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敗戦記念日における天皇の「おことば」問題,明仁天皇が受けた故安倍晋三からの嫌がらせの問題など

 ※-1 この記述全体に対する前論としての吟味-明治維新という歴史必然的に不可避だった「ボタンのかけ違い」- 

 1) 明治維新後の歴史のなかで創作・合成されていった「天皇神聖感」は,明治謹製の「天皇・天皇制」になる〈天皇像〉を新造してきた。それは,明治近代史のなかで操作的に造形されてきたものであって,いわば「1人の人間でしかない人物」を,まるで神様のようにあがめさせるための「印象操作」を構築すための工作であった。

 結局のところ,司馬遼太郎「風」に「坂の上の雲」などつかめえなかった旧大日本帝国の野望に終わったにもかかわらず,それこそ,それに乗れきれる気分にまでなれていた。いいかえれば,孫悟空もどきになれる気分に浸れたところにこそ,明治史じたいがはらんでいた,そもそもの「ボタンのかけ違い」があった。

 その間違いが根本から訂正されるには,明治維新からだと,77年の年月を要した。

 昭和天皇は敗戦後,自分は現人神ではないと否定しつつも,神武天皇以来の虚構によって成立させてきた「紀元」2683年(今年の2023年を紀元で読みかえる場合)「の歴史観」を,終生,心底から信じきっていた。つまり,自分は「第1代の天皇が神武天皇だという架空:虚構」からだと,その第122代目の子孫に当たると思っていた。そういう〈おとぎ物語〉を堅く,本気でふまえつつ生きていた。

 そのおとぎ話は,敗戦後に,天皇が人民(臣民⇒国民)たちに向けて語った「人間宣言」(1946年1月1日)にも密かにだが,きっぱりと反映されていた。

 裕仁は「自分は現人神ではない」といいつつも,しかし同時に,神武天皇の子孫に当たる自分の系譜は,間違いなく自分を天皇として存在させうる史実:背景だと信じこんでいた。

 この〈隠された紀元物語〉が自分の精神の奥深くに秘匿されていたからこそ,その宣言が,当時はまだ帝国臣民だった人びとに向かい,本気でいいはなてる自信を提供していた。

 ところで,ウィキペディアに『新撰姓氏録』に関する解説は,つぎのように記述されている。

 『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は,平安時代初期の815年(弘仁6年)に,嵯峨天皇の命により編纂された「古代の氏族名鑑」である。

  a)「概要」
 京および畿内に住む1182氏を,その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし,氏名(うじな)の由来,分岐の様子などを記述しているが,

 主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように,記載氏族が限られているとはいえ,日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

 現存する『新撰姓氏録』は,目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが,ところどころにその残滓が認められるとともに,若干の逸文がしられている。

 なお,本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており,また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

 なお,書名に「新撰」とつくのは,企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって,『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。

 『新撰姓氏録』には「逸文」がかなりあり,その内容にも曾孫を四世孫とする場合や玄孫を四世孫と書いたり,同神あるいは同一人物が違った文字で書かれている場合などがあり,内容のすべてを信頼することはできないという指摘がある。

  b)「構成」
 全30巻が3冊の形状となっており,30巻目のあとに不掲載の姓氏の記録も添付されている(平氏,阿蘇氏など)。

 本書には,全部で1182氏姓が記録され,その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類され,さらに国別に天神,天孫,地祇に分類されている。

 補注)以下はそのうちから「皇別」のみ引用し,あとは割愛する。

  c)「皇別」
 筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは,神武天皇以降,天皇家から分かれた氏族のことで,335氏が挙げられている。代表的なものは,清原,橘,源などがある。皇別氏族は,さらに,皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。 (引用終わり)

 --さてこのように「『皇別』の姓氏とは,神武天皇以降,天皇家から分かれた氏族のこと」だと説明されるとき,これが,もしも確かに「神武天皇以降」の系譜物語の展開になりうるといったような「歴史的な事情史」が実在したという歴史の理解に対しては,これに「?」を突きつけるほかない。

 2)ここでは,神武天皇にも「お父さんやお母さんがいたよね」という,歴史をウンヌンする以前の事実そのものを,少し考えてみたい。

 日本の国会における話となる。

 「第147回国会 参議院 国土・環境委員会 第17号 平成12〔2000〕年5月18日」の「会議録情報」(平成12年5月18日木曜日午前10時03分開会)のなかで,当時,当該の国務大臣であった中山正暉が,以下のごとき発言をしていた。

参考画像:中山正暉

 その会議録からは,該当の段落「072 中山正暉」https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114714314X01720000518&current=3 を紹介する。なお,原文は横書きだが,数字は漢字表記であった。ここでは,それをアラビア数字に換えてある。

 歴代天皇,いままで125代の天皇がおられます。私は,昔,建国記念日をやるときに神社本庁35団体に呼ばれまして,なんとしても2月11日に建国記念日をやるのならば,ここで神武天皇をいえ,それから天皇陛下万歳をやれといわれましたので,

 私はそのときいいました。神武天皇にはお父さんもおられたでしょうし,おじいさんもおられたから,神武天皇で切るわけにはいきませんと

 大分県の国東半島から出た「ウエツフミ」の話を聞いたことがありますが,その「ウエツフミ」のなかには,神武天皇以前の72代の天皇の名前が隠されているという話も聞いたことがございました。いまから2660年前に橿原宮で神武天皇が即位されたということですが,確かにそれまでの先祖がいらっしゃるはずでございますから。

 しかし,やっぱり英国とかフランスに明治維新は影響されたようで,伊藤博文はドイツに憲法を習いにいっているようでございますが,そのとき,ウィッテに明治維新後の日本をどうして統一したらいいだろうということを相談しております。

 そうしたら,ドイツの人が,あなた方のところには氏神様というのがあるじゃないか,その氏神様の集中した中心が天皇だといったらどうだと。これが大きな間違いにつながった。

 つまり,明治憲法ができる4年前に内閣制度ができておりました。明治憲法のなかには総理大臣という名前がいっさいありません。いまでも大臣といいますが,大きな臣というのは天皇の臣ということになっておりました。ですから,首相という名前が明治憲法ではいっさい出てきておりません。

 内閣が軍縮会議に影響を与えたときに,それは統帥権の干犯だと,こういう話につながったのは,明治憲法の欠陥は総理大臣という名前が憲法のなかに一字も出てこなかった,首相という名前が一字も出てこなかった。これが現人神ということで,天皇陛下のために死ぬと,天皇陛下のためならばなんで命が惜しかろうなんという歌にもつながってしまったと。私どもはああいう話を聞くと頭の中をそれがよぎるわけでございます。

 私は,そういう神道の方ばかり寄っていらっしゃるところで,そういう郷愁の発言がああいうことになって,森総理も多分反省しておられると思っております。ですから,なんであの大東亜戦争につながったかということを考えるならば,先生のお答えに,私はそれを政治家として反省の材料にしなきゃいかぬと。

 補注)ここで森 喜朗という当時の首相の氏名が挙がっていたが,ここで指示されている件は,この森が当時得意になって放った「神の国・発言」であった。

 2000年5月15日,神道政治連盟国会議員懇談会において森 喜朗が総理大臣としておこなった挨拶のなかで語った,「日本の国,まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く,そのためにわれわれががんばってきた」というくだりが問題になった。

〔中山正暉に戻る→〕 私は,そういう意味でこんどの発言は,政治家としての神様の存在というものを意識して,神様に聞かれても恥ずかしくないことをするのが政治だ,信仰というのは1人1人がもっていればいいわけでございまして,総理大臣にも信仰の自由はあると思いますが,

 それが行政の場としての総理大臣の場に入ってくるといろいろ問題があるんじゃないかなと,そんなふうに,御質問に対して答弁が長うございますが,これは御辛抱いただきたいと思います。

 そういう国会になったと思いますので,政治家としての考え方をはっきりいう時代が来たと思いますので,(「ここは法案を通すためなんですから短くしてください」と呼ぶ者あり)御指摘をいただきましたが,そういう意味で,御質問でございますので,これはお答えをさせていただきたいと思います。(引用終わり)

 中山正暉の口調は,国会の口頭発言だったせいか,まだ理解しにくい語感が残るとはいえ,神武天皇を「紀元の年数」出発点に据えるさい,その神話的な物語としてならばさておき,

 それをさらに,現存する天皇系の家長にとってなにか特別の意味がありうる年限(特定の年)とみなし,こちらにまで「あえてもちこむ観念操作」は,天皇家の歴史がまるで「日本史の全史」になりうるかのごときに「歴史を操作しようとする」のでは,完全に「手前味噌の解釈」になる。

神武天皇を架空に描いた想像図
明治天皇の有名な画像
これもウィキペディアからだが
前掲の絵に似ている

 これは,エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone , 1833-1898年)というイタリアの版画家・画家が明治時代に来日し,雇い外国人となってこなした仕事の一作品である。明治天皇の姿がこのように肖像画として描かれていた。どの程度,その姿をそっくりに描きえていたかについては,まだ問題がないとはいえなかった。

 以上の2画は,一方で,神話における神武天皇の姿が空想的な画像として描かれ,他方で,それが明治天皇に相互媒介的に「似せられ」描かれていた」。

 昭和天皇は実父である大正天皇嘉仁を飛ばしておき,祖父の明治天皇睦仁の存在をとても尊敬していた。裕仁は自分の祖先になる天皇たちについて,架空の存在であった先代の天皇たちまでも入れた観察になるが,いってみれば,選り好みにもとづく「好き嫌いの分別」を,正直にかつ明確に表わしていたことになる。

 以上少し横道にそれた話題にもなったが,ともかく『人間宣言』の中身は要するに,これを要求したGHQやこれを聞かされる臣民(のちの国民)たちを,「顕教⇔密教」相関的にごまかす言説を,当初から戦術的に工夫をくわえて用意していた。

 明治天皇が日本の民主主義を創発したといったふうに自信をもっていわれた「昭和天皇独自の手前味噌の解釈」では,かえって,1945年に日帝の敗戦を都合よく説明できる理屈は提供できていなかったはずである。

 治安維持法に堅く守られていた敗戦前の天皇の地位,その神権的に権威づけられた当時における「日本の国家秩序」を,まるで他人事のように語った彼の立場は,実は,GHQ当局もごまかす覚悟で理論武装されていた。

 それゆえ,明治謹製であったその日本の民主主義とは,どこまでも中途半端にもたっしえていなかった「まがいもの」でしかありえなった。敗戦を機にアメリカからあらためて,その「圧倒的な大部分に対する非」と「僅少ならば含意しえたかもしれない是」を示教されたのは,ゆえなきことではなかった。

3)ここでは突如,「1969年の『男はつらいよ』第1作公開から今年で50周年。本年12月には50作目の新作が公開されるなど,寅さんイヤーが盛り上がる中,『ロケ地=寅さんの聖地』を集大成する待望の聖地探訪大事典が誕生。株式会社インプレスホールディングス」『PR TIMES』2019年7月31日 13時00分,https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002844.000005875.html という記述を参照してみる。

 『おとこはつらいよ』の映画監督は,旧「満洲国」で少年期を過ごした体験をもつ山田洋次であった。この山田が満洲国でなにをみて,なにを感じ,これをどのように語ったのか?

山田監督はこう語っている。1945年8月ころであれば,こうした旧日帝臣民たちが置かれていた苦境は,天皇の敗戦体験とどこかで重なりうるのであった。

 「 “戦争に負ける” とは,こういうことなんだろうなって。 だって日本の軍隊も同じことやっていたんだから中国で。まったく同じことをやっていたんじゃないかな。反抗すると,殺しちゃったりもっとひどいことをやったんじゃないかな。そういう話はよく体験者から聞くけどね」

 註記)「【証言】『日本人はみんな一文無しに』」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1」『YAHOO!JAPAN ニュース』『日テレニュース』2023年8月12日 18:00,https://news.ntv.co.jp/category/society/8761eb43c3a543519de25da4c8160cc7

山田洋次の発言

素朴な疑問があった。いつも清く正しく美しい「皇室像」を,無条件ににないつづけなければならない天皇家一族は,はたして,つらいことはないのか?
 
 昭和から生きてきた本ブログ筆者は,敗戦後の昭和天皇裕仁やその息子の平成天皇明仁,そして令和天皇となったその孫徳仁の代まで,なんとはなしにでも,彼らの「歴史のながれ」は概観できる人生を過ごしてきた。

 裕仁は戦前,旧大日本帝国の大元帥であった。そして,それ以前に「生き神様」だとまであがめられた。日帝は「人間を神様あつかいするという錯誤」を,この国の人びとに犯させてきても,その後になって本当の気持ちで反省したことはない。

 ここで「その後」というのは,いうまでもないが,敗戦のその後のことである。

 以上は,2023年12月13日(本日)に書き下ろした文章部分である。

 つぎの※-2からは,2020年8月17日に公表した文章を再録している。安倍晋三が第2次政権以降,7年と8カ月も執権していたがために,最近の日本を大騒ぎさせている,それも安倍派を中心とした「裏金問題」の表面化は,この国政治の「発展途上国」性よりも以前の「衰退途上国」性を,余すところなく物語っている。

 安倍晋三は2012年12月26日から2020年9月16日までの長期にわたり首相の座にいたがために,この日本国の政治と経済,社会,文化などあらゆる領域のありようを,ただ「衰退一路」に落ちこませる仕事しかしなかった。しかも当人は,その大失政をしたという自覚がないまま他界した。

 「はだかの〈子どもの王様〉」が一国の為政にたずさわってきた結果,それはもうひどく悲惨な状況がこの国にもたらされた。単に政治経済の崩落現象を発生させただけでなく,国家態勢そのものを着実に腐朽,衰退させる役目を,安倍晋三がそれこそ遺憾なく果たしてきた。

 安倍晋三のあとを襲って首相になった菅 義偉も岸田文雄も,政治家として1人前だいえるくらいの品位・品格さえ欠いていたゆえ,この2023年12月段階に至っている日本の「政」は,いまや本当に崩壊寸前だという印象さえ受ける。

 

 ※-2 敗戦記念日における天皇の「おことば」問題,天皇家側の平和主義と安倍晋三側の好戦主義との角逐

 「対米服属路線」を強いられてきた日本国政府であるが,2020年当時の「安倍政権の無力・無能・無策・無為ぶり」は,新型コロナウイルス感染症に対峙させられてからというもの,さらにいよいよその無体・無為・無理ぶりの本領を露呈中させていった。

 開店休業状態の安倍政権,コロナ禍に対してろくに手も足も出せない体たらく,森友問題や河井夫婦問題からのブーメラン効果(司直の動向のこと)が,安倍にとってはとても心配の種になっていた。もしかすると,そのころの安倍晋三は,夜もおちおち眠れていなかったのか?

 敗戦後75年目(2020年8月)の長崎・広島の記念式典において,ひどく気のないあいさつ文を読むだけだった総理大臣安倍晋三,それに対して,コロナ禍に遭遇している時期,日本の社会に向けた「8・15のおことば」のなかに,その含意を大幅にとりいれた令和天皇徳仁。

 まずは,なかんずく,各種記念行事におけるあいさつ文案は,経年・毎年でコビペの部分があってはいけないのか,という問題から議論したい。

  要点:1 敗戦記念日の「天皇のおことば」と「首相のあいさつ」

  要点:2 儀式における挨拶の中身は例年同じではいけないのか否か

 1)「戦後75年の間,政治を担ってきた政治家の大半がコロナウイルス禍に翻弄され,ほとんど開店休業状態,革新勢力に至っては烏合の衆と化している」

 日本国内では戦後75年〔2020年時点で),国際政治の変化,あるいは市民生活の具体的な政策が大きく変わろうとしている。にもかかわらず,自民党は強力な指導者が衰え,日本の行く末を新しくデザインすることができないでいる。革新勢力は,烏合の衆と化している。

 註記)以上『板垣英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」』2020年8月15日,https://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/dea5f09fbccd98facf2a6fbb6557aad4 参照。

 日本は現在(ここでは2020年当時のことだが),国家としては完全に機能不全の状態にある。あまつさえ,首相の安倍晋三自身が国会をさぼりまくりたいがために,国会を休会にしている。コロナ禍対策のために週1回,参議院でもっている会議にすら,この首相はいっさい顔を出さない。

 自宅にこもり気味で仕方なしに,最低限だけ官邸に出ている状態である。コロナ禍の問題は,首相である彼自身ではまともな対策を講じえず,ただ2020年5月25日の時点でこういってしまったみっともなさは,永遠に不滅であるこの「首相の汚点」をまたひとつ追加していた。

  ◆ 緊急事態宣言の全国解除を安倍首相が表明。  
      「 “日本モデル” わずか1カ月半で                           ほぼ収束させることができた」◆
=『HUFFPOST』2020年5月25日 18時20分 JST,更新 2020年05月25日 18時45分 JST,https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ecb7a17c5b6c3b4daa445be =

 安倍晋三首相が〔2020年〕5月25日,北海道,埼玉,千葉,東京,神奈川の5都道県で緊急事態宣言を解除すると発表した。これにより,4月7日に新型コロナウイルス対策の特別措置法にもとづき初めて緊急事態宣言が発令されてから,およそ7週間ぶりに全面解除となった。

 安倍首相は解除の理由を,「全国の新規の感染者は50人を下回り,一時は1万人近くいた入院患者も2000人を切りました。世界的にもきわめてきびしく定めた解除基準を全国的にクリアしたと判断しました」と述べた。

 さらに,「日本モデル」という言葉を使い,「日本ならではのモデルでわずか1カ月半でほぼ収束させることができた。まさに日本モデルの力を示した」と感染拡大防止の取り組みの効果を強調した。(参照終わり)

『HUFFPOST』2020年5月25日

 以上は,まず「ウソ」を材料にし,さらに別の「嘘」を接着剤代わりに用いて固めた「大ウソ」でしかない大本営発表方式が,安倍晋三風になるこのヤマト魂・論的な「日本モデルの力」の核心であった。かつまた,彼の政治手法そのものが,全体的に虚説で彩られていた。

 だが,2020年6月に入ってから新型コロナウイルス問題は,東京型とか埼玉型と命名される新しい遺伝子情報を作成したコロナウイルスが,さらに「第2波」の襲来を間違いなく思わせるかたちで,再び猛威を振るいだした。その後,8月中旬まで感染者数が全国的規模で急速に増大していた。

 コロナウイルスは,安倍晋三という日本国総理大臣の気持などいっさい「忖度」しない。恣意とデタラメに満ち満ちた腐敗・堕落政権からは,いかようにも抗いがたいのが「感染症病原体の特性」であった。

 やたら「日本モデルの力」を大言壮語的に誇りつつ,これこそがコロナ禍に打ち勝てた素因になりえたのだと,うかつにも口を滑らせた「安倍晋三流の虚言癖」は,まさしく「ウソの,嘘による,うそのための安倍政権」の,固陋で救いがたい本性をあらためて暴露した。

 「ウソつきは安倍晋三の始まり」とは,よくぞいったものである。

 以上のごとき「日本の宰相」のダメさかげんさを許容してきたこの国は,「旧大日本帝国」が米英欄中などを相手に大戦争を展開したすえ,大敗を喫するに至った「8・15」の体験を,毎年,この「終戦の日」に開催する記念行事において追悼する機会をもっていた。

 しかし,またもや「歴史という相手そのもの」に大敗を喫する体験をしたがっているように映るのは,なぜか。敵基地攻撃能力をもたせる「自衛隊3軍に変えるのだ」と力んでいたのが安倍晋三であった。

 いまの日本,本当にどこかの国と戦争を開始したら,本格的に交戦を始めたら兵器・武器と弾薬は,いったい何日分備蓄しているかおぼつかない現況にあるにもかかわらず,やたら勇ましく『軍艦マーチ』を大音量で流したがるやからがいる。

 

 ※-3 「〈ニュースぷらす〉政界ズーム 違う終戦日 戦後秩序映す,各国思惑『9月派』多く」『日本経済新聞』2020年8月14日朝刊

 この『日本経済新聞』2020年8月14日朝刊の解説記事は,「各国・地域の『終戦日』」をつぎのようにまとめていた。

各国・地域の終戦日

 この表において「日本」と「ほかの国々」は,もちろんともに「終戦の日:そのもの」を迎えていたが,双方において決定的に,つまり質的に基本から異なっていた重要な1点は,戦勝国であったか戦敗国であったか,そのどちらにに存したかであった。

 しかも,この表のなかでは日本だけが敗戦国であったから,これを「終戦日」と呼称するのは,基本的にマヤカシだという印象が回避できない。

 とくにタイに関連する事情・経緯について上の表を借りた記事は,こう書いていた。 

 戦時中に日本と同盟関係にあったタイはどうだろうか。1942年に米英へ宣戦布告した経緯がある。日本がポツダム宣言受諾を公表した翌日,手続きの不備を理由に宣戦布告の無効を主張した。敗戦国として扱われることを回避し,8月16日を『タイ平和の日』と定めた。

 そのような経過はタイの場合,第2次大戦の終結を「タイ平和の日」と称させている。タイの王族と日本の皇族は親しい関係を維持しているが,タイ国はつい最近まで,不敬罪が存在した後進国(発展途上国)であった。このあたりの問題については,つぎの記述が適切かつ簡潔に関連するタイ国内の事情を説明している。

 補注)デービッド・ハット稿「国王の一声で停止されたタイの『不敬罪』」は,いつ復活してもおかしくない」『ニューズウィーク日本語版』2020年7月2日 19時30分,https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/post-93843.php

 タイの話はさておき,日本は1945年「8月15日という日にち」のことを「終戦記念日」と呼んでいる。そして,外国では「戦勝」をその日にちの名称に入れてある国々がたくさんあった。

 「解放された」「光復の日」と呼ぶ韓国や北朝鮮,台湾は,いずれも旧大日本帝国の植民地にされていた国々であった。この事実に比較したら「敗戦国日本」は,なんとも名状しがたい「8月15日」に関する記憶をもっていることになる。

 日本におけるその8月15日は,毎年,天皇夫婦を迎えて「全国戦没者追悼式」を執りおこなっている。昨年〔ここでは〕2019年からは,退位した父:明仁のあとを受けて天皇となった徳仁が,その式のなかにおいて「おことば」を披露する役目を果たしていた。

 昭和天皇の時期から平成天皇の時期をとおして,その「おことば」がどのように式辞として述べられてきたかについては,学問研究の対象にもなっているが,ここではまず,つぎのような指摘から聞いてみたい。

 

 ※-4 木走正水(きばしり・まさみず)稿の意見

 木走正水「コピペ率93%の首相の2つのテキストが起こした騒動を検証する-『正直言って新しい切り口なんて残されてないでしょ』〔と応えた〕この海外コメントに尽きると思う-」『BLOGOS』2020年08月14日 15:23,https://blogos.com/article/478130/ に聞いてみたい。

 補注)なお,この『BLOGOS』は現在,廃刊になっている。

 木走は「さて,2つのテキストがそっくりであると話題です」と断わりを入れてから,この記述をはじめていた。

 ところで,以下の記述では,木走のその議論はいったんあとまわしにしておき,さきに別途,以下の論点をとりあげておき,ひとまず,こちらにくわしく言及しておくことにしたい。

 その論点は,この木走がとりあげていた「首相のコピペ」の問題そのものではなくして,毎年8月15日東京の武道館で開催されている「全国戦没者追悼式」で天皇が読み上げる「おことば」に関した問題であった。

 以下,しばらくはこの天皇の「おことば」,8月15日「版」に関した論及となる。

 --〔毎年〕8月15日は夕刊からどの新聞紙も報道していた記事となっていたが,今〔2020〕年の場合,その「おことば」は,つぎのように語られていた。朝日だと,「戦没者追悼式,規模を縮小 天皇陛下『深い反省』今年も」との見出しなどで報道していた。

 a) まず,今年,2020〔令和2〕年8月15日全国戦没者追悼式での「おことば」は,つぎのような文句になっていた。この文面については後段に進むにしたがい,徐々に明らかにしていくが,父の平成天皇のときから途中で,新しく追加された文句に注目しておく必要がある。

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来75年,人々のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき,誠に感慨深いものがあります。

 私たちは今,新型コロナウイルス感染症の感染拡大により,新たな苦難に直面していますが,私たち皆が手を共に携えて,この困難な状況を乗り越え,今後とも,人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。

 ここに,戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,過去を顧み,深い反省の上に立って,再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,全国民と共に,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2020年8月15日全国戦没者追悼式における
令和天皇の「おことば」

 2020年の新春早々,日本も襲われはじめたコロナ禍は,徳仁天皇が「8月15日」という終戦(敗戦)記念日に披露する「おことば」のなかでとりあげざるをえないくらい,経済・社会に深刻な打撃を与えている最中であり,これからもさらにその被害が深まる予想しか立たないでいた。

 前年の2019〔令和1〕年は,徳仁天皇が初めてこの全国戦没者追悼式に参列し,「おことば」を述べていた。こちらでは,つぎのように語っていた。この文章は明仁天皇がそのまた前年の2018〔平成30〕年に語っていた内容と同文であった。

 b) 2019〔令和1〕年8月15日全国戦没者追悼式での「おことば」。

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来74年,人々のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき,誠に感慨深いものがあります。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省の上に立って,再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,全国民と共に,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2019年8月15日全国戦没者追悼式での
「おことば」

 c) 以下からは平成天皇の時期に戻る。2018〔平成30〕年8月15日は,明仁天皇が最後となる全国戦没者追悼式への参列となっており,この「おことば」を述べていた。こちらでは,つぎのように語っていた。

 この文章は前年に語っていた内容と同じではなく,「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,」という文句が,新しく追加されていた。

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に73年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2018年8月15日全国戦没者追悼式での
「おことば」

 さらにこの前年,2017〔平成29〕年8月15日の全国戦没者追悼式での「おことば」は,こうであった。

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に72年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。

 ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2017〔平成29〕年8月15日の全国戦没者追悼式での
「おことば」

 2016〔平成28〕年8月15日と2015〔平成27〕年8月15日の全国戦没者追悼式での「おことば」も,これと同文であった。2015〔平成27〕年8月15日の「おことば」においてもすでに,「おことば」として新しくなった部分も現われていた。もちろん,時期的には平成天皇の在位時における「おことば」の変化(追加)であった。

 d) 2014〔平成26〕年8月15日までのその「おことば」では,最後の第3段落目は,「ここに歴史を顧み,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」となっていて,この最初の表現である「ここに歴史を顧み」から,その「ここに過去を顧み,深い反省とともに」へと変えられていた。

 それらに対して,平成天皇が8月15日の「おことば」を最後に語った2018〔平成30〕年になると,「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,」という文句が,さらに追加されていたわけである。

 以上,毎年8月15日「全国戦没者追悼式」における平成天皇から令和天皇にかけて「おことば」として語りついできた文言(文案・文章)は,とくに平成天皇の場合,「安倍1強〔狂・凶〕」専制的独裁主義志向の立場から暴虐を尽くしてきた為政に対して,彼(明仁)なりに自分の立場からできうる範囲内であっても,必死に抵抗してきた基本姿勢を反映させるものとなっていた。

 e) 安倍晋三は軍国主義者であり,好戦的な基本精神を抱いている。しかし,その割には,戦争というものの本当の悲惨さをしらないというか,しろうとさえしていなかった「世襲3代目のお▼カ政治屋」であった。積極的平和主義の本義など,実はよくしりうる学識がもともとない安倍でもあった。また,平成天皇に対する安倍のイジメ行為も悪質であった。

 --ここで本項※-4の最初にかかげた,木走正水(きばしり・まさみず)稿「コピペ率93%の首相の2つのテキストが起こした騒動を検証する-『正直言って新しい切り口なんて残されてないでしょ』 この海外コメントに尽きると思う-」と題していた文章のほうに,あらためて戻って記述をつづけたい。

 前段に言及してきた天皇「8月15日のおことば問題」の場合に関しても,このコピペ問題として論じられるべき題材ではないかとも判断できないわけではない。しかし,この点を念頭に置いたうえで,以下の議論を聞いてほしい。

 ともかく木走が,2020年8月6日と9日の広島と長崎における安倍晋三君の,あのひどくダレ切った「あいさつ・文」にかかわって発生させていた「世間の評判」を,つぎのように詮議していた。これから聞いてみたい。

 木走は,ともかく「コピペ率93%の首相の2つのテキストが起こした騒動を検証する」となれば,「正直いって新しい切り口なんて残されてないでしょ」といっている「海外コメントに尽きると思う」と,批判していた。

 つまり,そもそも「2つのテキストがそっくりであると話題です」が,それが絶対的にいけない行為とはいえないのではないか(あいさつ文の作成および利用の方法として),という疑問を提示していた。

 f) たとえば,安倍首相の被爆地あいさつについては,「文面が酷似」(しているからけしからぬ)と怒りの声(が上がっているが,これは)官邸HP掲載の全文と同じ構成・表現」(だから,そうした批判を受けるほかないあいさつ文なのだ,という非難の仕方になっている)。

 つまり,8月6日と9日に広島市,長崎市の両被爆地でそれぞれ開かれた平和式典での安倍晋三首相のあいさつの文面が酷似しているとして,被爆者から「なんのために被爆地まで来たのか。ばかにしている」と怒りの声が上がった,というわけであった。

 官邸のそのホームページに掲載された双方の全文を比較すると,両市の原爆投下からの復興を称賛した一文や,「広島」「長崎」といった地名などは異なるが,その他は段落数や構成,表現が同じ。

 結びの段落の言葉も「永遠の平和が祈られつづけている」「核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くす」などと完全一致している〔ということであった〕。(共同)

 註記)以上,『毎日新聞』2020年8月10日 11時15分,最終更新 8月10日 21時19分,https://mainichi.jp/articles/20200810/k00/00m/010/072000c 参照。

 その2つのテキストは首相官邸サイトで公開されている。

 ★-1 令和2〔2020〕年8月6日
  『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ』
    ⇒ https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0806hiroshima.html

 ★-2 令和2〔2020〕年8月9日
  『長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典あいさつ』
    ⇒ https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0809nagasaki.html

 g) 木走は以上の2つのテキストが,どのくらいそっくりなのか,科学的に分析してみたという。工学系大学などで講師をしている関係で,主に工学系の学生の論文を読む機会が多く,剽窃チェッカーでコピペをチェックしているともいう。

 剽窃(ひょうせつ, Plagiarism)とはいわゆるコピペであり,他人の技術的成果物をクレジット表示することなく論文にとりこむという行為は,学術論文では絶対にあってはならない禁じ手である。

 ほっとくと課題レポートなどコピペの巣窟(そうくつ)になってしまうので,最初にしっかりとチェックし学生に突き返し,コピペはバレることをしらしめておくことにしている。

 そこで,「剽窃チェッカー」( http://plagiarism.strud.net/ )を使い,前段の「広島あいさつ文」をベースにして,「長崎あいさつ文」がどのくらいコピペされているのか数値で示してみる。

   文字数(スペース無視): 1202
   コピーされた文字   : 1047

 この割合はコピペ率で87%,タイトルや日付を除けば93%となり,異なる箇所は5箇所だけであった。……学生A君(広島あいさつの安倍晋三君)をコピペした学生B君(長崎あいさつの同じく安倍晋三君)のレポートなら,完全にアウトであり,突き返される。

 h) ただ今回は2つのレポートはともに文責が安倍晋三氏であり,たとえ一言一句違わなくとも再利用は個人の自由である。剽窃には当たらない。日本メディアが首相そっくりあいさつを批判している本件は,海外メディアでも複数とりあげられている。

 英ガーディアン紙は「日本の首相が広島と長崎で怒りを巻き起こした」と報じていた。その記事のコメント欄は,外国人からのコメントが2000を超え沸騰していた。だが,そのほとんどがメディアの報道姿勢,つまり本件に関する総理への批判を理解不能と批判するものであった。

 木走はそのコメント例をいくつも挙げているが,ここでは割愛しておく。要は,国内では批判噴出であるものが,海外からは逆に「それでなにが問題なの?」という反応であったという説明であった。

 そして,木走は要するに「個人的には『正直いって新しい切り口なんて残されてないでしょ』,このコメントがすべてであると感じ」ると締めつつも,ともかくまた,「逆に日本国首相の広島と長崎で挨拶の内容が,世界に向けて大きく異なることの方が問題であるような気もすると結論していた。

 i) 木走正水の意見(指摘と批判)は,もっともな中身であり,それなりに筋の通った論旨を提示していた。

 だが「安倍晋三君のあいさつ文」がなぜ,いまどき問題にされて「コピペ」だといって叩かれるのかについては,2020年になるまでの日本の政治過程,いいかえると,コロナ禍のために下手をすると,1929年世界大恐慌にも匹敵するような国民経済・社会経済の被害がもたらされるかもしれないと懸念された時期になりつつあった当時の事情も勘案し,より真剣に吟味してみる余地があった。

 補注)現在は2023年12月13日であるが,各国の国民経済・社会経済に多大な損害を与えてきた新型コロナウイルス感染症が,コロナ禍として世界中に与えてきた災厄は,まだ余韻を残している。

 2020年直後からそれ用のワクチンが拙速に製造・販売されたあげく,薬害となって多くの死者・犠牲者を出した事実は,本末転倒の結末を生んでもいた。

 やたら総理大臣の任期だけは長くなっていても,実際の仕事面では首相の仕事をろくに遂行できなくなっていた「彼〔安倍晋三〕の政治家としての〈疑似・禁治産者ぶり〉」,その私物化政治の極度の罪悪性は,大きく注目されざるをえなかった。そのなかでおまけに,どうしても「あいつはコピペするしか能がない奴だ」というふうに,即座に決めつけられてしまう雰囲気まで醸成されていた。

 前半の段落でなぜ,天皇の「敗戦記念日における〈おことば〉」文言の変化に触れてきたかといえば,安倍晋三のあいさつ・文のほうだと,そのように “めちゃくちゃに叩かれる風景” が現出していたのに比較して,天皇の「8月15日のその〈おことば〉」場合だと,そのような現象(批難)は飛んでくることはなかった。

 ここで,『朝日新聞』2020年8月15日朝刊「〈社説〉戦後75年の現在地 不戦と民主の誓い,新たに〉」のなかから,つぎの段落を選んで紹介する。

 以下に引用される段落が意味したのは,これ〔それ〕まで「ますます低劣化・粗悪化するばかりであった」安倍晋三的な政治現象が,死物化政治屋の野放図な横行,いいかえれば,現代日本の政治の病巣をさらに悪化させていくほかない条件を提供したことである。

 補注)現在,2023年12月段階になってみれば,このように指摘してみた日本国の状態は,その後においても,まったく「同じように悪化してきた」としてしか表現のしようがなくなっていた。例の表現が「衰退登場国:日本」であった。

           ★ 憲法に背向ける政権 ★
 = 『朝日新聞』2020年8月15日朝刊「〈社説〉戦後75年の現在地 不戦と民主の誓い,新たに〉」から =

 いま世界では,多様さを認める自由社会と,画一性を強いる強権社会がある。米中「新冷戦」と呼ばれる覇権争いが起きている現実は嘆かわしい。しかし,先行きが不透明な国際情勢にあっても,日本が自由と民主主義の基盤に立つ原則を曲げよ,という声はない。

 日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」とし,「主権が国民に存する」と宣言した。不戦の誓いが民主主義と連結した戦後思想は,国民に浸透しているといえるだろう。

 むしろ,背を向けているのは政府のほうではないか。安倍政権による国会軽視の数々。市民に必要な情報公開どころか,公文書の改ざんや隠蔽にまで及んだ権力の乱用は,国民主権への冒涜というほかない。

 戦争の記憶を継承し,新時代の難題に取り組みながら,問いつづけていかねばならない。75年前,再出発した日本がめざした民主国家づくりは,どこまで実践されているか,と。

『朝日新聞』2020年8月15日朝刊「社説」から

 

 ※-5「森〔まさこ〕大臣が壊れてしまう程,安倍のウイルスが蔓延している。」『かっちの言い分』2020年3月20日,https://31634308.at.webry.info/202003/article_18.html?1584878758

 (前略)

 宏池会は,吉田 茂を始祖とした名門派閥で,保守本流を名乗った。保守本流とは,吉田いわく「呑舟の魚 枝流に泳がず」である。傍流のA級戦犯の孫は,まさに「大魚を呑みこんだ」もので,反対に岸田は「小魚・傍流に呑みこまれてしまった」ことになる。

 名門・宏池会は,岸田の時代で死んだ。保守本流とは,民意を政治に反映させる。99%政治をいう。その点で,安倍の飼い猫に主役は務まらない。

 五輪の中止・延期は「政局になる」と,いち早く自民党総務会長の立場で公言した鈴木俊一に,あらためて注目したい。石破にもいえなかった正論である。五輪の犠牲にされた東北は,岩手県の出身である。

 相当の覚悟で,政局の先を明示した,先見の明はあっぱれだ。繰り返すが,安倍も,本日〔3月20日〕の国会答弁で7月五輪断念を表明した。鈴木の判断は正しかった。2020年3月23日に屈服表明したことになる。いよいよポスト安倍レースが始まることになろう。

 補注)2020東京オリンピックは中止にはならず,1年順延して実現していた。ただし,無観客試合で実行されていた。国家予算の無駄づかい,われわれの血税をかけ流したかのような五輪開催は,下り坂を転がり落ちはじめていたこの国の惨状などから目を背けたお祭り騒ぎでしかなかった。

〔記事に戻る→〕 もう1人が,安倍のことについて,なんでも承知している林 芳正である。本来は反安倍の河村建夫は,選挙区を林に提供,息子を林の参院に回すという。林と鈴木の,護憲リベラルの2人が手を握ると,面白い展開が期待できる。

 小選挙区制は,いちじるしく民意を損なう選挙制度である。廃止すべきだろう。大選挙区か中選挙区がいい。同時に,公職選挙法と政治資金規正法の抜け穴を閉じてしまうのである。

 他方で,自民党と公明党を「ぶっ潰せ」の国民運動が,徐々に表面化しつつある。こちらの主役は,山本太郎や山尾志桜里らである。コロナ禍を蔓延させた安倍後継人事で,この先,永田町・平河町・信濃町とそして霞が関が,小刻みだが大きく揺れていく。

 すでに始まっている! 友人は「安倍と麻生を豚箱に入れないと,日本は再生できない」と。正論であろう。(引用終わり)

 以上の論旨は,今日は2020年の8月段階におけるものゆえ,その後のいま2023年12月となったからには,それ相応に変化が生じていて当然であった。

 それにしても,2020年6月18日以降は,ろくに国会議事堂付近には立ち寄れなくなった安倍晋三である。最近〔同年8月中旬〕になってみれば,この首相の健康状態が思わしくない様子は,官邸内で歩く姿をTVのニュースで5秒間ほどみただけでも,なんらかの不調が確実にうかがえる。

 補注)いうまでもないが,安倍晋三は2022年7月8日,参議院選挙に立候補した人物を応援するために出向いた奈良市において,山上徹也という統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の「宗教2世」が,手製の散弾銃を用いて発射した弾丸に倒れたとされている。

安倍晋三が銃殺された状況については
基本的な疑念が提示されていた

 いまだにコロナ禍が完全に消えてわけではない「日本の経済・社会状況」は,さらにその内実における生活品質水準をどんどん低下・悪化させつつある。いまごろにもなってだが,安倍晋三という総理大臣に向けては,疫病神であり災厄王だという以上にも,くわえて「なにか適切な形容」がもっと必要になっている。

後藤田正晴の懸念どおりになっていった
日本の不幸
『衰退地上国:日本』とは現実の姿

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