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老朽原発を再稼働させる日本のエネルギー政策(1)

 老朽原発を再稼働させる日本のエネルギー政策は,後進国的体制風の電源確保をいとわない愚かな方途,再生エネを全面的に導入・利用する体制の構築を妨げる電力政策は愚の骨頂である。
 付記)冒頭の画像は本文中に引用したテレビニュースの画面から借りた。
 

 ※-1「原発国内最古の高浜1号機,本格運転再開 関電,定期検査を終了」『日本経済新聞』2023年8月29日朝刊14面「ビジネス・テック」の内容について

 関西電力は〔2023年8月〕28日,高浜原子力発電所(福井県高浜町)1号機の本格運転を再開した。最終検査を終え,12年強に及んだ定期検査を終えた。稼働から48年と現存するなかでは日本でもっとも古い原発の再稼働に向け,配管や電気系統などを更新。延べ900人弱の技術者らが点検に参加し,長期間止まっていた原発の本格運転の再開にこぎ着けた。

関西電力高浜原発1号機 

 午後6時に最後の検査を終え,本格運転を再開した。2011年1月に定期検査に入り,東日本大震災後の新規制基準への対応などにも時間がかかっていた。火災防護対策の不備を指摘されたため当初想定よりは2カ月遅れたが,7月28日に原子炉を起動し,8月2日には電力供給を実質的に始める「発電機並列」へとステップを踏んできた。

 定期検査では制御盤や配管,電気系統などの設備を取りかえ,遮蔽壁の増強なども実施した。取りかえできない圧力容器や格納容器,建屋なども点検を重ねた。12年間稼働していなかったプラントを動かすことじたいが珍しく,「機器を新しくしたことで生じるリスクもある」(幹部)との声もあった。

 補注)点検といっても原子炉のそれには制約ありすぎ,本当の工学的な意味で点検といえるかどうかは疑問。あくまで推論・推理・見込で期待をする形式での検査しかできない「点検」だといえなくはない。

〔記事に戻る→〕 同じく40年を超えて再稼働を経験した美浜3号機(福井県美浜町)の人材や,火力・水力発電の技術者,OBなども投入して点検を進めた。化学や鉄鋼などの知見をもつ技術者も協力会社などから招き,延べ900人弱で点検・確認したとしている。

 1号機の稼働に続き,9月には2号機も原子炉を起動する。関電は運転可能な原発すべてを再稼働し,定期検査を除けば7基すべてを動かせる状態が近づく。液化天然ガス(LNG)など火力発電所向け燃料の調達費用の抑制につながり,18年ぶりの最高益をみこむ関電の業績に寄与する。

 補注)関電が保有する原発を全部稼働していったら,次段で触れているGXは「順延どころか,意図的にあとまわしになる」。それゆえ,この炭酸ガス〔の排出〕とはけっして無縁ではないどころかおおありの原発が,このGXに貢献しうるなどと誤説(謬論)を恥ずかしげもなしに,あれこれを語る方途じたいが実は虚構にならざるをえない。

 〔2023年〕5月には原発の運転期間を60年超に延ばせることなどを盛りこんだ「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法」が成立した。安全審査で停止していた期間などにかぎり,原発の追加の延長を認める。もっとも稼働年数が長い高浜1号機,これに次ぐ2号機を安定運転させることは,政府が進める原発の長期運転の試金石にもなりそうだ。(引用終わり)

 さて,クラシックカー同好会が昔の古い,たとえば50年も前の,旧式でそれも直近まで12年強も動かしていなかった乗用車を,趣味・道楽の遊び心も手伝ってだが,一生懸命,テイネイに再整備し,車検も通してから,この車を公道で走行させられるまで復活させえ,喜びを感じるというのは,個人の好みの問題だから誰もなにもイチャモンを付ける余地などない。はたで観ているほうとしてもついでに,とても「楽しそうだね」と感じる。

 ユーチューブ動画サイトでもその種の動画を自慢げに公表する好き者たちは大勢いる。だが,原発というきわめて「危険なそれも《悪魔の火》をわざわざ焚いて」いて,仕組そのものとしては他の火力発電方式と同じでしかないこの発電装置を稼働させて電力を生産するというやり方は,人類史においてエネルギー獲得の方法としては,当初から《愚中の愚》を選択していたのである。

 元福井地裁裁判長・樋口英明は最近,『南海トラフ巨大地震でも原発は大丈夫と言う人々』旬報社,2023年7月を公刊していたが,この本の表紙カバーの宣伝文句を観てもらいたい。

樋口英明・表紙カバー 

 この本の宣伝文句は読んでのとおりである。が,関西電力高浜1号機の再稼働が「12年強に及んだ定期検査を終え」て,つまり「稼働から48年と現存するなかでは日本でもっとも古い原発の再稼働」となったと,前段の『日本経済新聞』記事は,かすかにでも確かに歓迎するかのような筆致(もしくは気分そのもの)で伝えていた。

 それにしても,この関電の原発は商用運転を開始してから48年が(も!)経った代物だという「年代の計算」が,とても気にかかる。もちろんその年数はすべてが稼働していた時間だけの合計ではなかった。

 乗用車の場合,駐車させていた時間=期間も耐用年数の計算に入れられるのは当たりまえのことだが,原発は稼働していなかった期間をその耐用年数が除外するというトンデモなく奇怪な会計計算を許していた。この点からして企業計算論の基本をまっこうから否定し,破壊する,奇抜も奇抜の,つまり噴飯ものの発想であった。しかし,この無作法でしかない耐用年数の計算方向が強行されていた。

 人間にたとえて,つぎのように語ってみたら,はたして好ましくない発想だということになるか?

 人間はその寿命からは睡眠時間を除外して年齢を計算すべきだなどと聞かされたら,そういうあなたは “気でも狂ったか” と疑われること必定である。それなのになぜ,原発の場合だけは稼働していない期間を耐用年数から除外できるというのか? ヘリクツ以前の没論理が藪から棒に唱えられていた。

 その種のリクツがまかり通るのであれば,ほかのあらゆる装置・機械も同様にあつかわないことには,それこそ道理がまったく通らない。だから,この指摘・批判に反論できる者はいないはずである。

 なお,関西電力の高浜原発1号機は,商用運転を昭和49〔1974〕年11月に開始した「加圧水型(PWR)軽水炉」で,定格出力は 82. 6万kWの原子炉であった。なんとほぼ半世紀前にその運転を開始していた。

 さて,その49年(半世紀近く)前に商用運転を開始したこの原発であったが,たとえば日本の自動車史を対照させてみると,どのような会社の,その車種が新車として販売され,流通していたか?

 つぎのたとえば「1970年代を彩った旧車10選!!」『va bene』2020年4月23日,https://vabene-d.com/trivia/1970s-oldcar に紹介されている各社の各車は,車が好きな人であればこれら全部をよく記憶しているはずである。

いまどきこれらの車を公道で目にする機会は
よほどのことでなければない

 これらの乗用車のうち,関電の高浜原発1号機のように12年間強もの空白期間を置いてとなるが,それでも公道を走れるようにまであらためて入念に整備をほどこし,乗り物として完全に復活させえたとして,はたして,運転歴の長い人であっても,高速道を120キロメートルで長時間走る勇気をもてるか?

 クラシックカー並みの車歴になっているこれらの乗用車を,最近購入した新車や以前からふだん乗りまわしている乗用車並み走行させることに,「一抹(以上?)の危険性」を感じるのは当然であって,そう思わないほうがどうかしている。

原発にも当然,「クラシックな原発」である原発があり,高浜原発1号機はその分かりやすい実例として挙げられる対象ではなかったか? こういう表現をしてもけっして不自然ではない。

 関電の高浜原発1号機はいままで,つぎのように点検・補修・改善などをおこなってきたという。なぜ,そこまで手入れをしてまで,このオンボロ原子炉をわざわざ保守・管理をしつつ稼働させねばならないのか。

 この種の疑念は,機械工学の基本原理から判断すれば,まず危険性(安全性や信頼性の確保)という点で,さらにまた,原子力工学の技術特性から推測すれば全般的にその技術上の不安が多々残る点で,不審あるいは心配の種がつきないはずである。とりわけ原子炉(圧力容器)の耐性に関しては,一抹のなどという以上に,本格的な懸念がとりついている。そういわないことには,これまたウソになる。

 前段に紹介した樋口英明『原発は大丈夫かと言う人びと』は,原発関連の基本知識を踏まえてだが,つぎのように「原発を批判していた」。樋口のいいぶんを借りて,筆者風に叙述しておきたたい(引用は,137頁・注8から)。

 「原発稼働による利益を享受できるのは,せいぜい3世代〔これは人間の世代の話〕であるにもかかわらず,その後の使用済み核燃料保存の負担は3000世代以上に及ぶ」

 「『そんなさきのことは自分には関係のないことなのでどうでもよい話だ』と思う心に原発推進派は付け入り無責任で無謀な計画を推し進め」ており,「使用済み核燃料の問題はすでに一国で解決できるものではなく,世界の叡智を集結していかなければならない問題なの」にもかかわらず,

 ともかくというか,だからこそオンボロになっている原発,つまり関電ならば高浜原発1号機のごときに,半世紀以上も以前に設計され建設された原発を,後生大事に(!)稼働させようとしている。原発の今後はこのままだと,「あとは野となれ山となれ」に等しい〈恣意的な観点〉が紛れこんでいる見通ししかない,と観るほかない。

 「3世代」から「3000世代」へと表現されたのは,原発とこの関連施設の後始末にかかる年数のことであった。1世代30年とすると,3000世代は9万年にもなる。発電装置・機械の完全なる後始末にそれほど長大な年月を要する発電方式は,いうまでもないが,ほかにあるわけもない。

 それでは,原発どうしてそういったたぐいの,たいそうなやっかいを,あえて残してくれるのか? それは,最近話題になっているが,東電福島第1原発事故現場から「廃炉が完了するまで」は出つづける〈汚染水〉の問題に象徴されていた。しかも,この核汚染水のことを処理水などと呼ぶのは日本だけである。原子力村の住民たちは,脳細胞のどこかのシナプスが完全に破断しているとしかみようがない。

 日本の常識は世界の非常識。

 火力発電所1基の後始末には「1世代(30年も)時間が要する」などいったら,笑われる。ところが,原発となるとその後始末,廃炉とその放射性物質の各種汚染物の処分にはたいそうな手間暇がかかる。3000世代先にまでその負担を残していくことまで視野に入れる余地が最初から前提されねばならなかった。
 
 東電福島第1原発『事故の後始末』の問題となると,そこには,ほぼ永久「保存」となるほかない土地・施設が,事故の残骸として,それもいつまでも放置されるかっこうで存在しつづける。

 その点だけを考えただけでも,それこそ滅相もない発電装置・機械が原発だという結論になる。だからこそ,原発の場合は,オンボロでもなんでも再稼働させられるかぎり,つまり,その老骨に鞭を打ってでも,この出来損ないで,もともと欠陥製品であった電力生産装置を動かしていかねばという仕儀になっていた。きっと,そうであったに違いあるまい。

 ※-2 山田孝男・稿「〈風知章〉原発の時間 人間の時間」『毎日新聞』2023年8月28日朝刊2面「総合」,https://mainichi.jp/articles/20230828/ddm/002/070/065000c

 以上に記述した※-1は,『日本経済新聞』のいささか浮ついた論調に水を差すかたちで重大な警告をしたことになる。こちら※-2では,『日本経済新聞』が示した論調に対する批判となっている『毎日新聞』の,よりまともな「原発観」を踏まえた論説を紹介したい。

 --いわゆる「処理水」の放出を決めた〔8月〕22日の閣僚会議で,岸田文雄首相は「今後数十年の長期にわたろうとも,責任をもって取り組んでいく」といった。

 経済産業省の課長はふつう2年で代わる。数十年の間に首相と経産相,東京電力社長は何人,いや何十人代わるか。そもそも数十年間,地位を保って責任を果たす人間がいるか。

 補注)ここでも年数および世代の話になっている。この論説がいわんとする核心はすぐに察知できる。

〔記事に戻る→〕 処理水放出完了には30年から40年かかるという。いま,福島第1原発敷地内に並ぶタンクの7割はセシウム,ストロンチウムなど猛毒の放射性物質が残る「処理途上水」である。

 「途上水」を再処理したものが「処理水」で,それも少しずつ薄めて海へ流さなければならない。東電は「2051年までに放出を完了」といっている。2051年は,原発事故から40年にあたる。

 「30年から40年」は事故後に示された廃炉ロードマップの暫定目標だった。すでに〔2011年から〕12年経ったので,40年となる2051年(28年後)が強調されるわけである。

 だが,事故炉は,溶け落ちた燃料デブリの実態さえつかめないのが実情。「2051年までに」説を額面通り受けとる者はいない。

 「100年かかる」説もある。まれに「ロボットが内部の撮影に成功」と報じられるが,暗中模索の一こまに過ぎず,全体の制御は五里霧中である。

 補注)東電福島第1原発事故現場の1・2・3号機を合せると,880トンものデブリが,溶融して落下したのち固形化したかっこうでいまだに,それぞれの格納容器の底面に(あるいは建屋下でチャイナシンドローム状態になって)溜まったままである。

 そのデブリの取り出しがいつになるか,その見通しさえつかないでいる現状のなかで,東電側は「2051年までに放出を完了」といっているが,正直いって,なにをタワケた寝言をいっているかという印象である。

多分,100年以上かけても取り出しは不可能

 だからさらには,処理水という名の処理された汚染水,換言すれば核汚染水も,現状ままだと,これからも排出されつづける。廃炉の実質的な第1歩となるデブリの取り出しが全然手つかずの状態にあるにもかかわらず,そのように年限を切って,「2051年までに放出を完了」などといえるのか?

 まったく,冗談にもなりえないどころか,実際には寝言にも縁遠い話であった。

〔記事に戻る→〕 再処理してもトリチウムという核種は残るが,それは無害というのが現在主流の見解である。この問題は,政府対策本部の小委員会と「トリチウム水タスクフォース」(特別委)で2013年から議論されてきた。

 小委の公聴会で「生物のなかに入れば濃縮される」「他の放射性物質と比較してもなお危険」などの懸念が示されたが,小委報告書(2020年2月)は生体への影響はないと結論づけた。

 トリチウムの放射線は微弱とはいえ,生命体の分子結合のエネルギーの1000倍の力があり,生物のDNAに必ず作用するという。それが放出批判の背景だが,小委は,権威ある動物実験や疫学研究をみるかぎり無害と判断〔した〕。国際原子力機関(IAEA)もこれを支持している。

 疫学研究とは,人間の集団を対象とする統計調査のこと。放射線の影響を人体実験で調べるわけにはいかない。データは不十分であり,トリチウムによる内部被ばくの影響は「ない」のではなく,「わからない」というべきだという批判派の主張はうなずける。

 補注)トリチウムの有害性がないと断ずる考え方は,科学的に完全に証明されていないどころか,この見解に反対する説明にまともに反証を挙げえていない。日本における公害史の記録をひもとけば類推して分かることだが,原子力村側の主張は眉ツバものだと勘ぐるほうが理にかなっている,としかいいようがない。

 要はその主張じたいはなされているのだが,実証的な説明となるとけっして完全にまで及ばないどころか,イデオロギー的な希望的観測に重点を置く「単なるいいぶん」であった。有害性ありと主張する立場は反対に,その害悪性を具体的に説明してきた。

 核汚染水を処理したら処理水になるといっても,実際にはトリチウム以外の核種10何種類がまだ残存している「その処理された水」であるから,これはいまだ核に汚染水された水だというほかあるまい。

 以上の議論は,詭弁だとかあるいは修辞の問題だとかいった次元にある論点ではなく,しごくまっとうな,常識により近づいた解釈である。

〔記事に戻る→〕 『中国核能年鑑』(公式資料)によれば,通常運転中の秦山(しんざん)原発(浙江省)から2021年中に海へ排出されたトリチウムは218兆ベクレル。福島「処理水」海洋放出計画の,年間上限の約10倍である。中国の日本批判は情報宣伝戦だが,ほかの国々は日本の味方と早合点すべきではない。

 今〔2023〕年4月,札幌での主要7カ国(G7)気候・エネルギー・環境相会合後,日独伊の共同記者会見で西村康稔(やすとし)経産相が「処理水放出を含む日本の取り組みが歓迎される」と発言。ドイツの閣僚が「処理水放出を歓迎とはいえない」とクギを刺す一幕があった。

 原発をめぐる時間の流れは人間の一生をはるかに超える。過酷事故の代償は重い。すでにに人の手に負えぬ領域に深く沈んでいる。

 数十年で制御可能という虚構にいつまでしがみつく気か。首相も,東電も,誠実に語るべきである。(特別編集委員)(=毎週月曜日に掲載)(引用終わり)

 ここまで来て思い出した。つぎに挙げる住所の記事をついでに読んでほしい。キューバの自動車事情は最近はだいぶ変わってきたらしいが,以前はアメ車〔の古車〕だらけの国であった。

 だが,その事情と日本の原発を比較するのは,発想じたいからして軽々に過ぎて許容できない。原発とアメ古車をいっしょに比較するのは,どだいムリがあったゆえ……。

 最後に断わって起きたいことがあった。

 「本稿(1)」に当初,復活させ収録したかった「以前の記述」(旧ブログ)は,ここまでの記述そのものの分量が多くなったので,次編「本稿(2)」として,あらためてつづけて書くことにした。

 多分,明日の記述が「本稿(2)」となるが,その住所(アドレス)は公表しだい,ここ〔 ↓ 〕に記入するつもりである。

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