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靖国神社問題小考-敗戦した賊軍神社の意味-

 ※-1「戦争のために必要だった靖国神社」の問題を語る前に触れてみる「旧日本軍の重慶爆撃」と「最近,ロシアによるウクライナ侵略戦争の都市破壊行為」という話題

 1945年8月15日(9月2日)大日本帝国は敗北した。15年戦争とも呼ばれた「満洲事件⇒支那事変⇒大東亜戦争」は,万邦無比で世界に冠たる「八紘一宇であるはずだった神国日本」の完全敗退をもって終結した。

 それも原爆を2発もみまわれるだけでなく,それ以前に日本国中,地方の中小都市までがB29による絨毯爆撃による「民間人殺戮の目に遭わされる」というなりゆきになってもいた。そのとき,たとえば1945年3月10日未明からの東京都下町に対する米軍作戦としての大空襲は,無慮10万人もの民間人犠牲者をもたらした。

 しかし,民間人に対する無差別攻撃は,なにもアメリカ軍が最初に始めたわけでなく,旧日本軍がそれに先行したかたちで,戦争中の作戦の一環として決行していた。

 こういう「歴史の展開:事実」があった。

 日中戦争〔「支那事変」〕中の1938年12月から1941年9月にかけて,旧大日本帝国軍陸・海軍航空部隊は,中国大陸の奥に位置する重慶への爆撃をおこなっていた。

 大東亜戦争が開始される4ヵ月ほど前の時期まで,その航空部隊が,当時中華民国国民政府(国府)の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な戦略爆撃が,歴史の事実として記録されている。

 なお重慶政府は,1937年11月から1946年4月まで重慶に置かれていた中華民国国民政府の俗称である。1937年11月,国府は南京から重慶に移っており,同年12月,南京は日本軍に占領されたさい,ここでは南京虐殺事件が起こされた。

 重慶への爆撃は当初,飛行場・軍事施設・政府中枢機関などに目標を限定して爆撃していた。けれども,視界不良,爆撃精度,目標の位置の関係で,一般市民にも多くの被害を出し,無差別爆撃と批判され,さらにのちには市街地を区分して,くまなく絨毯爆撃をおこなうことになった。

 つまり,日本軍によるその重慶爆撃作戦は実質,無差別爆撃と化していた。この作戦は当初,前段に触れたが重慶に避難していた中華民国政府の中枢機関の破壊・為政者らの殺害を目的の筆頭においていたものの,その目的が果たせないため,首都機能の破壊と市民からの戦争継続反対の声が挙がることを狙って,一般住民らの無差別殺害を意図して,市街地全体を狙って爆撃をおこなううようになっていったものだ,とする説明がある。

 以上はウィキペディア的な説明であるが,現在,ロシアがウクライナ侵略戦争を実行中であるなかで,プーチンの軍隊が正直に披露しているように,当初から「都市機能(インフラ)の破壊と市民の虐殺」を平然とおこなってきた事実は,21世紀における〈現在的な事実〉としてしらない者がいないくらい明白である。

 かつての日本軍による重慶爆撃は,1937年4月26日,内戦中であったスペインの北部の都市ゲルニカに対して,ドイツ空軍が戦史上「初の本格的な都市無差別爆撃とされる」攻撃をおこなった「ゲルニカ爆撃またはゲルニカ空爆」よりも,軍事作戦としては長期的・計画的に,つまり戦略的におこなわれた点に特徴があった。

 つぎに参照する画像資料は,2022年3月中に報道された記事の冒頭部分であるが,このようなウクライナ国内に対する「ロシアのプーチン」軍の焦土作戦は,「ウクライナという国と民」のことを,プーチンは「歴史的にも民族的にも同胞である」という理屈をもって,実行している。まさに「狂気の政治家」による「凶器を行使した」戦争行為が,2022年2月24日に開始されてからつい昨日まで,なんどでも反復されている。

2022年3月,ロシア軍による
ウクライナ・マリウポリの破壊状況
このような絶望的な状況は
ウクライナのほかの都市にも数多くもたらされている

 2023年の5月になった時点でも「プーチンのロシア」軍は,まったく同じ作戦を反復しつづけている。ここに参照した記事はゲルニカ爆撃に関する写真もつづけてかかげていたので,これも紹介しておく。

 これ以外にもすでにわれわれは,ウクライナの各都市:民間住宅や公共施設に向けて無差別的にかつ意図的にミサイルやドローによる攻撃を続行しているロシアのやり口は,インターネットの時代であるがゆえに,われわれが日々手に取るようにして,視聴できている。

ドイツナチス軍によるゲルニカ破壊

 さて,旧日本軍の場合,重慶へ出撃した爆撃機に登場した兵士たちのうち,その後,日本軍が敗戦するまでのあいだに戦死した者も大勢いたはずである。そして,その兵士たちはほぼ全員が靖国神社に英霊として合祀されてもいるはずである。

 現在,靖国神社にはつぎの表のように「英霊」が合祀されてきたという。なお,2004年10月17日現在では,計246万6532柱である。

靖国神社・合祀者数推移

 また靖国神社の境内はつぎのように図絵で説明されている。この『日本経済新聞』なりの説明に対しては,若干,批判的に言及しておく。

鎮霊社関連の記述
 

※-2 靖国神社の問題を基本から考える-敗戦した賊軍神社の意味を戦後から観る-

 要点 「なにを・どのように・論じるのか,靖国論の自己閉塞性」】

 1)「〈歴史認識の根っこ〉対立生む『国家神道』,靖国問題 見過ごされる国内問題の側面」朝日新聞』2014年1月20日夕刊 

     ◆ 当たりまえの問題意識から断っておく ◆  

 靖国神社は「国内」では官軍神社であるとの錯覚が常識だが,
     「国内および国際」の双方では賊軍神社だとする認識がある。

  ★「敗戦の将,兵を語らず」に反するこの神社の世俗的即物性
  ☆「誰がために靖国はあるのか?」

靖国神社の即物性

 2014年1月20日であった,上智大学教授の島薗 進が『朝日新聞』夕刊に,この 1) の「『題名』の論説」を寄稿していた。インタービュー記事ではあるが,語りの記事が陥りがちな冗長さはなく,論説の体裁をもって意見がよく整理され,まとめられている。

 最初に,当時の「この夕刊の記事」を読んでみてから,つぎに THE ASAHI SIMBUN DIGITAL のほうで,この記事の「現物(テキスト:文字文書)」を探すのには,少々手間どった。だが,この「夕刊記事のウェッブ版」をともかくみつけ,本日の記述に利用することになった。
     
 現在,朝日新聞の報道方式では,夕刊「紙面」そのものをウェッブ版の対象に入れていない。つまり「紙面版」についてはもともと朝刊しかないため,夕刊を,新聞紙を開くようにして読めるウェッブ上の画面は求められない。そこで,1月20日に配達された夕刊紙面のこの「現物」をみてから,以下ににとりあげ議論していく記事を,ウェッブ上で探す:検索することになった(以上,ひとまずは,2014年1月時点に即した事情説明である)。

 この記述においては,アルファベットを付した文章は新聞社側の質問設定であり,◎ の以下の文章が島薗 進の主張:議論である。それにつづいて「議論1・2・3 ~ 」という項目を立てて,本ブログ筆者の論及がなされている。この「議論」をする段落が相当部分を占めるので,あらかじめ断わって起きたい。

 なお「しまぞの・すすむ」は1948年生まれ,近代日本宗教史専攻,著書に『国家神道と日本人』(岩波新書,2010年)がある。

 2) 本論「〈歴史認識の根っこ:1〉靖国問題,対立生む『国家神道』

 a) 宗教学の観点から,最近の靖国問題をどうみるか。

  ◎-1 首相らの靖国神社への参拝は,信教の自由や政教分離をめぐる国内の問題として長らく議論されてきた。それが中国や韓国からの反発という国際問題になった。このため日本にとって正当であるはずの参拝が外国の反対でできなくなっているという印象が作り出され,本来の国内問題の側面が見過ごされている。

「議論:1」 ここで「日本にとって正当」だということに関していうと,「そうあるはずだ論」が問題になる。敗戦直後の日本では,将兵だけで約210万もの死者:犠牲者を出した戦争の,国家神道的な「後始末」(→合祀のこと)を,靖国神社が戦前・戦中とまったく同じ方式で,

 つまり国家神道の宗教精神でもって「英霊として合祀する」という行為を,当時なりに,つまり,あらためて敗戦後的に問題になりはじめていた「政教分離の原則問題」の隙間をすり抜けるようにして,おこなってきた。昭和天皇は敗戦直後,駆けこみ的な靖国参拝を,そのときはGHQの顔色をうかがいながら,それこそ抜け駆け的に実行してもいた。

 しかし「戦争の敗北(大日本帝国側の完敗体験)」は,この靖国神社を完璧に〈不要の施設〉にしていた。というのは,これは筆者の持論であり分析であり主張であるが,明治になってから創建された「戦争神社=勝利神社」である〔=「勝たせなければ」ならない〕基本性格の靖国神社が,「敗戦後」も存続しているという点からして,まずもって「大矛盾を露顕」させていた。敗戦という歴史の事実は,この神社を根底から瓦解させたのである。

 大日本帝国は日露戦争のとき,ロシア艦隊との〈日本海海戦〉に挑んでZ旗(写真)をかかげた。その意味は「皇国ノ興廃,コノ一戦ニ在リ,各員一層奮励努力セヨ」,つまり「この戦いに敗れれば後がないという意味」であった。

Z旗
日本海軍では大規模な海戦のさい
旗艦のマストにZ旗を掲揚することが慣例化した

 ところが,大東亜〔太平洋〕戦争の結果,広島・長崎に原爆を投下され「戦争に負けていた」ときには,この出来事=敗北を無視したかたちで,戦争勝利のための「靖国神社」を,敗戦後もそのまま残置させていた。

 そうした敗戦後的な現実問題の出発じたいが,そもそもの大きな過ちを冒していた。この種の歴史認識を初めから抱くつもりさえない「靖国神社に関する議論」は,出発点からして不全であった。          

 大日本帝国の将兵が生前に靖国神社に参拝にいかされたとき,まさか「自分が動員された戦争に敗けるために」,この神社に参拝しにいったと思っていた者はいなかったはずである〔と考えて間違いはあるまい〕。

陸軍兵士の靖国神社参拝
海軍兵士の靖国神社参拝

 「御国の戦争勝利のために〈鴻毛よりも軽い自分の生命〉を,天皇陛下のために捧げる覚悟で死を迎える」ことを意識していたとしても,まさか自分の死が敗戦にしかつながっていなかったとすれば,これは靖国神社に英霊としてお前たちを合祀してあげるといわれていたところで,結局「国家の側は約束違反」を犯していたことになる。

 負けた戦争で英霊として合祀されて「尊い生命を国に捧げた」といわれるよりも,あるいは「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」といわれる破目になったにしても,ともかく自国が敗戦国になったからには,戦後にまでうまく生きのびていったほうが,よほどましなその後の人生になっていたというほかない。
 
 なんといっても,「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」である。兵士たちの家族たちも,夫や息子,兄・弟たちが「靖国神社の英霊」としてそこに合祀されるよりも,生きていてそばに居てくれるほうが,何千倍何百万倍うれしいか。その程度のことは口に出して表現しなくとも,心の奥底では皆,同じに思っていたはずである。

 妻や両親やその他の家族も,兵士となって戦場に駆り出された夫や子などが生きて還ってくれたほうが,「天皇陛下のために死ぬこと」よりも,どのくらいうれしかったか。この手の話は五万〔という以上〕に大きな山ほどに積もってある。

 敗戦後の日本がいかんせん「国敗れて山河あり」の状態になっていたとしても,そういえた〈はず〉である。とりわけ将兵の母親は本心ではそのように堅く思っていた〈はず〉である。

 自分の腹を痛めて生んで育てた子どもが死んで悲しまない母親などいない。昭和天皇の兄弟(実弟)は3名いて,皆,大日本帝国陸海軍の高級将校であった。貞明皇后(母親)は当時,日本の〈軍国の母〉の代表格といってよかったが,戦争で死んだ息子は1人もいない。戦時期の日本社会において,徴兵される〔軍隊にいくべき義務のあった〕年齢の息子がもしも4人いたとして,戦争で1人も生命をとられなかったという家庭(世帯)は,ごくまれであったはずである。

 大日本帝国の歴史を回顧すればよい。どうみたところで「勝ってナンボの戦争」であることは,戦争をやる国はどこでもそう思いこんで,戦争を「オッパジメテいる」。

 このことは,間違いのない「戦争と平和」に関する理解である。2022年2月24日に「プーチンのロシア」が隣国のウクライナ侵略戦争を開始したが,プーチンは長くとも2から3週間で戦争を片付けられるみこみであった。しかし,その結果はご覧のとおりに進行中である。

 なかんずく「自国の平和のために他国に戦争をしかける」こともよくある。日本の場合,日清戦争で日本は大勝し,清から莫大な賠償金をとりたて,国中が沸き立った。

 ところが,日露戦争も勝ったはずであったけれども,ロシアから分捕ることができたものは,樺太の南半分と満洲における利権ぐらいで,軍人の生命をたくさんこの戦争で殺された庶民の立場からは「不満がいっぱい」の戦争あった。そのためにこの戦争後,東京市内では〈日比谷焼き討ち事件〉をともなう暴動事件が起きたのであった。

 日露戦争がはたして,本当に勝った戦争だったのか判らないくらい,ぱっとしない結果(戦果)であった。そもそも英米の仲裁が入って,この戦争は決着をつけられていた。ロシア側は負けたとは思っていなかった。そのあとに起きた第1次大戦で日本は,ほんの少しだけ参戦し,中国の青島や太平洋地域にそれまでドイツが保有していた領土を,「漁夫の利」的に手に入れた。

 さて第2次大戦時,日本の場合は国民が『醜の御楯』となるために--とはいっても,天皇のためのその楯であるから,国家のため・家族のためとはいっておらず,ひたすら「陛下のため」をいっていたが--,将兵たちは戦争の現場に送られ,自分の生命をこの天皇陛下(大東亜戦争であれば昭和天皇・裕仁)に捧げたのである。

 ところがである,この天皇陛下〔天皇裕仁〕さん,1945年8月に戦争の負けが決まったあと,どう行動していたか。ポツダム宣言を受け入れたのは,日本という「国体は護持され」「天皇家も根絶やしにされることもなく生き延びることが」ができることが,事前になんとか保障される見通しがついたからであった。

 彼だけは東京裁判に出廷しないで済まされ,その身代わりのかっこうでA級戦犯となった東條英機らは死刑台に送られ,絞首刑に処されていた。「敗戦後の日本国」おける昭和天皇の足跡は,昭和20年代の中期まではかなり苦しい国内外の政治・経済環境のなかに置かれていたことを教えている。そうであったとはいえ彼は,当時においても大筋では,なんとか天皇家の存続を維持できたなかで,一般庶民の日常生活に比べればはるかに幸せに暮らしていくことができていた。

 「敗戦後の昭和天皇による全国巡幸」は,そのなかでももっとも大きな「対国民慰撫対策」であり,明治天皇の六大巡幸に匹敵するようなビック・イベントであった。ただし,両天皇による全国巡幸のあいだには似た要素もあったとはいえ,基本においては決定的な意味の違いがあった。明治天皇は戦争に負けたことのない天皇であったのに対して,昭和天皇は戦争に負けた天皇になっていた。

 その歴史的な関係でいえばみごとに裏切られていたのが,1945年8月までは,とくに「大東亜戦争」に駆り出される若者たち(むろんほとんどが男だけだが)であった。自分たちの生命というものは20歳ころまでしか生きられないことを,覚悟させられていた。子どもころから学校教育のなかでは,天皇のために死ぬことを当然のように〈洗脳教育〉されてきた。戦前・戦中における日本の軍国主義・兵営社会の枠組のなかでは,そのように戦争用の教育を受けてきた。

 それゆえ,自分と同じ世代の仲間・友人・同級の者たちのなかには,戦争に往って還ってこなかった者が大勢いて,彼らは「醜の御盾」になっていたというか,そう「されていた」のである。『誰の楯』になったか? いうまでもない,天皇裕仁=昭和天皇という〈現人神〉のためであった。

 ところが,大日本帝国は戦争に完敗した。はてそこで,総大将:大元帥の彼が責任をとるかと思いきや,トンデモない,日本国憲法においてもそのまま,天皇の地位に就いていた。昭和21〔1946〕年の正月元旦には,もともと人間でしかないこの人が『人間宣言』とするという茶番劇を披露し,占領軍の庇護のもと,以後も天皇でいられるお墨付きをもらっていた。

 この風景の激変を目の当たりにさせられた若者たち(とくに男性であったことはいうまでもない)は,どのような心境にさせられていたか? 彼らは大人を信じることができなくなった。当然「天皇も尊崇できなくなっていた」はずである。

 さて,天皇のための《醜の御盾》となり死んでいった約210万の旧日本軍将兵は,いまさらのように「いったい,自分たちはなんのために生命を落としたのか,まったく判らなくなってしまった」。大日本帝国が大勝利でもして,シベリアを領土に分捕るは,アメリカのカリフォルニア州も手に入れるなどといったような〈戦利品の獲得〉などはなかった。

 それどころか,戦争に負けたから当然とはいえ,日本はアメリカ軍を主体とする占領軍に支配・統治された。日本が戦争に負けたら,男どもは「キ ○ ○ マ」を抜かれ,女はみなアメリカ兵のメカケにされると恐れおののいた。

 けれども「自分たちの大元帥」みずからが,敵の元帥のところへいっては,ゴマスリしていただけでなく(1946年9月27日に初めて Mac に初めてあいさつにいっていたし,その後も足しげく,みずから出向くかたちで,通っていた),自国の将兵たちがいかにだらしなく,ダメな者たちであったか,自分は戦争をしたくなかったが軍人のためにこうなってしまったといいわけしていた。

 しかし,この人,戦争中はたしか大日本帝国陸海軍全体を統べる大元帥であったのだから,そのようないいわけをすることじたい,ずいぶん卑怯な理屈を,それも調子よく申したてていたことになる。

 ともかく,大日本帝国の総大将:大元帥が敵国のマッカーサー元帥にひれ伏しては,なにやかや申しわけがましいことを開陳していた。結局,天皇家だけは「敗戦後の日本政治社会」を要領よく・上手に生き抜けていくことになっていた。

 そういうしだいであったから,「戦争神社である靖国神社」に合祀された将兵は,大日本帝国がすっかり勝っていたものと,死んでしまったあとに思いこんでいたはずのところが,あにはからんや,この帝国が敗戦するまでは,戦場に送られ死んでから,敗戦直後にこの神社に「英霊」として合祀された将兵たちにとっては,それこそ「あとの祀り」であって,まったく無意味な合祀になっていた。

 「人間の世界」では,どこまでも「生きていてナンボ」,「生命あってのモノダネ」である。それが「霊界の世界」に送られる,それも死んだからといっていきなり,靖国神社に葬送されて魂だけ吸いとられて国家的に利用される〈英霊〉になる,それもあたかも「成り金」のようにあつかわれていた。

 しかし,そうはいっても「死者には口なし」であり,しかもこの死人にとっては,靖国神社の神殿に合祀されても,「なにもえるものなどない霊的な立場」の冒されているのだから,すべては空しいあとの〈祀り〉であった。

 敗戦後における日本の政治過程においては,象徴天皇になっていたはずだった天皇裕仁が,どのくらい現実の政治・行政に直接口出しをしてきたか。いまでは,その歴史的な事実に対してはすでに,政治学者たちが学問的に解明してくれている。

 「沖縄に米軍基地をどうぞ置いてお使いください。25年から50年くらい,いやもっと長期にでも自由にお使いくださってけっこうです」と,個人的にアメリカ側に伝えたのは,ほかならぬ昭和天皇その人であった(いわゆる『沖縄メッセージ』1947年9月20日)。

右側画像が天皇のメッセージ関連の画像
左側画像は連合国側の当時・世論調査

 すでに象徴になっていた天皇裕仁が,そのように違法な行為を堂々と,国家の基幹問題に関して犯していた。ここまで歴史の事実をしれば,靖国神社に「国家や天皇のために祀られている英霊たち」の存在や,これを「祀っている」のだという「国家神道的な宗教行為の意味」は,俄然色あせてしまう。

 靖国神社はそもそもの由来からして「賊軍を祀らない神社」であった。だが,第2次大戦が終わると,この神社そのものが「負けてしまった戦争神社」になっていた。これでは,靖国神社本来の歴史的使命はもはや果たしえない施設:『賊軍神社』になったことを意味する。「勝てば官軍,負ければ賊軍」とは,よくいったものである。

 b)〔靖国神社〕本来の問題とは

 ◎-2 国家神道と呼ばれた,特定の宗教的な信仰や思想が背後に強く作用していることだ。もともと靖国神社は,尊皇,つまり天皇のために忠誠を尽くして戦った人をまつるために建てられた。兵士として死ぬことが崇高な価値をもち,神としてまつるにふさわしいとなる。そうした思想にもとづく宗教施設が,現在においても国家的な追悼・慰霊の場としてふさわしいのかということだ。

「議論:2」 この論点については前段ですでに,だいぶ先走って話をしていた。ここでは「神」ということばに注意したい。天皇のことは「現人神」といわれていたが,天皇家の皇室神道では,歴代の天皇はすでに神々に昇格しており(「皇祖皇宗」のこと:歴代の天皇だちの〈霊〉は,神として皇居の皇霊殿に祀られている),この「自家製の神道で祭る」対象(=祭神)になっている。

【参考画像資料】-皇居内にある宮中三殿見取り図-

宮中三殿見取り図

 日本の神道における《神》の概念は,西欧のキリスト教的な「神の概念:ゴッド」とは異なるとよく主張されるが,遠くに離れた地域の人びとのあいだにおける「このような違い」を強調したところで,「それぞれが神と思っている対象」に即してみれば,それぞれの「神としての重み」に関していうと,それじたいに大きな相違はない。

 日本の国家神道は「治教(政治と道徳)」のための宗教だから「宗教ではない」といいはり,理屈にもなりえない遁辞「神道非宗教論」を強弁してきた。

 明治憲法で「天皇は神聖にして犯すべからず」と宣言したのは,《神として天皇をあつかえ》といったことを否定するためにではなく,まさに『神のように崇めろ(尊崇しろ)と強制する』ためであった。

 この天皇を中心:頂点に戴いて,国民を精神的に統制する国家機構:「神聖=神国の日本帝国」を構築しようとしたのが,明治大帝下の国家体制であった。

 c) 統治の中心である天皇を国民全体で崇敬するのが,戦前の国家神道。そこに靖国神社が果たした役割とは。

 ◎-3 国家神道は,国家・社会の秩序についての教えではあるが,キリスト教や仏教のように,1人1人の人生の意味を深く問うような内容はない。

 ところが,兵士の死に崇高な意味を与える靖国信仰は,国民1人1人の心の奥深いところにかかわるものだった。日露戦争そして第2次世界大戦と,たくさんの戦死者が出た時代において,戦死した兵士を天皇や国家による尊崇に値するものとした慰霊施設はとても重い意味をもったであろう。

「議論:3」 戦争のためだからといって死ぬことを,心底から本当に喜ぶ人間などいないし,もとよりいるわけがない。ところが,この絶対に矛盾する関係である「人間の生と死の問題」を,ひとまず表向きに解決させておくために,靖国神社が「死」を迎え歓迎するための国家装置として提供されていた。

 靖国神社は,戦争のために死んだとしても「オマエたちの(ただし〈霊〉だけ)は」とりだしてやる,しかも大事にしておくための措置もしているのだ,という体裁をとっていた。つまり,戦死者を国家が手厚く遇し,いつまでも大事に思いつづけているよという具合に応えつづけているかのような『宗教的な〈虚構〉を立てていた国立の宗教施設』が,靖国神社であった。

 しかし,大日本帝国があの大戦争に敗北した瞬間から,この靖国神社のこの約束事は,否応なしに不成立「化」させられた。この神社のご利益は完全に消滅し,無効となった。

 それはそうである。大日本帝国が戦争に勝っているかぎり,以上に説明した「靖国の戦勝神社」としての「理屈」は成立しうる。だが,1945年8月の敗戦(完敗)は,戦争で生命をなくした帝国臣民が発揮していたはずの「靖国神社における《霊的な存在価値》」を,完膚なきにまで雲散霧消させた。

 それでも敗戦後になってなお,戦死者の霊を収容する宗教施設として靖国神社は運営されていった。しかし,戦前・戦中に陸海軍の管轄下にあったこの国家神道神社は,GHQによってその国営の運営形態を廃止させられ,戦後は民間の一宗教法人に組織替えした。

 ここで断わっておくが,靖国神社には「戦死者(戦没者)の遺体・遺骸・遺骨など」はいっさい収納されていない。

 ありていにいってしまえば,どこまでも〈霊〉を国家神社信仰の宗教的な価値観からのみ選択し,「再生し,利用」するのであり,それも「戦争を鼓舞し,勝利にみちびく」ために,「戦死者のその霊」を,国家が利用するための宗教施設として存在したのが,靖国神社であった。その国家神道的な本意は,明確に把持されておく必要がある。

 靖国神社のその本質は実は,現在になってもなにも変わっていない。この肝心な特質の把握を忘れたら,この神社に対するまともな議論は成立しえない。要は敗戦した国柄にはとうてい通用させえない「死者の魂の悪用」が,あの九段下の元国営神社内では,いまもなお継続させているつもりである。

 d) 戦後は,政教分離を憲法に定めたはずだが

 ◎-4 政教分離とは,戦前の反省に立ち,思想・信条の自由,信教の自由を守るための制度だ。靖国神社が国家的な施設となれば国家神道の復興につながり,そうした自由を妨げるという認識は,参拝をめぐる憲法訴訟の判決などを通じて積み上げられてきた。

 一方で,靖国参拝を宗教行為でなく,死者を尊崇する習俗としたい人たちもいる。自民党の改憲草案では,政教分離規定の条項に,習俗の範囲内での例外規定を盛りこむ。靖国参拝を許容しようとする意図も推測できる。薄れゆく国民の結束を強めようとし,攻撃的な宗教やナショナリズムに向かう潮流が世界的にみられるが,日本では国家神道復興の動きとなっている。

「議論:4」 ここで紹介されている意見については,ポツダム宣言を受諾した大日本帝国の立場に沿って考えてみなければならない。

 すなわち,昭和天皇の見地でもあるその立場なのであるが,敗戦神社になってしまったこの靖国神社は,もともと日本固有・本来の神社信仰とは完全に「異質の国家神道」に立脚した信仰体系を包していた

 敗戦はこの神社に特有の信仰内容を完全に否定した。日本側の立場からしても,またとりわけ戦勝国側の連合軍に対する日本側の関係からしても,靖国神社は間違いなく「賊軍用の敗戦神社」になった。

 この靖国神社が21世紀に居残る資格など,1945年8月からもとより,ありえなかったのである。昭和天皇はポツダム宣言を受諾して自分の天皇の地位を護ることができていた。靖国神社のことはもちろん非常に気になっていた。敗戦後においても彼はそれまでの経緯があって,あの大戦争で大勢殺してしまった「臣民将兵(赤子?)の〈霊〉」を,〈敗戦処理〉的に英霊として靖国神社に合祀するための「仕事」をこなしてきた。

 ところが,靖国神社が1978〔昭和〕年10月17日,A級戦犯の14名の〈霊〉を秘密裡に合祀した。この出来事は,昭和天皇が敗戦後に生きていくための約束事であった「必要最低限の基本条件」を,この「戦争:敗戦神社」が破ったことを意味した。

 A級戦犯は昭和天皇の身代わりであった。

 この点は,戦犯を裁いた連合国軍側があらかじめしくんで承知していたことがらであっただけでなく,昭和天皇もこの含みを十分に了解させられたうえの「敗戦後史の展開」になっていたはずだったのである。

 A級戦犯の合祀という出来事は,昭和天皇にいわせれば「これ以上超えてはならない」臨界点から飛び出ていた。敗戦後史的になんとか形成されてきた「天皇家側の宗教的秩序」に関する前提条件をぶちこわした。A級戦犯を合祀した靖国神社側の理屈にいわせれば,日本は戦争に負けたけれども,東京裁判とその結果はけっして認めないぞ,だからA級戦犯を合祀して,みかえしてやるのだと気張って,そうしていたのである。 

 しかしながら,非常に困らされてしまい,そして怒り心頭に発したのが,ほかならぬ昭和天皇自身であった。自分の戦争責任を代わりに背負って絞首刑台に昇ってくれた東條英機らは,お人好しにも死ぬまで「天皇に忠義を尽くして」くれた。それなのに,靖国神社側ときたら,わざわざ「寝た子を起こすような愚かなこと:A級戦犯合祀」をやってくれた

 だが,靖国神社側はこの関係者というか当事者の気持あるいは敗戦後的な特殊な事情などおかまいなしに,A級戦犯を合祀してしまい,自分たち側の溜飲を下げていたつもりであった。この事態の発生に「頭をかかえこんだ」のが昭和天皇自身であった。

 以後,昭和天皇は靖国神社に参拝できなくなったまま,1989年に死んだ。息子の平成天皇も孫の令和天皇も,この父の遺志を継承しており,靖国神社には,一度たりとて参拝していない。

 ちなみに,昭和天皇の墓(陵)は,八王子市に造営された武蔵野陵にある。しかし,明治神宮に相当するような〈昭和神宮〉と名づけられるかもしれない神道神社は「まだ存在しない」。そしてまた,これからも造られるみこみはないと思われる。

 『戦敗した天皇の名』をつけた神社を造るわけにはいかないというわけである。もっとも,この天皇のために戦場で死んでいった兵士たちの「怨霊」を静めるための神社であるならば,ぜひとも必要になるかもしれない。だが,それではふつうに街中にある一般神社となにも変わるところはない。「国家性や皇室性」の注入がなければ,靖国神社のような国営的神社においては,その本来狙っている存在価値がみいだせない。

 e) ただ,戦争で亡くなった兵士を悼むことは必要では

 ◎-5 戦没者への敬意を忘れてはならないし,悼む気持は多くの人が共有している。その点から安倍首相の靖国参拝を支持する人々の気持は理解できる。ただ,国家神道という歴史的な背景がある靖国神社には,深い価値をみいだす人と,逆にそれによって非常に傷つけられる人がいて,強い対立を招く構造を含んでいる。

 「誰もがわだかまりなく追悼できる施設」ということで,近年は千鳥ケ淵戦没者墓苑を公的な追悼の場だと考える内外要人も目立ってきた。

「議論:5」 この段落の説明に関しては,すでに十分関説したつもりである。要するに,靖国神社は昭和20年8月15日をもって「御用済み」の烙印が押されていた。

 日本の国民などがみな,問題なく共通した気持で,どの宗教の立場であれ,ともに戦没者を慰霊できる場所として観るとき,靖国神社は血で汚れ過ぎていたとでも形容したらよい〈霊域〉になっている。それもこれも「戦争神社の御利益」(ただし,負の・・・)。

 そもそもが「戦争向きの〈特定の霊〉」しか合祀に受けつけず,遺体・遺骸・遺骨など相手にもしないで,霊のいいとこどりだけする宗教施設が靖国神社であった。けれども,いまでは完全に「用なしの敗戦・賊軍神社」である。

 この事実を認めたくない人びとは〔A級戦犯を合祀した人物のなかには,賀屋興宣(かや・おきのり)のような元A級戦犯自身も「靖国神社側の総代」の1人としてくわわっていたが〕,靖国神社はせいぜい,敗戦後に始めた「みたままつり」に精を出していたほうが,よほど英霊のためになるかもしれない,というようなことさえ認めたくないらしい。

 2014年1月15日と1月12日の『朝日新聞』朝刊「声」欄に,このような2つの意見が投書されていた。このうち1月12日の意見は,A級戦犯のかかわりのみを理由・根拠とする「偏った」議論の問題性を的確に指摘している。

 ▲-1 2014年1月15日(古谷 博 無職,東京都 77歳)

 〔安倍晋三〕首相は「戦争で倒れた英霊の魂を安んじる場」としての靖国神社にこだわるが,そもそも戦死者は本当に靖国に祀られることを願ったのだろうか。

 ニューギニア戦線に送られた私の叔父は,九死に一生をえて帰還した戦友によると,弾丸一発撃つこともなく,密林をさまよい蛇やトカゲを捕食する日々の後,結局は餓死したという。

 「靖国で会おう」などの甘言のもとで理不尽な死を強いられたのだ。叔父の遺族は靖国神社には一度も参拝していない。

 ▲-2 2014年1月12日(守谷通文 無職,埼玉県 62歳)。

  ポツダム宣言に「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」と記されていること,日本国が「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」という条項も含むサンフランシスコ講和条約を締結したこ となどをしる者は少数派であろう。

 靖国神社はこれらの事実や原則に反して他民族に仕掛けた戦争を肯定し,戦争指導者も祀る宗教法人だ。信教の自由は当然でも政府要人が平和を祈る対象にはなりえない。国際社会で生き抜くには自国にかかわる正しい歴史認識は不可欠だ。調査結果はその重要性を日本社会に教えている。  

『朝日新聞』投書欄から引用

 さらにつぎの引用は,フランク・ギブニイ『日本の五人の紳士』(石川欣一訳,毎日新聞社,1953〔昭和28)年からである。この靖国神社「理解」は間違いではない。現在的においてもまっとうな歴史認識である。平和という言葉を,いまさらのようにこの靖国神社に対して,無理やりにあるいはご都合主義的に差し向けてこじつける弁護論は,歴史のあやしい解釈,まやかし的な宗教の説明である。

 靖国は……宗教的な記念堂であり,字義どおりの「戦死者の殿堂」であったのだ。これは軍国主義神道の地上の天国であった。……天皇の戦いは聖戦であり, 勝利のために身をささげたもの--神道の定義によれば日本の戦いは敗戦に終ることはありえないのだが--は殺された聖人となるわけである。
 註記)フランク・ギブニイ,石川欣一訳『日本の五人の紳士』毎日新聞社,昭和28年,115頁。 

フランク・ギブニイ

 そのありえないことが起きていた。1945年8月15日の敗戦。ただし,その後においても,ありえないことがつぎつぎと起きていくような,そういった「敗戦後史における靖国神社」の推移が記録されてきた。

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