日本本土大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイ将軍だけが鬼畜であったのではなく,此奴と勲章交換ごっこをした源田 実も同類
※-1 1945年3月10日東京下町大空襲と2011年3月11日東電福島第1原発事故の記憶-2024年3月11日にこの記述を更新・改訂するにあたり記す前文-
今日は2024年3月11日,東電福島第1原発事故が発生してその後始末のうち「原子炉に限って」いえば,まだ99%以上,まだなにも終わっておらず,つまり,今後において非常に高度に技術的な困難を抱えている現場の状況にあることに関してならば,いまどきは,世間一般においても周知の事実になっている。
さて,その3月11日の1日前の3月10日は,1945年におけるその日付での話をすると,こういう歴史の記録があった。この敗戦した年は,8月まで経たないと戦争を終結されえなかった。そのために戦時中の重大事件のひとつとしてだが,東京下町への大空襲があって,その犠牲者は10万人近くにもなっていた。
1945年3月10日未明から始まった東京の下町への大空襲は,米軍のB29爆撃機の大群が,それも低空を目視しながらいいように飛びまわり,しかも当初から絨毯爆撃をおこなう作戦でもって,主に民間人として殺しまくるほかない軍事的な行為をおこなった。
その米軍による日本本土大空襲作戦を指揮したのは,米軍のカーチス・ルメイ将軍であった。この正真正銘の本当に「鬼畜鬼畜の最大の見本」であったルメイは,敗戦後史において日本政府からなんと最高位に近い勲章を授与されていた。日本は,自国の叙勲にまつわる歴史の記録において,ある種の醜態を平然と演じたわけである。
ところで源田 実は,敗戦後に復活した日本の軍隊のうち航空自衛隊のななかで,初代航空総隊司令ならびに第3代航空幕僚長を務め,ブルーインパルスを創設したりもしていた。敗戦後,それ以前とはすっかり様変わりした日米軍事同盟関係を足場・背景にしてこんどは,源田がアメリカ政府から勲章を授与されるという名誉に預かった。
まさしく「一将功成りて万骨枯る」の “米日同時共演劇” が実現していたことになる。
源田 実は敗戦後,ともかく「航空自衛隊の育ての親」の役割を果たしたと説明されている。けれども,この源田自身はその前歴として,太平洋戦争の幕開けとなった旧大日本帝国海軍による真珠湾攻撃にさいし,その作戦立案の中心人物になっていた。この事実は,太平洋戦争史のなかで大きな意味を発揮したことは,誰しも認めている。
なかんずく,「ルメイの彼奴」と「みのるの此奴」とは,敗戦後の米日軍事関係史のなかで「勲章交換ごっこ」までしえた昵懇の間柄になっていた。
だがもしも,靖国神社が本当に,あの戦争の犠牲者となった多くの軍人たちの死霊が英霊として集結している場所になっているのであれば,この「彼らの目線から観た」ところの「カーチス・ルメイという鬼畜米英の将官」,そして「日本軍側において同じく将官になっていた源田 実」の2人が,どのように映るほかなかったかについては,想像に難くないはずである。
いうまでもないが,1945年以降「米日間に通底しあい存在しつづけた,つまり国籍の所属を問わない鬼畜たちの間柄」だと位置づけたうえで,この2人の軍人を憎称した者がいたとしても,これに対して返せることばは,誰にも・なにもなかったのである。
以上,本日:2024年3月11日においてこの「前書き」に当たる文章を書いてみた。次項の※-2からは,2016年3月10日に最初に書き,つぎに2020年3月9に改訂していた本論部分を,復活させることになる。もちろん,補訂や追論もいくらかなされている。
【本日:2024年3月11日の時点で挙げてみる参考記事】
※-2 鬼畜「米英」ならぬ鬼畜「米日」の元日本軍人-東京下町大空襲から71年目の3月10日に思ったこと-
以下に記述する文章の要点をさきに挙げておきたい。
要点:1 鬼畜は米英側にいただけでなく,日本側にも実際はいたという真実,その本当の話
要点:2 カーチス・ルメイと源田 実との「いい気な勲章交換ゴッコ」の醜悪さ
1)「〈声〉忘れてならぬ,3・10 と3・11」『朝日新聞』2016年3月9日朝刊
いまごろの時節になると,とくに『朝日新聞』朝刊の「声」欄〔この欄だけではないが〕には,1945年3月10日の「東京下町大空襲」を話題にする,というがライフワークにしてきた作家,早乙女勝元(東京都;83歳,2016年当時)の文章が頻繁に,いわば恒例的に登場する。
筆者のスクラップには,早乙女勝元に関連する資料がたくさん集められている。今年(2016年)においては,3月10日の1日前の9日になっていたが,早乙女が今年もその「声」欄投書し,採用されていた。つぎの文章である。
1945年の「3・10」は,戦争の時代に〈臣民の側〉に向けて降り注がれた戦争行為の顛末=惨禍であった。これに対して2011年の「3・11」は,平和な時代に〈国民の側〉を襲った営利行為の顛末,その害悪・猛威であった。
換言するならば,前者は,戦争行為として市民を無差別に殺戮する米軍の大残虐事件であった。後者は,日本国原子力村(主役は東京電力を中心とした原子力村)が起こした原発大事故であり,こちらの場合では,風向きにしたがい国民(地域社会と住民)を無差別に「攻撃し破壊する」放射性物質を放出させた大惨事であった。
2) カーチス・ルメイと源田 実
つぎに紹介するのは,『朝日新聞』2011年3月11日朝刊の「声」欄に掲載された「会社員伊藤 晋」の投稿である。
戦争中,大日本帝国側の忠良なる臣民たちは,敵国側の鬼畜米英を相手に聖戦をおこなっていると信じさせられていた。つぎのような戦争督戦用の標語もあった。ともかく “聖戦だった” というのが核心。
♥-1 遂げよ聖戦 興せよ東亜
♥-2 聖戦へ 民一億の体当たり 聖戦だ 己殺して国生かせ
♥-3 一億抜刀 米英打倒
ところが,戦争も末期の段階になると,この日本帝国の人びとを都市ごとに焼きつくし,皆殺しにする空襲作戦(絨毯爆撃)が,そのカーチス・ルメイによって考案され,実際に実行されていた。
ただし,東京下町への大空襲(1945年3月9日未明から10日)だけがその殺戮作戦の攻撃目標ではなく,日本全国の各地方都市までも実際に空襲を受け,大損害を被っていた。
さて,ここで関連する問題に触れる。前段の「前文」などにはすでに,源田 実という姓名が出ていた。この旧大日本帝国海軍の戦闘機乗りで,敗戦後は航空自衛隊の幹部にもなり,政治家に転身したこの人物は,その後における「現存在的なあり方」つまり「自分の生き方」として,非常に大きな問題をかかえていた。
源田 実(1904年8月~1989年8月)は,海軍兵学校を出た旧日本海軍の軍人であり,戦闘機搭乗員として戦歴を開始していた。
この源田は,太平洋戦争の幕開けとなった真珠湾攻撃においては,みずからが「真珠湾攻撃は私の海軍士官生活における最頂点であった」と語っているほど,当時に関しては輝かしい履歴の持主であった。
戦争中において源田の最終階級は大佐で,航空参謀も歴任し,第343海軍航空隊司令まで務めた。その地位の関係もあって,戦死する可能性の高い戦場には直接出撃していなかった。源田はそうして戦争中を生きのびた。敗戦後は,航空自衛隊に入隊する。
航空自衛隊では,初代航空総隊司令,第3代航空幕僚長を務め,ブルーインパルスを創設した。いわば,航空自衛隊の育ての親であった。さらに政治家に転身したからは,参議院議員を4期24年務めた。赤十字飛行隊の初代飛行隊長も務めた。
※-3 軍人同士の仲間意識-軍人の理屈は庶民の感情・立場などは平然と無視・黙殺する-
敗戦後,航空自衛隊の幹部になった源田 実は,「3・10」の東京下町大空襲をはじめとする,日本本土空襲作戦の総指揮者であったカーチス・ルメイとは,つぎのような因縁をもっていた。
1964年に実現した「カーチス・ルメイへの叙勲」を推薦したのは,旧大日本帝国海軍大佐まで昇りつめ,太平洋戦争を開戦するさいに敢行された真珠湾奇襲作戦を立案してもいた,ほかならぬこの源田 実であった。
この源田はさらに敗戦後も,航空自衛隊の初代航空総隊司令や第3代航空幕僚長を務めただけでなく,退役後は自民党の参議院議員「源田 実」となって,政治家に変身してもいた。
自民党における源田 実の立場は,族議員として観察するとに「国防族の指導者」であった。前段においても姓名の上っていた当時の防衛庁長官「小泉純也」(小泉純一郎元首相の父)も,源田の意見に同調し,カーチス・ルメイ叙勲に力を貸すことになっていた。
源田 実の,カーチス・ルメイに勲章を授与するよう日本政府に対して推薦した事由が,振るっていた。敗戦後において,日本の自衛隊:「航空自衛隊の育成」に多大な貢献をしてくれた米国軍人であったというのが,その推挙する理由だったのである。
しかし,そこには看過できない事実が潜んでいた。つまり「かつては敵同士であった日米軍人」間の,きわめて身勝手で野合的ともいえる〈友情の交換〉が隠されていた。というのは,カーチス・ルメイが勲章を授与される2年前の1962年のことであったが,源田 実がさきに,アメリカから「勲功章」を授与されていたのである。
源田 実は,自身に対するアメリカ側からの授与に対する返礼の意味をこめて,カーチス・ルメイへの叙勲を,自国・政府側に要請したわけである。こういった軍人同士間における自作自演的な,いわば身内的な〈相互の勲章授与行為〉が演じられていた。
はたして,真珠湾奇襲作戦の立案者である源田 実にアメリカ側が勲章を授与した事実は,真珠湾攻撃について,アメリカ側が「過去の出来事」として終わりにする意思表示とみなせるのか,といった問題点とは別個のものであった。
しかし,それらの記録はあくまで,軍人同士の恣意にもとづいた,それも彼らの気分にだけかたよった〈決着の意識〉保持に過ぎず,庶民次元における「和解の実現」とはまったく別次元・無関係の〈勲章授与ゴッコ〉であった。
【参照記事】-ルメイと源田の写真や勲章の画像などは,こちらの文章を参照してほしい-
日本政府が1964年,カーチス・ルメイに勲章を授与したのだから,東京大空襲に対する日本側の意識はすでに終わった出来事にして済ませるはずだ,といった意味あいはありえない。
日本の国民・市民・住民・庶民の立場・意識からすれば,まだなにも決済がついていない〈戦争の時代における歴史の事実:残虐行為〉のひとつが,東京大空襲という〈戦争犯罪に相当する米軍:ルメイが指揮した軍事行動〉であった。
ところが,軍人同士間の意識にあってだけは,かつて「自分たちが活躍してきた」戦争の記憶に対する始末=決着を,たがいに済ましえた気持になれていた。彼らのあいだでのみ意味を発揮しうるような合意形成が,勲章を交換しあう行為によって構築させえたつもりでいる。
※-4 軍隊(それも高級軍人たち)の非人道的・反道徳的なド屁理屈
『日本経済新聞』2014年3月10日朝刊1面「春秋」のなかには,こういう記述があった。
1945年3月10日の東京大空襲のとき,政府の方針で疎開先から戻された子供たちも大勢死んでいたが,話はその前年に戻る。10万人以上の死者は,その前年に東京の防衛に責任をもつ陸軍中将が予測していた。この中将は論文のなかで,東京の人口は700万人であるが,「十万人死んだところで東京は潰れない」と豪語したのである。
これは,軍隊組織の将兵のみならず帝国臣民すべてもが,戦争に向かって戦うべき皆兵であるといった認識,つまり「軍隊・軍人の論理・理屈」をもって,国民の総員を〈人的資源〉として消耗品扱いする発言であった。
もっとも,旧大日本帝国の場合,皇居と赤坂の住人にかぎっての話になるが,米軍の無差別絨毯爆撃を受け,天皇をはじめ皇族たちに死者が出るようなことは,絶対に認められない最低条件であった。
2024年3月11日補注) 現在進行中の「プーチンのロシアによるウクライナ侵略戦争」のなかでは,プーチンは自国民,それもとくにスラブ系白人種以外の自国民のことを,まったく人間あつかいしていない。戦場ではウクライナ軍の犠牲になる「彼らの命」は,かつての旧大日本帝国が兵士たちのことを「一銭五輪」とみなした感覚(ホンネ)とまったく同じである。
昔の太平洋戦争といまの「宇露戦争」を対照させるとしたら浮上するほかない人物像は,「ウラジミール・プーチン」対「昭和天皇・裕仁」という組みあわせである。
〔本文に戻る→〕 早乙女勝元は2013年5月14日の『朝日新聞』朝刊「声」欄には,以下の文章ではじまる一文,題名は「空襲被害者援護法の制定急げ」を投稿していた。その前半部分を引用する。
この発言に「カーチス・ルメイ ⇔ 源田 実」間の「勲章交換ゴッコ」という事実を対置して考えてみればよい。その好対照(悪比較)に怒りを感じない者はいない。
早乙女勝元からこのように表明された意見に対して,わざわざ逆方向からの怒りを感じる者は,おそらくルメイや源田のような軍人しかいない。彼らは,敗戦前もその以後もエリートの高級軍人でありつづけてきたせいか,庶民の感情を逆なでするような行為を平気でおこなえる。
※-5 日本国は,帝国臣民が空襲で殺されていても,殺したほうの鬼畜米英側の将軍に勲章を授与していた
昨年(ここでは2015年)3月10日の『朝日新聞』朝刊「社説」は,こう論じていた。 後半の段落から引用する。
軍人恩給や軍属援護はあっても,空襲の被害を受けた国民はその支給・救援の対象にはなっていない。ところが,軍人恩給をもらえる者たち,それも元高級軍人が,おまけに「米日〔敵と味方であった〕の彼ら」⇒「ルメイ朝日新聞2011年10月18日夕刊 be5面と源田」のような人間同士が,
あの大戦争を自分たちだけはうまく生き抜いてきたのち,平和な時代(とくに日本に関する事情のこと)になってから「勲章の交換授与ゴッコ」をやっていた。いい気なものである。
早乙女勝元(1932~2022年)は,東京大空襲などの問題に関して多くの関連する活動をおこなってきた。自身が空襲の体験者でもあり,その怨念と執念は,一生をかけて「ルメイや源田のような軍人たちを許さない」ための執筆などをおこないつづける基本の動機になっていた。
本ブログ筆者も身内には,1945年3月10日未明からの東京下町大空襲では被害(被災)者になって負傷した者がいる。運良く命はとられなかったものの,その時の実体験は,とくに母親からはなんどか聞かされたが,それはまるで “DVDを視聴するかのようにして彼女が語る惨劇” になっていた。
※-6 以上をまとめるための議論
かつて大東亜戦争にまで突きすすんでいった大日本帝国は,鬼畜だとどぎつく蔑称した米英軍などからなる敵軍に敗北してしまった。しかし,戦争中には,こんなにも勇ましい軍歌があった。
だが,敗戦後は,このマッカーサー元帥が「日本を支配する帝王」になっていた。結局,逆落としにされたのは,日本帝国のほうであった。鬼畜米英の1人(1匹!?)であったはずの敵国側の元帥が,敗戦を境にその姿をすっかり変えて,日本国民たちの目前に登場した。
この元帥が,それまでは,帝国日本において卓越した地位:生き神様の位置を占めていた「大元帥:天皇陛下」よりも,さらにエライ人物となっていきなり登場したのである。
今日問題にとりあげたカーチス・ルメイも,敗戦前であれば,「いざ来いニミッツ マッカーサー」などの,とても悪い仲間の1人であったはずである。
いいかえれば,「ルメイ」よ「出て来りゃ地獄へ 逆落とし」と口撃される相手であったのである。なせに,ミニッツやマッカーサーと同じにルメイも〈鬼畜〉であったのだから……。
それでも「鬼畜の〔国の〕元帥・将軍たち」は,敗戦後になるといつのまにか,日本国における帝王とみまがうかのような軍人に変身させられ,再登場していた。
本来であれば,あくまで「鬼畜である彼らの評価じたい」に関してだが,「逆さ落とし」ならぬ「神棚上げ」となったごときに,劇的な変化が現われたのである。
とくに早乙女勝元のように,感受性豊かな少年時代を,旧大日本帝国臣民の1人:少国民として生き,東京下町大空襲にも遭遇した人間としては,いまもなおルメイは《鬼畜》と呼ぶにふさわしい「アメリカ国の一将軍」でありつづけていた。
ところが,敗戦後になってから米日の高級軍人同士であるカーチス・ルメイと源田 実とが,こそこそ〔堂々?〕とおたがいに「勲章交換ゴッコ」を演じていた。このような彼らの「戦後的な営み」をみせつけられた,東京下町大空襲で家族や知人たちを殺された者たちが,怒らないでいられるわけがなかった。
要は《鬼畜》という表現は,ルメイと源田の両名に共通する形容として,たいそうふさわしいものである。そう断定されて当然であり,なにもおかしくない「歴史的・論理的な経緯・事情」が,確かに記録されていた。
歴史を根本のところから回顧していえば,大日本帝国のなかでは,もっとも・一番大きな戦争責任をかかえていた人間がいた。
GHQ(アメリカ)は,占領政策の都合上,昭和天皇の戦争責任問題を免責していた。つまり,大東亜・太平洋戦争に淵源する無限責任のひとかけらも背負わずに済んでいたのが,昭和天皇の敗戦後であった。
だが,この人にしてさえ,さすがに,アメリカの「この鬼畜:カーチス・ルメイ」に対して「手ずから勲章を授ける行為」からは逃げていた。
本来であれば,この鬼畜だったアメリカの空将に対してであっても,高位の勲章である「勲一等旭日章を天皇みずから授与するのは」,憲法に規定された天皇の「国事行為の一環」であったはずである。「勲一等の授与は天皇が直接手渡す “親授” が通例である」からであった。
ところが,昭和天皇はルメイのときは,この親授するための仕事を回避した 。天皇裕仁はきっと「ルメイの顔をみる」ことですら,よほど嫌だったに違いない。なにせ「自分のために存在していた赤子たち」を大量に殺戮してきた敵国の将軍であったから……。
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