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立教学院および明治学院の戦時体制史における「記憶のその後」

 ※-1 日本の高等教育史におけるキリスト教・ミッション系学校法人の戦時体制期「問題」を考察する

 戦争の時代,立教学院および明治学院の場合,どのように,国家・皇室神道的な学問・研究・教育にむけられた弾圧に対処してきたのか。その奇妙な理屈の実例をかいまみる日本教育史の具体的な問題があった。

 付記1)冒頭の画像は八代斌助,神戸国際大学ホームページから借りた。のちに議論の対象となる人物。
     ⇒ https://www.kobe-kiu.ac.jp/info/about/hinsuke50th/
 付記2)本稿は,初出 2010年8月15日,更新 2020年11月6日を経て,本日2023年5月22日の再公表となったが,これなりに改訂される内容になっている。

 なかんずく,キリスト教・ミッション系学校法人の経営者は,戦時体制期においてどのように対応・行動していたか,その昔において記録してきたおかしな発言が歴史に記録されていた。

  要点・1 当時は,普遍性を欠いた宗教思想的な世界認識を披瀝した旧・大日本帝国のキリスト教関係者

  要点・2 敗戦後,その戦時体制期における言動は,はたして『聖書』的な観点から自省されたのかいえば,深刻な疑念を残した
 

 ※-2 立教学院が強いられた戦争協力

 1) 武運長久の寄せ書きがある日章旗
 『日本経済新聞』2020年8月13日朝刊「文化」欄に,立教学院理事長糸魚川順(いといがわ・じゅん,当時の理事長で在任期間は2007年から2014年ま)の,「寄せ書き67年後の帰還,出征した立教大生の日章旗,米から母校へ」という寄稿が掲載されていた。

 まず,本ブログの筆者の関心にしたがい,冒頭の文章と最後の段落だけを引用し,あいだにつづく段落は,小見出しのみ紹介する。ネット上に当該『日本経済新聞』「文化」欄の紙面がみつかったので,その全体の雰囲気だけは分かる程度の資料として紹介する。

糸魚川順・稿「寄せ書き67年後の帰還」

 この日経記事のなかに添えられている画像に関連しては,当時つづいて『四国新聞』紙上にもつぎのような記事が出ていた。この地方紙からは,画像のみ紹介する。

「寄せ書きされた日章旗の返還」

〔日経記事に戻る→〕 日の丸の右に力強く書かれた「武運長久」の字と,墨書の寄せ書き。これは立教大学から学徒出陣した兵士が,戦地でもち歩いていた1枚の旗である。米国で保管されていたが,不思議な縁に導かれ,67年ぶりに母校へ帰還することになった。

 (なお,このあいだには,「米の牧師からメール」「墨書の名前手掛かりに」「戦争,学生に伝えたい」という小見出しでの文章がつづき,つぎの最後の段落に進む )

 米国と日本の青年が向かい合わざるをえなかった「あの日」。一方は若くして将来の希望を絶たれ,一方は死ぬまで重荷を背負いつづけた。旗の帰還を通じて,戦争がもたらす深い傷をいまの学生にも感じとってほしいと願っている。

 本ブログの筆者は,日経記事にもどってだが,前段の「墨書の名前手掛かりに」という見出しの付いた文章中に出てきた,以下の部分にとくに注目する。

 昭和17年4月以降,立教大学から出征した学生は経済学部,文学部の全学生の8割強,1225人に上る。そして,このうち100人余りが戦死したと記録にある。厳しい戦時下とはいえ,キリスト教を建学の精神とした本学が,多くの現役学生を戦地に送り出したという歴史的事実に対する贖罪(しょくざい)の気持は今日まで引きつがれている。 

 なお「寄せ書きのある日章旗」に関する記述は,本ブログの場合たとえば,藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』岩波書店,2009年という著作をとりあげていた以下の記述で,おこなっていた。ここでは題名しか紹介できないが,だいぶ以前の記述であった。

      ☆2010年3月10日の記述☆ (現在は未公表)

  主題「日中戦争における日本軍兵士の士気」
  副題「戦争などやる気の出ない庶民を軍隊に駆りだした泥沼の戦争」     「天皇陛下万歳などとはいわないで死んだ兵士たち」

未公表だが題名のみ紹介する過去の記述

 この以前の記述中で紹介した日章旗の寄せ書きと糸魚川順が紹介する日章旗の寄せ書きとは,ほぼ似たような雰囲気:構図になっていた。ここではさらに,本ブログ筆者が画像として別に保存してあった,つぎの2つの日章旗寄せ書きを紹介しておく。

日章旗寄せ書き実例1
日章旗寄せ書き実例2

 ネット上にも同種の「日章旗寄せ書き」は,いくらでも掲出されている。ということで,本論に進む前に,この話題について少し考えてみたい。

 前段の『日本経済新聞』の記事にも写っているものも併せて考えてみよう。日章旗に一番大きく寄せ書きされている文字は「武運長久」であった。ネット上には日章旗にこの寄せ書きの画像がいくらでもみつかるわけだが,ざっと観たところでも,この武運長久の文字が一番多くみられる。しかも大きい文字で書かれている実物が多くある。

 前段に出してみたこれら日章旗寄せ書きの画像のなかには,また「必勝」と大きく書かれている日章旗もあったが,「七生(しちしょう)報国」という4文字漢字も記入されている。

 とくに「武運長久」とこの「七生報国」といったたぐいの文句は,よくよく考えてみるまでもなく,出征していく男子たちに対して家族や友人たちが,大きな声ではいえないけれども,

 このように日章旗のまわりに書きこめるそれら文字を媒体に使い,その気持を切なくも密かに(こっそりとなのだが堂々と)載せるかたちでもって,それこそ必死になってのものであったと観るほかないが,ともかく,

 「オマエたちは必らずきっと,生きて還ってこいよ!」

という願望をかけていた。この武運長久は軍隊としても当然の標語として頻用されていた。武運があれば恵まれれば,死なずに生きて帰れるし,まさに長久でありうる。

 だが,靖国神社にいくことも覚悟してもらわねば,日本軍兵士としてはまずいゆえ,この武運長久という四字熟語がうまい具合に使用されてきた。

 なんといっても旧・大日本帝国陸海軍においては,兵卒たちのひとつひとつの命は,ひどく軽くみつもられていた。生きて虜囚となるなかれとか,オマエたち兵士の命は鴻毛のほどの重みしかないなどと,洗脳的に教えこんでいた。

 しかし,家族や友人たちにとってみれば,口では表だってはいえないものの,「死んで靖国神社に英霊として祀られる」よりも,「ともかく生きて還ってきてほしい」というのが,なんといっても最大の念願になっていた。

 戦前・戦中において日本男児はそれこそ,大日本帝国の神兵にまでなって,つまり「醜の御楯(しこのみたて)」(天皇の楯として外敵から日本を防ぐ者)となって活躍し,手柄を挙げよと期待されていた(タテマエ)。

 それゆえにこそ,「逆説的にも本気で」,その願いをかけられていた文字が武運長久であり,七生報国であった。つまりは,これらの4文字になる漢字には,けっして「死」そのものではなく,「生」へのこだわりが無限大に期待されていた,つまりホンネが反映されていた。

 ちなみに,大東亜戦争・太平洋戦争の戦場で命を落とした天皇家の人間はいなかった(皇族の男子は皆,同時に軍人でもあって,少年の時代にすでに将校の地位を与えられていた)。

 たとえば,三笠宮(昭和天皇の末弟)は中国にまで陸軍の参謀将校として動員されていたが,敗戦よりだいぶ以前の時期,1944年1月であったが,中国から帰還し,大本営参謀として勤務した。この昭和19年1月のころの戦局は,どこまで推移していたか?

 大東亜戦争の「開戦から昭和19年まで」は,つぎのように簡潔に要約することができる。なぜ,三笠宮が中国戦線が引き揚げてきたか,そのあたりの事情が察知できると思う。

 昭和16年(1941)12月8日,日本はアメリカ,イギリスとの戦争を開始しました。開戦当初は日本側が優勢でしたが,昭和18年に入ると戦局が悪化します。昭和19年になると,パラオのペリリュー島やマリアナ諸島が占領されます。また,フィリピンでも大規模な戦闘が開始され,戦艦武蔵の撃沈,神風特別攻撃隊の出撃など,熾烈な戦いが繰り広げられました。戦局の悪化とともに,戦場が日本本土に近づいてきました。

 註記)「昭和二十年」https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/s20/contents/1_01.html

三笠宮が本土に配置換え

 以上,話題があの戦争の時代における出来事にズレていたが,ここで本論に戻そう。
 

 ※-3 立教学院の戦時体制期

 また,老川慶喜・前田一男『ミッション・スクールと戦争-立教学院のディレンマ-』東信堂,2008年という著作が公刊されていた。本書は「天皇制と建学理念の葛藤等,先鋭な問題を含んだ戦時下の立教学院の実相を,膨大な資料調査のもとに検証・総括した」著作である。

 本書の主要構成は,こうである。

   第1部「聖公会と立教学院首脳の動向」
   第2部「戦時への対応と教学政策」
   第3部「戦時下の学園生活」

 さて,立教学院がキリスト教・ミッション系の学校法人として,どのように戦争に協力せざるをえなかったか,内部からもそれに積極的に呼応していく動向が生まれるほかなくない,戦時情勢の動向に協力していった人物の登場など,当時において立教学院がたどってきた苦悩:〈歴史に対する反省〉を,〈慙愧に堪えない足跡〉として,より客体的に問題化し,回顧する方途で解明している。

 老川と前田の同書は,もっとくわしく紹介したいが,ごく簡単に触れるに留める。ここでは,八代斌助『東亜新秩序の建設とキリスト教』聖公会出版社,昭和15〔1940〕年2月が,つぎのように語っていた事実を紹介しておく。

 「私は今此の邦家の知遇にこたへて,3つの点から東亜新秩序の建設に寄与するキリスト教の使命を語りたいと思ふ」と切り出してから,こう説明していた。

 「第1は今次大事変の意義に就いて,キリスト教の与へる解説である」。

 「キリスト教伝来僅僅百年の日本に於て,1人の布教師や信徒の非戦論的態度や言動が,そのまゝキリスト教の戦時における生活態度の如く誤解され易いのだ」

 「世界の歴史は,キリスト教が,如何にも好戦的な傾向を持ってゐるかの如く見受けられるのだ。中世より近代に至る宗教的な意義をもった諸戦争,更に新しくは世界の大先導だ。敵も味方も平和の祈りつつ無残にも戦ったのだ。キリスト教は反戦的ではない等の証明など,不必要な程歴史は裁いている」

 「だが問題の核心は,そこにはない。どう云ふわけで平和を説くキリスト教が,戦争をせねばならなかったか,どう云ふ風の戦争を肯定するかに存するのだ。平和を求むるキリスト教,敵を愛すべきキリスト教が,如何なる姿と,立場に於て,戦争を肯定するかゞ問題なのだ」(以上,1-3頁から)。

八代斌助『東亜新秩序の建設とキリスト教』聖公会出版社,昭和15年から

 ところで八代斌助に関しては,ネット上にも子息の書いた解説などもあり,いろいろ多面的に言及されている。だが,問題は「非常時⇒戦時体制」の時代に,この人物がどのような発言や行動をしていたかにある。平常時⇔平和の時代に大活躍した八代斌助の軌跡は,さておく関心事となる。

 順序が後先したが,八代斌助は以下のごとき経歴をもつ人物であった。ウィキペディアを参照する。

 八代 斌助(やしろ・ひんすけ,1900〔明治33〕年3月3日-1970〔昭和45〕年10月10日)は,日本のキリスト教伝道者である。

八代斌助画像

 北海道出身,立教大学中退後,イギリス留学を経験した。神戸聖ミカエル教会司祭,神戸教区主教。1968年,日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。

 オックスフォード大学神学博士,トロント・トリニティーカレッジ神学博士,アメリカのコロンビア大学教理学博士,ゼネラル神学校神学博士。

 神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか,立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長,桃山学院理事長・院長,聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長),国際基督教大学理事,聖ミカエル保育園理事長,オリンピア幼稚園園長,聖ラファエル幼稚園理事長,鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長,境港聖心幼稚園園長,神戸市教育委員,ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。

 子は日本聖公会神戸教区主教,八代学院理事長の八代欽一,日本聖公会首座主教で学校法人立教学院院長の八代崇,娘婿は神戸女学院大学学長の山口光朔。1970年10月,正四位・勲二等旭日重光章受勲。 (以上,人物紹介終わり)

 さて問題である。八代斌助は戦争中に語ったいいぐさ,つまり「平和を求むるキリスト教,敵を愛すべきキリスト教が,如何なる姿と,立場に於て,戦争を肯定するかゞの問題なのだ」と断言した点を,敗戦した日本の国土の上の立ち,どのように自考をおこなっていたのか?

 なお,八代斌助『東亜新秩序の建設とキリスト教』聖公会出版社,昭和15年という本は,本ブログ筆者が借りだしてもらえた大学の図書館は,立教大学であった。そのころ,文献を調査した範囲内では立教大学しか所蔵していなかったのが,八代のこの本であった。この現物の中表紙には「〈寄贈〉故大久保直彦主教 ’84.7.14」というゴム印が押してある。

 また八代斌助を描いた著作には,たとえばつぎの2著がある。入手しやすい時期のものを挙げてみた。いずれの著作も,前段まで触れた論点にはほとんど言及はない。

 アマゾンの通販の資料を借りて紹介する。

 

 ※-4 明治学院がとりくんだ戦争協力

 1) 明治学院の戦時期

 本ブログは昨日(2023年5月21日),同じキリスト教・ミッション系の学校法人明治学院については武藤富男をとりあげ,批判的に吟味していた。敗戦直後,公職を追放されるぎりぎりの立ち位置にあったけれども,幸運にもその指定と無縁でありえた人物=武藤富男をとりあげた。

 武藤は戦時中,高級官僚として戦争協力をする立場にあった。つまり,中国東北部に建国された「満洲国の『経営』」や,敗戦前であったが帰国後は,大日本帝国内閣情報局の仕事に深くたずさわってきた。

 武藤富雄は敗戦直後,公職を追放されていた経緯もあって,国家官僚の地位をみかぎり捨てていた。だが,この判断:覚悟は事後,キリスト者である自分の立場を逆用したかたちでうまく生きていける状況を,打開できる契機になっていた。

 武藤富男は敗戦後,いち早く官を辞して日米会話学院を創立することで,アメリカ追従の姿勢に急変身できた。さらに1962〔昭和37〕年,学校法人明治学院の第7代院長に就任すると,もちまえの手腕を発揮させて,この学校法人を発展・成長させていた。

 明治学院については,昭和天皇の死去問題に関する『ドキュメント 明治学院大学1989-学問の自由と天皇制-』(岩波書店,1989年)という書物がある。

 同書は,戦争の時代に明治学院学院長であった冨田 満牧師が,キリスト教精神の基本的立場を真っ向より否定して「日本帝国用の国家神道の宗教的な立場」を支持しただけでなく,日本および植民地各国(各地域)の人びとに対しても「神国日本」の「国家神:昭和天皇」を礼拝するよう強要してきた史実を,反省する意味もこめて制作されていた。

 2) 明治学院の院長たち

  2000年ころだったと思うが,本ブログの筆者はそれまでに,武藤富男という人物に注目していた。旧「満洲国」というカイライ国家における〈尖兵的高官の地位〉に立ち,その役割を忠実・熱心に遂行していた武藤は,戦後にはなかでも明治学院院長を務めた期間,この教育機関を大いに成長・発展させる役割をよく果たしていた。

 本ブログの筆者はその後,この武藤富男という人物に固有の問題点を,第10代明治学院院長(1994年~1998年)を務めた中山弘正経済学部教授(ソ連経済論専攻)に伝達したことがある。中山が立場上かかえこまざるをえなかった苦衷は,ひとかたならぬものがあったと推察する。

 なぜなら,敗戦50周年にあたる1995年6月10日,当時の明治学院学院長中山弘正は,学院の礼拝において『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』を表明していたからである。これは「過去の反省のうえに未来を築かなければならない」という決意から,キリスト者の立場をもって,教育者としての自己検証をおこなったものであった。

 注記)明治学院敗戦五十周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく 戦後五十年・明治学院の自己検証-』ヨルダン社,1995年参照。

 ただし,明治学院のその「過去の反省」とは,もっぱら冨田 満牧師など,明治学院が戦争中に犯した「反キリスト者的な行動」を前提にするものであった。それゆえ,戦後において第7代明治学院院長となった武藤富男に関していうと,『ドキュメント 明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』1989年や『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』1995年は,以下に説明するような,明治学院にとって非常に有為の経営者であった「武藤富男の戦責問題」に,実はまったく気づいていなかった。

 明治学院は確かに,戦争中に国家から抑圧された過去を有する「キリスト教ミッションスクール系の被害者」であった。けれども,同時にその抑圧の手先ともなる人物の代表者であった牧師「冨田 満=加害者」を,戦中から引きつづき戦後も学院長の理事長に据えていた。それだけでなく,戦争中「満州国」官僚として日本帝国主義を無条件に支持していたが,戦後にやはり牧師となる武藤富男を学院長に戴いてもいた。

 要は,明治学院が自校の戦争責任問題をとりあげ,過去を回顧・反省したうえで,未来への新しい歩みをすすめてきたものの,その〈戦責問題の反省〉の対象:中身とすべき重要な「自校の一人物(武藤富男)」を,すっかり失念していた。

 というか,武藤富男の戦責問題は棚上げされてきたというよりは,当初からその反省する「過去の問題」からすっかり抜け落ちていたのである。いいかえれば,明治学院自身が背負ってきた戦時体制的な課題は,武藤に関していえば,完全に棚ざらしにして〔されて?〕きた。それゆえ,「戦争の時代における〈歴史の吟味と反省〉」は,前提からして不全をもたらす内容にならざるをえなかった。

 いずれにせよ明治学院の場合,武藤富男の「戦争責任問題」の存在は,後追い的に,本ブログの筆者が指摘していた。もっとも,その後において同院が武藤のその問題を,あらためて学内で検討する機会を設けた様子はない。本ブログがこの記述じたいを復活させた2020年11月〔新しい更新日 2023年5月22日〕の時点になっても,そうした様子はかがえない。これからもおそらく,そうありつづけるのかもしれない。

 武藤富男の戦責問題は,明治学院の立場を観るに,特別に故意に頬かむりをしていたわけではない。ただ,もとよりまともに認識されていなかったに過ぎない。日本の大学人による,それもキリスト教ミッション系学校法人のおこなった〈自己反省〉の限界,あるいは日本の宗教人の良心・誠実心というものの欠在が直截に実証されていたのである。
 

 ※-5 糸魚川順による言説の,なにが問題か

 1) 戦時体制期の立教学院

 立教学院理事長を務めたことのある糸魚川順が,こういっていた。

 --大東亜戦争期,立教大学から出征した学生は,経済学部・文学部全学生の8割強の1225人を数え,このうち100人余りが戦死した。戦時体制下,全体主義・国家主義のきびしい締めつけがあった政治状況とはいえ,「キリスト教を建学の精神とした本学」が多くの現役学生を戦地に「送り出し,死なせた」。この歴史的事実に対する贖罪(しょくざい)の気持は,今日もなお抱いている。

 本ブログの筆者は,この記述を読んで奇妙な気分になった。「キリスト教を建学の精神とした」立教学院が,自校の学生の多くを戦場に送りこみ戦没者も出した。当時の国家体制に政治物理的という意味で軍事的に強制されていたとはいえ,この歴史的事実に対しては贖罪感を,いまなお抱いていると述べる。こういう糸魚川の正直な告白に,むろん悪い印象をもつ人など,誰1人としていないはずである。

 しかしながら,「キリスト教を建学の精神とした」立教学院が,大東亜戦争遂行のために軍隊に召集された学生を大勢輩出した歴史的事実を〈贖罪の気持〉でとらえるといったさい,あえてこういう疑問を提示してみたい。

 ★-1 キリスト教・ミッション系学校法人である立教学院は「戦場に学生を送る」ことじたいを〈悪〉と考えているのか? いいかえれば,国家の強制によって彼らが兵士として戦争の駆り出された史実そのものを,ミッション系学校法人の宗教思想的な立脚点を基軸に考えぬき,そのことを徹頭徹尾,〈悪〉とみなしたというのか?

 ★-2 立教学院が戦時期に置かれていた事情についてくわしくは,老川慶喜・前田一男『ミッション・スクールと戦争-立教学院のディレンマ-』東信堂,2008年があった。ミッション系の学校法人が「学生を戦争に送ることじたい」に反対であったという見解である。はたして,この見解が立教学院建学の精神に鑑みて,文句なしに当然の価値観であったといえるのか? 

 本ブログの筆者は,つぎのように論点を,提示してみたい。

 糸魚川のいいぶんは,ミッション系の学校法人,それもキリスト教精神を基底に置いた大学が「学生たちを戦争に送った〈歴史的事実〉」を〈悪そのもの〉であったかのように語っている。

 立教学院がキリスト教精神に則るべき学校教育を基本理念に置いていたのであれば,それも,戦前・戦中の日本帝国の政治体制のもとでよくもち出されたのが,「キリスト教の神」と「現人神」の「いったいどちらがエライのか」という「イヤガラセ」的な問答には,どのように対応・処理してきたのかといった論点が,たとえばであるが,問題として浮上する。

 敗戦までにおける日本のクリスチャンたち日常生活的な立場は,そのように突きつけられた詰問に対して,いとも簡単に屈伏するほかなかった。ただ,天上の神と地上の神というような違いの “宗教精神的な意味づけ” に忠実にしたがうだけで,そのような詰問に対峙し,抵抗することはなかった。

 2) 汝,殺すなかれ

 戦争の現場=「戦場における出来事」であるならば,戦争法規によって許されているのが「人殺し行為」である。キリスト教:モーセの十戒のひとつに「汝,殺すなかれ!」という戒律がある。この宗教的立場を忠実に守らねばならないとすれば,たとえば,旧日本軍の兵士:渡部良三が本当に対決させられ苦悶・葛藤が,待ちかまえていたはずである。

 その渡部良三は1943年,学徒動員で入隊,中国戦線に配備された。そこでは,中国兵捕虜に対する「度胸試しの刺殺」を命ぜられるが,これに不服従で応じた人物である。旧日本陸海軍におけるこのような兵士の抗命行為はめったになく,生命がけのものであった。渡部自身,こう語る。

 1人の新兵がこれを拒否した。まさしく「敵前抗命」(処罰は銃殺刑に相当する)である。以後この新兵は「赤付箋付きの兵隊,要注意人物」とされ,徹底した差別とリンチを受けることになった。しかし戦死することもなく,私刑死することもなく敗戦を迎え,復員した。1946年3月21日,春の彼岸の中日であった。

 注記)渡部良三『歌集 小さな抵抗』シャローム図書,1999年,3頁。前掲の画像は本書〔はじめに〕2-3頁である。

 渡部良三『歌集 小さな抵抗』は,1992年当初「私家版」で編んだ図書であったけれども,1994年に公刊している。ひょんなことから知己になった渡部から,本ブログの筆者に同歌集が贈られたのは,その第3版である。

 なお,渡部良三の父渡部弥一郎は,基督教独立学園の創設者である鈴木弼美とともに,1944年6月治安維持法違反のかどで逮捕され,獄中生活を余儀なくされている。この父の思想が良三にもうけつがれていたのである(同書,高橋三郎「序」)。

 渡部良三は戦時中における出来事をこうも語っていた。

 父が信仰の故に逮捕されるや,近郷の町村民はあげてわが一族を「米英のスパイ一家」と名指し,時の町村民とその親族が先頭に立ち,凄まじいまでの差別,村八分を行った。殊に食糧と衣料の差別は甚だしかった(143頁)。

渡部良三『歌集 小さな抵抗』

 3) 糸魚川順と渡部良三の対照

 旧日本陸軍において渡部良三が記録した「隊内・反戦への懲罰的な行状:残酷と悲惨」は,あの大東亜戦争に動員されたために命を落とした明治学院や立教学院の学生たち立場と,どのように折りあいを付けて考えればよいのか?

 キリスト者の宗教的な立場に徹しようとすれば,戦争に絶対反対であり,徴兵を忌避し,反戦の意思も示し,命を賭けての反抗であらねばならなかったのではないか。

 ただし,さきに紹介した八代斌助のように,「戦争史とキリスト教徒の立場の折りあい」についてとなれば,戦争中にその妥協の余地を上手に説いていた「日本聖公会首座主教」がいた。聖公会と立教大学のもとからの歴史的なつながりはいうまでもない。

 ところで,前段に触れた渡部良三のようなキリスト者の行動は,旧日本陸軍のなかでは多分,「10万分の1」ほどの確率でしか存在しえなかった。

 立教学院理事長(当時)糸魚川順がさきに語ったキリスト者の立場は,戦場に自校の学生=若者を送りこみ,死なせたという〈贖罪の意識〉であった。戦争の時代においてこそ,若者に「そのような死」を迎えさせないための〈教育的・指導的な立場〉が必要であった。それも,キリスト教精神の思想的な尊厳において,そうであらねばならなかった〔はずである〕。

 だが,「立教学院」も実際のところは,「時代の流れに抗うこと」が全然できず,100名以上の学生を死なせていた。やはり前段に登場させた八代斌助はどうであったかといえば,その学生たちの「死」を,聖公会主教の立場・思想から宗教的に合理化し,当然視する発言をしていた。

 糸魚川順はそういった「立教大学関連の〈歴史の現実〉」を語るさい,「キリスト教を建学の精神とした本学:立教学院」の性格を強調していた。しかし,この宗教的な認識は大きな疑問をはらんでいたことになる。

 キリスト教の立場だからといっても,「戦争に若者を送りこむ役割を盛んに果たしてきた教育機関」はいくらでもあった。むしろこちらのほうが絶対的に多数派である。このことは,昔の〈十字軍〉ではないが,いつの時代にあってもキリスト教国が,代表的にいえば大英帝国のように,帝国主義の覇権を実現・維持するためであれば,多くの若者を兵士にいくらでも動員して消耗品あつかいしてきた。
 

 ※-6 結 論-キリスト教精神の核心に迫りえない,その普遍性を欠いた思い出話-

 a) 立教学院が自校の学生たちを「戦争の部品や消耗品」にさせないための教育機関であるならば,そして,そのためであれば「若者を戦場に赴かせないキリスト教思想」の発揚と,これによる〈反戦の姿勢〉を実際に堅持・貫徹させえていたのか,という問題提起がなされねばならない。

 b) キリスト教の立場であれば,「学生を戦地に送り出したという歴史的事実」を基準に,すべてのキリスト教国における〈キリスト教の宗教精神〉のありかたが普遍的に説明・把握できるわけではなく,むしろそれは,ほとんどできない注文あるいは相談である。

 要するに,「戦時という現実」に立ち向かい「宗教対決的な格闘」はなしえないまま,立教学院も時代の流れに押し流された体験をもつ。そう簡単には交わることのない平行線の議論,これを少しでも超克するための「キリスト教的な勇気と決断」が,残念だなという以前においてすでに,なしえていなかったのである。

 糸魚川順の発言,その「キリスト教精神」の理解は,非現実的な抽象次元に終始しながら,しかも妙に常識的な意味での〈理想型〉に関する説話になっていた,という特性をもっていた。そのために結果は,単に現実離れの,空想的な宗教精神を語っているという印象が回避できなかった。

 c) 最後に,本記述の冒頭の見出し,「① 立教学院が強いられた戦争協力,1) 武運長久の寄せ書きがある日章旗」の話題(振り出し)に戻ってもらうことにし,つぎのような疑義を提示しておきたい。

 なかんずく,日章旗という「旗の帰還を通じて,戦争がもたらす深い傷を今の学生にも感じとってほしい」という程度の昔話:思い出話である以上の,なにかとくべつの含意がありうる一文であったのか? 

 すでに言及してみた論点に即していえば,「武運長久・七生報国」という寄せ書きを日章旗にして,これを出征兵たちにもたせて戦場に送らざるをえなかった「銃後の人びと」が本当の意味で訴求したかった気持は,実は,キリスト教精神「本来のなにものか」がもっともよく応えうる対象ではなかったか?

 ただし,途中で出てきた人物,渡部良三はクリスチャンの信仰に忠実にしたがい,武運長久も願わず,七生報国も期さなかった。なぜか? 敵兵を殺したくなかったからである。旧・日本兵でも戦場では,鉄砲を地面に向けてしか撃たなかったという人がいないわけではないが……。
 

 ※-7 追記

 なお,青山学院大学プロジェクト95という執筆陣が,つぎの画像資料のごとき自学に関して戦争責任の問題を追究した成果を公表していた。最後の第7集の書名『敗戦60年 戦争はまだ終わっていない-謝罪と赦しと和解と-』2005年は意味深長である。

 現段階のこの日本という国でもまだまだ,戦争をしたくてうずうずしている人間たちがいないのではない。ただし,この場合でも「爺さんたち決め,オヤジたちが命令し,若者が戦場にいかされて死ぬ」という点は,古今東西において共通する現象となりうるから,とりわけ若者たちは厳重に要警戒である。

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