者

 ☆-1 [死亡者]総数20万名に達すると推定。
  a)  日ソ戦闘期間中,軍人軍属2万6千名以上,邦人3万名以上。
  b)  敗戦後,軍人軍属,邦人約14万名。
  c)  国境の戦闘,軍人・軍属約2万5千名,邦人約1万名。各地の混乱,疫病,食糧難,軍人軍属・邦人17~18万名。

 ☆-2 [行方不明] 3万余名も大部分死亡か。戦闘直前から敗戦1,2年後までの期間中に消息を絶った3万余名のいわゆる状況不明者の大部分が,今日においては死亡につながるものと考えざるをえない。

 ☆-3 [ 国際結婚者・孤児=消息のある者]約 2,100名。

 ☆-4 終戦前後 死亡者=24万5千人名。日ソ戦闘間6万名,終戦後18万5千名。

 ☆-5 在満洲・関東州邦人=155万名 昭20年6月以降,関東軍召集15名。
 補注)いわゆる「根こそぎ動員」,しかし6月以前から逐次召集されていた。

 2) 満洲国人口(日本人)の犠牲者

 ◇-1  在満日本人数,166万人(1944年9月,含関東州,除軍人・軍属・家族)→ 145万人(1946年5月)。うち死亡者数,17万4,022人(敗戦~1949年),1950年以降,死亡者・行方不明 約3万人。

 ◇-2  満洲国・関東州人口=166万2234人。満洲国 143万3324人(除軍人,軍属,家族。含開拓団。1944年9月 満洲国政府調査)。関東州 22万8910人(1945年6月 関東局調査) 

 ◇-3  開拓団 19万6739人(1945年5月 満洲国国勢調査。満洲国・関東州人口 154万9700人(1945年8月9月 ソ開戦時推定)

  → 死亡者=18万0694人 (1945~1949年), (長春市 2万7669人,奉天市 3万443名,哈爾浜市 1万5157人,奉天省 1万2353人,旅大地区 1万6036人。死亡・行方不明=約3万人(1950年~)

 ◇-4 終戦時:在満邦人 155万人,うち開拓団=在籍者27万(17%),このうち内応召者4万7千人,実在22万3千人(14%)

  → 死亡者= 17万6千人,うち開拓団8万人(45%),このうち戦死・自決 1万1520人

  → 『引揚開始時 人口(1946年5月)136万1千人』
 註記)『中国帰国者問題同友会』1996年5月調査,http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/mondaishi/shusenji.htm  関連資料が文献として挙げられているが割愛する。くわしくは,同上ホームページ・アドレスを参照。

 3) 満洲国敗戦事情
 満洲国を防衛する日本の関東軍は,日ソ中立条約をあてにしていた大本営により,1942〔昭和17〕年以降増強が中止され,のちに南方戦線などへ戦力を抽出しており,十分な戦力をもたなかった。

 兵力の数的な不足と同時に,精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化,ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備も不十分であった。1945〔昭和20〕年8月8日ソ連対日参戦が開始されると,国境付近で多くの部隊が全滅し,侵攻に対抗できなかった。

 関東軍首脳は撤退を決定し,新京(首都)の関東軍関係者--主に将校の家族,関東軍の上級関係者たちだけ--は8月10日,いち早く,莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは,主に満蒙開拓移民団員をはじめとする日本人居留民たちであった。

 通化への司令部移動のさい,民間人の移動も,関東軍の一部では考えられた。だが,軍事的な面から民間人の大規模な移動は,「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること,邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材,時間もなく,東京の開拓総局にも拒絶された。この結果,彼らは置き去りにされ,満洲領に攻めこんだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/満洲国 参照。
 

 ※-3 旧「満洲国」出身文化人-赤塚不二夫 (天才バカボンのパパなど)の事例-

 満州・満洲国出身の有名な日本人は,大勢いた。前項※-2に解説した在満日本人はそのほとんどが日本に舞いもどって来たのである。文化人としては,映画監督の山田洋次がとくに有名であるが, ここでは漫画家赤塚不二夫をとりあげてみる。

 1) 「満洲国」人からの文化発信
 2008年8月2日,マンガ作家の赤塚不二夫が他界した。赤塚の死亡を伝える新聞記事は,必らず旧「満洲国」の出身者=「生まれ」であることを記していた。彼は敗戦後,日本に引き揚げてくるさい,生死にかかわる苦労を体験している。 

赤塚不二夫葬儀でタモリが弔辞

 出所)写真は「〈ニッポン偉人・奇人・変人伝〉赤塚不二夫〈後編〉笑いを生み出す力の裏には “悲劇的体験” 」『日刊ゲンダイ』2018/06/12 06:00,更新日:2018/06/13 16:43,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/230978 から。飲み助だった不二夫の葬儀で弔辞をよみあげるタモリ(写真・右側)。

 さきに,1996年8月4日,他界していた渥美 清が映画「寅さんシリーズ」で演じた日本人像は,実はやはり満洲育ちの映画監督山田洋次の指揮によって造られたものであった。

 1945年8月に日本が敗戦したとき「満洲国」には170万人近くもの日本人が在留していた。この人数に親類縁者や友人,知己などへの広がりをも絡めて考えれば,戦前・戦時期に日本人たちがどのくらい多く「満洲」国とつながりがあったかは,おおよそ想像できる。

  もとより謬説なのだが,日本人・日本民族は「単一純粋民族」だという認識は,1945年8月以前の日本帝国においても,まったく事実に反していたということになる。というのは,大日本帝国は,植民地の台湾と朝鮮を保有し,カイライ属国「満洲国」(五族協和がこの国家の理念であった)までかかえていたのだからである。その五族とは「漢・満・朝・蒙・日」であった。
 
 --戦時下の標語にも,こういわれていたものが,実際にあったではないか。

     『屠れ! 米英 われらの敵だ 進め! 一億火の玉だ!』

一億火の玉だ!

 この数字〈1億〉のうち約3割は,日本人そのものではないという意味での外国民族であった。

 ただし,この説明は「満州国の中国人たち:など」を計算に入れていない。なぜなら,日本の属国だった「満州国」ではあっても,日本帝国とはべつの『国』=「満州帝国」の国民だったからである。

 また,不思議なことに満州国において日本人は満州国人ではなく,「日本国籍人」であった。この国籍関連の事情をしっただけでも,「王道楽土・五族協和」を謳った満州国の「欺瞞性」は,当初から周知のことがらであった。その点は日本人・民族自身が,意識するとしないとにかかわらず,いわずして納得していた。

 しかしくわえていえば,満州国に居住した日本人・日本民族のなかからは,「単一純粋民族」というヤマト的な虚構を実質的に突きくずす時代的・歴史的な要因となるものが,それも自然のなりゆきをもって生成された。

 在朝2世や在台2世,在「満」2世として現地で生まれ育ってきた日本人の子どもたちは,日本民族として括りきれない,つまり単一でも純粋でもない「民族性」を,その地であって自然に刷りこまれ,これを〈固有の素質〉として育まれることは必然的な方途であった。

 日本人や日本民族の心をとくに揺さぶることのできた映画やマンガを制作してきた監督や作家が,もともと日本人として「外地」に生まれ育ったのち,日本「内地」に帰ってきてから,その偉才=異才ぶりを発揮してきた事実に注目してみると,つぎの点がいえそうである。

 つまり,前段のごとき「在満日本人だった子どもたち」が,日本に帰国(移住?)後,大人になっていく成長過程のなかで,どのような人格形成を新たに,それも個性的に実現していったかという事実は,非常に興味深い教育社会学的な問題を展示していた。

 2) 満州からの引き揚げ体験
  赤塚不二夫が創作した「バカボンのパパ」のモデルは,満州国関東軍憲兵だった〔のちに特務警察官となり,現地の人びとによる反満抗日運動をとりしまる任務に就いていた〕 父親であった。

 この父親は第2次大戦敗戦直前,ソビエト軍に連行され,シベリアに抑留された。日本に帰国できたのは1949年であった。残された家族は 1946年,母の郷里である奈良県大和郡山市に引き揚げ,ここでその間3年ほど生活したという。

 満州国で特務警察官であった時代の父親を,赤塚はこう描いている。

 おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。

 べつに護衛に守られていたわけではないおやじが,裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき,村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。

 だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで,おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。

 砦には時々,さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。

 「敵も味方も同じ人間じゃないか」

 なにか見返りを期待したわけではない,こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ --これがおやじの人間観だった。

『これでいいのだ―赤塚不二夫自叙伝-』から

 つまり,満州国時代も敗戦後も,不二夫一家はずいぶん苦労したのだ。指摘するまでもないが,その苦労のひとつを思いだして赤塚が描いた,この『マンガ:イラスト』もあるのだ!

 下の図は,母親と4人の子どもが大きなリュックサックを背負って,引連船に向かうときの様子・格好である。この図は,中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』亜紀書房,1995年,37頁。

引連船に向かうときの母親以下の様子

 補注)この絵をみると,「でっかいリュックを背負って,おふくろにしっかりとつかまって」〔「奉天駅〔現在の瀋陽駅〕まで歩いた」〕という説明文が添えられていた。
 
 おふくろの服にぼくがしっかりつかまって,そのぼくに妹の寿満子(すみこ)がつかまって,綾子を背負った寿満子に宣洋(のりひろ)がつかまって歩いたね。

 〔だが〕日本に引揚げてから,綾子〔末っ子の女児:上掲の画像では長女にオンブされている〕は「大和郡山に連れて帰ってきて,寝かせて30分後にフゥーって死んじゃったの」(中国引揚げ漫画家の会編,前掲書,38頁)。

 赤塚には満州国体験をもとにしたと思われる「硬派の漫画」もある。子ども向けに〈当時の新憲法〉を紹介した『日本国憲法なのだ!』草土文化社刊,1983年。本書を媒介に彼はこう語っていた。

 「悔しいのは,終戦になって,民間人の僕たちは,軍隊が守ってくれるどころか置き去りにされたことですよ。最初に逃げたのが軍部だった」。

「いくら政府が自衛のための軍隊だ,なんて説明しても,僕を守ってくれるものじゃないって,てんで信用してないの」だ。

 「ギャグの神様」も,戦争と軍隊だけは「これでいいのだ」と受け入れることを拒んだ。私たちは貴重な語り部を失ったのだ。

 「赤塚不二夫にとって日本は異国だった

 「子供の赤塚不二夫は日本で満州帰りとして差別される経験もした」

 「妹綾子は日本に辿りついて亡くなった」

 「その思いを抱えて生きるということが戦争というものの一つの意味なのだろう」 

『日本国憲法なのだ!』草土文化社刊,1983年


 筆者の知己の,ある大学の先生は,赤塚と同じような体験をしていた。彼いわく「日本国は敗戦後『中国に残留していた私たち=日本人』を見捨てた」と,吐き捨てるように語ったことがある。

 敗戦後,混乱の極致に追いこまれた満州在住の日本人のうち,最終的に「日本に引き揚げる」ことができなかった人びとが,いわゆる「中国残留孤児〔邦人〕」問題となって,日本社会のなかにいまなお〈旧大日本帝国の遺産〉を存在せしめることになった。

 インターネット上には『赤塚不二夫って,日本人ではないんですか?』というような疑問・指摘も飛びかっている。この感想は,在「満」2世であった赤塚というマンガ作家の本質をたしかに,いい当てている特定の側面があった。

 ちなみに「引き揚げ」とは「他国に入植した者が入植を断念し,本国に帰国することを指す」と解説されている。それも「とくに,戦争終結後に敗戦国民が当該国から追放されることを指すことが多い」とも断わられている。

  敗戦後,満州国など海外の植民地から日本に引き揚げた日本人の「体験」は,それまで記録してきた「過去の体験」を打ち消す材料になるばあいが多い。自分たちが受けた「1つの被害者意識」(引き揚げ体験の苦労)が「百・千・万をはるかに超えていたみずからの加害行為」(現地の人たちが受けた筆舌に尽くしがたい苦難)を,みごとに忘却させてくれるのだ!

 3) 「これでいいのだ!」の本義

   ★ おおらかさと明るさを表現する「これでいいのだ!」★
 赤塚不二夫のキャッチフレーズ:「これでいいのだ」の由来もわかった。中国では「メイファーズ(没法子)」とよくいう。方法がない,お手上げだ,ということから転じて〈しょうがない〉といったあきらめにもなる。

 赤塚不二夫は,帰国後の生活のなかでいじめや貧乏にぶつかり,漫画家デビューにも苦労した。そのなかで中国でよくいったこのことばを思い出し,自分のことばに作りかえた。おおらかに,明るく,人間も世の中も「これでいいのだ!」 と生きることを肯定したのだ。
 註記)「赤塚不二夫先生の『これでいいのだ』の由来は中国語の『メイファーズ』だったのだ。」『Transnational History』2008-08-13,http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080813/1218607328

 赤塚不二夫が頻発〔=乱用?〕する『これでいいのだ!』という得意文句は,けっして「それでいいのだ!」という意味ではなく,その「賛成の反対」〔の,そのまた,▽△??・・・〕だったと思われる。

 「バカボンのパパ」の口癖「これでいいのだ!」は有名だが,それと並んで「賛成の反対の賛成なのだ」(その逆のまた逆もあり?……だ)という意味不明のことばも,よくしられている。要するに,賛成や反対といいきらないのだが,けっして曖昧な態度をとるわけではない。彼なりのポリシーがあったのだ。
 註記)「賛成の反対なのだ」『早稲田大学 水島朝穂のホームページ』2005年7月11日,http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0711.html 参照。
 

 ※-4 補 述-2019年12月2日に安倍晋三政権を批判してみた-

 以上の記述をおこなったあと1年と8ヵ月近くが経ったころ〔つまり,2019年12月2日であったが,ネット上にこういう記事が出ていた。なお,赤塚不二夫は1935年に生まれ,2008年に死去している。

 2015年秋であったが,「あの『バカ田大学』が本当に開講 “バカとは何か” をマジメに追求するのだ! 都の西北早稲田のとなりは東大だったのだ。」が,こういう広告を出していた。
 註記)『ねとらぼ エンタ』2015年11月06日 15時00分,https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1511/06/news106.html

ワシも受けたいバカ田大学講義

 バカボンのパパの母校としてあまりにも有名なバカ田大学がこの冬,本当に開講するのだ。しかも場所は東京大学! 東大はバカ田大学の世をしのぶ仮の姿だったのだ!

  ワシも受けたいのだ!
  ワシも受けたいのだ!

 これは,「天才バカボン」の生みの親,赤塚不二夫さんの生誕80周年企画の一環で,12月から4カ月限定で開講する特別授業なのだ。

 「バカ田大学」と銘打たれたその趣旨は,バカボンのパパの殺し文句「これでいいのだ」に代表される「赤塚イズム」を再発見すべく,さまざまな分野の第一線で活躍する著名人たちを講師に迎え,それぞれの表現方法で「バカとは」について解き明かしていこうというものなのだ。

 講師陣は河口洋一郎東大大学院教授を筆頭に,漫画家のみうらじゅんさん,イラストレーターの安齋 肇さん,劇作家の宮沢章夫さん,コラムニストの泉 麻人さんほか。想像しただけでも抱腹絶倒の授業にならないはずがないのだ。(引用終わり)

 ところで,本ブログ筆者の手元には,『朝日新聞』2015年12月7日夕刊に,見出しを「バカ大学@東大なのだ 赤塚不二夫さん生誕80年 公開講座」「『バカとは』型破りな講師陣と迫る」などと付した記事の切り抜きが保存されていた。 

 「赤塚さん」の「長女」は『きっと,父は大好き』」な企画だと感想を述べ,前段に紹介したバカ田大学の開講を喜んでいたという。

 この記事はまた,こうも書いていた。不二夫のその娘は「『天才バカボン』が生まれた1960年代,日本は高度成長時代を走り,学生運動が盛り上がりをみせていた」。

 「多数派が作り出す常識や権威に対し,天才からバカになり,破壊的な騒ぎを起こして『これでいいのだ』というバカボンのパパ。そのキャラクターはさまざまな解釈をされたが,『楽しんでもらえればいいと,父はいっさい気にしなかった』」というのであった。

 しかしながら,最近のこの国においては,それこそ「解釈のしようもない,その余地などまったくない」,本当に正真正銘の「バカそのものである一国の最高指導者」が,まるでとち狂ったかのように,ただ身勝手なだけで,ひたすら恣意に走るそれも私物化・為政をおこないつづけてきた。
 補注)この段落の意味は,つまり,「安倍晋三⇒菅 義偉⇒岸田文雄」とつづいてきた自民党の堕落・腐敗政権の帰結が,2022年2月24日に「プーチンのロシア」によって開始されたウクライナ侵略戦争を契機に,より明白に露呈された事実を指している。

 いまの日本,かつて「Japan as No.1」であったはずが,いまでは「Japan is No. 10」,いいかえれば何事に関しても完全に「一桁,格落ちてしまった国柄」になっている。

 GDPの低落傾向が収まらず,1人あたりの所得水準はじりじり落下。

 ジェンダー・ギャップはあいからず大きい。

 報道の自由度は低位に定着。

 若者たちが幸わせになろうとする意欲をもてない。

 したがって,少子化傾向が回復に向かう要因などなく,あと5~6年も経てば出生率は1.0を切る。隣国の現状に近づく。 
 

黄昏ゆくこの国

 いまやこの国はとうとう,完全にガタガタ「化」をされつくしてきた。識者のなかには,この国は確実に発展途上国(=後進国)に向かい(戻り)つつあるのではないか,とまで懸念する人がいる。

 本ブログの前半の叙述には,21世紀になってからの日本は「満州国」化しているのではないかという指摘(示唆)があった。

 この指摘の場合で考えると,それでは関連して別途,昔・戦前,その「満州国」を造った「日本」に相当するのは「どの国だ!」という疑問が出てくる。だが,それへのの答えはあまりに簡単・明瞭であるゆえ,ここではあえて触れないでおき,関連する議論を以下につづけていきたい。

 思えば,安倍晋三の母方の祖父「岸 信介」がその満州国で実質,最高指導者である地位で活躍していた史実が記録されていた。また,敗戦後においてこの岸 信介は「昭和の妖怪」と指称されたものの,なんのことはない,ただの売国路線・服属外交を,どこのかの大国の意に即する方途でおこなってきただけであった。

 しかも,その外孫とみたら,祖父岸 信介の猿まね的そのものだけは上手に,しかもまずいことに,もっとヒドイ対米従属国家体制・路線をこの国に定着させた。

 そうした「アベの負の実績」は,赤塚不二夫がよく口に出していた “メイファーズ” だというわけには,どうしてもいかない。アベノリスクの弊害たるや,菅 義偉ならびに岸田文雄の政権が登場してきたかなかで,いよいよ全国津々浦々に浸透しつくした。

 安倍晋三という明治以来,憲政史上,最悪・最低の元首相がなまじ存在したがために,この国はいままさしく「亡国・滅国の危機」に瀕している。いってみれば,ひたすら自国に対して「国難をもたらしてきた」首相が,安倍晋三であった。

 思えば,実に悲しい経歴と実績しか残せなかったのが,この「妖怪の孫」としての安倍晋三であった。

【参考文献】
 横田 一『亡国の国賊・安倍晋三-旧統一教会との癒着』緑風出版,2023年1月。アマゾン通販(画像資料の添付がないので)はこちらで,⇒ https://amzn.to/40K9hiW

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