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畑村洋太郎失敗学の「記事」を再見し,あらためて吟味しつつ批判する

 1) 2023年8月18日『日本経済新聞』朝刊36面「社会」に,畑村洋太郎元東大工学部教授のインタビュー記事が掲載されていた。 まず,その記事の現物画面を画像にして紹介する。活字でも以下に引用しつつ議論する。

畑村洋太郎は原発事故にも
「良い失敗」がありうると
本気で考えられるか?

 この記述は「失敗学が失敗する必然性」を議論している。しかも,この1点は,揺るぎのない基本線として論及されている。

      ★ 突破口を開く 「良い失敗」した人ほめよ ★

 日本の教育は物事に必らずひとつの正解があると考え,それを効率的にうることを重視する「正解主義」に染まってきた。失敗を創造につなげる「失敗学」の提唱者としてしられる畑村洋太郎・東京大名誉教授は,社会全体が「失敗」と「正解」に関する考え方を変えるべきだと主張する。

 この出だしの文章を書いていた日経の担当記者は,本ブログ内で筆者が下記の記述をしていたけれども,おそらく読んでもらってはいない。以前の「旧ブログ」内でも,畑村洋太郎「失敗学」の失敗「性」については,くどいくらい議論し,もちろん根本からの批判をくわえてみた。

 「畑村洋太郎『失敗学』の視座から原発事故を分析する問題(1)(2)(3)」2023年2月27日,3月1日・2日がその論稿であった。

 畑村洋太郎の創説になる『失敗学』は,原発問題としての失敗をとりあげたかぎりでは,実は「大失敗」を犯していたのである。

 まず『日本経済新聞』のこのインタビュー記事は,畑村のことをつぎのように人物紹介していた。

「はたむら・ようたろう」は1941年生まれ,工学博士。東京電力福島第1原子力発電所事故で政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた。『新失敗学』など著書多数。

畑村洋太郎作成の図表であるが
原発をここに記入したことじたい
過誤を犯したことになった

 本ブログは,畑村洋太郎「失敗学」の失敗性たるゆえん,つまりその理論の「構想倒れ」を指摘している。よりくわしくは,本ブログ内の前記3編を参照してほしいが,本日はこの記述なりに再度,その「失敗学」がなぜ「失敗していた」のか,あらためて説明することになる。

 2) 以下で,◆は記者(聞き手・中丸亮夫),◇は畑村洋太郎である。そして,★以下は本ブログ筆者の批評となる。

 ◆ 失敗には「良い失敗」と「悪い失敗」があるそうですね。違いは。

 ◇「悪い失敗は手抜きや不注意に基づく失敗で,これは経験する必要がない。良い失敗は人の成長に必要な失敗だ」

 「新しい価値の創造には仮説を立て,検証することの繰り返しが必要で,それは良い失敗と表裏一体だ」

 ★ この「悪い失敗」と「良い失敗」の分別は,一見とても理にも情にもかなった人間行動の結果に対する評価方法に思える。だが,この点は一般論「的」にはもっともらしいリクツであっても,ことが「原発の問題」の領域で具体的に考えるとなれば,末恐ろしい結果を覚悟させられる。

 アメリカで起きたスリーマイル島原発事故(1979年3月),旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故(1986年4月),この日本で起きた東電福島第1原発事故(2011年3月)は,いずれも大事故であり,とくに後者の2つの事故が地球環境そのものをとりかえしがつかないほどに破壊した。

国際原子力事象評価尺度

 「悪い失敗」と「良い失敗」の区別は,上の図表のごときのその分類の程度によって区分されるわけではない。とくに,この原発の事故そのものは,「ほかのあらゆる事故全般」とは基本から決定的・質的に異なる特徴を有していた。それは非常に危険で有害な放射性物質が周囲の環境に放出され,その悪影響が何世紀にもわたり残りつづける点である。

 原発事故が周囲の環境をいかほどにまで深刻・重大な被害に与えるかという問題は,原発の事故がほかのあらゆる種類の事故とは明確な一線を引いて理解する必要がある点を教えていた。

 3) チェルノブイリ原発事故の現場・周辺地域はいま,どうなっているか? 東電福島第1原発事故の現場・周辺地域は,事後の処理がなされてきたものの,そこにはごまかし的な緩和策をともなっており,大事故の発生そのものの事実を極少化(矮小化・骨抜き・忘却)するための糊塗ばかりに,熱心であった。

 放射性物質の排出は,チェルノブイリ原発事故に比較して東電福島第1原発事故のほうがだいぶ少なめであったかのように「あえて強調する専門家の指摘」もいた。

 だが,前者の場合は,周囲の全方向が陸地であったのに対して,後者の場合は,東側が太平洋に面していたために,こちらの方面に大量に排出してしまった放射性物質の総量の8割近くは,海洋に向けて発散された。

安全神話が本物ならば東京都の真ん中にでも
原発を作ればよいと提言した者がいた
しかし日本の原発は地方にばかり立地している

 エィミ・ツジモト『隠されたトモダチ作戦-ミナト / ヨコスカ / サン・ディエゴ』えにし書房,2023年5月は,つぎのような宣伝用の文章をもって説明されている。

 3・11東日本大震災における米軍の「トモダチ作戦」に参加した兵士たちは,フクシマ原発事故によって被曝くしていた! 被曝による健康被害に苦しむ彼らは東京電力等に対して裁判を起こしたが,公訴はむなしく棄却される。

 その背後にあった不都合な真実を,膨大な資料と緻密な取材によって明らかにする問題作。被害を訴える元米兵らを支援する「小泉基金」を創設した小泉純一郎元首相によるインタビューほか,図版・資料も多数収録。

エィミ・ツジモト『隠されたトモダチ作戦』

 どうして,このような本が公刊されるに至ったのかといえば,「トモダチ作戦」に動員された米兵たちは,その8割近くが太平洋に向けて吹き流された放射性物質に被曝した事実,「その後」に発生しだし問題に注目するためであった。

 この「トモダチ作戦」は,軍事力が災害救助に差し向けられた事例として,つぎのように解説されている。2011年内に記述された説明である。

 2011年3月11日に起こった東日本大震災にさいして,米軍がおこなった災害救援活動の作戦名。4軍〔陸海空軍と海兵隊〕の統合作戦として,作戦司令部を東京都の横田空軍基地に置き,各地の在日米軍基地が活用された。他に原子力空母ロナルド・レーガンなども投入され,ピーク時には2万人近い人員を動員して展開された。

地震や原発事故による激甚災害を前に,円滑に進まない救援活動のなかで本作戦が果たした役割は大きい。ヘリコプターによる孤立した被災者の救助や,揚陸艇による孤立した島への救援物資の輸送などの,迅速で強力な活動によって,その力を示し活躍を印象付けた。

 これらに対して,北沢俊美防衛大臣は「米軍に感謝と称賛を申し上げたい。いまほど米国が同盟国であったことを頼もしく,誇りに思う時はない」と謝意を表明した。日本側の自助努力による復旧の進展から,4月中旬には米軍は艦艇など主要部隊を撤収し,今後は原発事故対応やインフラ復旧に支援活動の重点を移して協力態勢を継続していく方針である。

『トモダチ作戦』の概要

 小泉純一郎元首相の氏名が前段に登場していたが,この小泉が原発問題に対して「3・11」以後,廃絶を主張する立場を採り,いままで行動してきた点は周知のとおりである。

 4) さて,畑村洋太郎「失敗学」に問う。

 東電福島第1原発事故の発生は「悪い失敗」と「良い失敗」を区別する基準で識別すると(できるとしたら),そのどちらになるか?

 原発の事故そのものはだいたいにおいて,その失敗の性質いかんにかかわらず,もとから「悪い失敗」ではないのか?

 「良い失敗」をもちだす余地など寸分もない,という具合に理解するのが,まっとうな原発事故「失敗・観」ではないのか?

原発が先進国中心に利用されている事実が
みやすく描かれている

 仮にである,またもや東電福島第1原発事故に匹敵するごとき原発の事故が,世界中に立地するどこかの原発で起きたとしたら,これを「良い失敗」と「悪い失敗」という二項対立的な概念把握で,その事態の意味を捕捉することが,はたして工学的な技術観としてだが,そもそも許されるのか?

 旅客機の墜落事故に関しても,前段のようにいっておかねばならない「事故という現象」を把握するさいし,できればしかと踏まえておくべき人文科学的な概念規定の価値判断的な問題要因が,畑村洋太郎の「失敗学」談からは,学問の範疇としてその関与がうかがえない。

 旅客機の事例は,現実に多くの墜落事故などが発生しており,そうなると「悪い失敗」と「良い失敗」の識別が,その後の事故防止対策のために必要不可欠な認識問題になりうるかもしれない。

 だが,原発の事故を旅客機の次元と同じにとりあつかうことは,工学的な思考方式の問題以前に,理学的と医学的な問題ともかかわり,「その〈良い〉とか〈悪い〉とかの区別」を許さない,事故そのものの本来的な技術特性があった

 5) 以上のごとくに指摘・説明しただけでも,畑村洋太郎「失敗学」が提唱されたところで,これを原発事故の問題領域にまで拡延させ応用することは,根源的に疑われて当然であった。

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 ◆ 日本はこの30年間,成長率が低迷しイノベーションが停滞しています。根底には良い失敗の欠如がありそうです。教育とも深く関係しますね。

 ◇「そうだ。習うとはまねをすることだ。日本は古代から1千年以上,中国や西欧の立派なものを学び取り,自分のものにするのが最善という考えでやってきた。正解を吸収することが学びで,それを効率的にできる人が賢いと考える『優等生文化』が成立した」

 ◆ 入試がそうです。

 ◇「高度経済成長期はそれで一見うまくいった。コピーの量産が教育の基本理念になってしまった。本当は自分なりに考えて『我を出していくこと』が一番大事なのに。自分の考えを外に主張し,やりとりをするなかで考えをより豊かにするディベートのような経験をしてこなかった」

 「日本の教育は子どもに創造性を育む視点が欠けたままだ。創造性を刺激された経験のない人が教壇に立っている」

 ★ 畑村洋太郎流になる『失敗学』の構想は,その創造性の面で拡げて考えてみるに,いったいこの原発にまで適用可能であったかどうか,畑村は自身で掘り下げて再考したことはないのか?

 本ブログ筆者は,旧ブログのなかでは前掲した3編の内容じたいは,だいぶ以前から公表してあった。畑村洋太郎は筆者の指摘・批判など痛くもかゆくもないのか分からぬが,

 失敗など許されない,とりわけ大事故など絶対に起こしてはならない原発が,いま地球上にはすでに2021年1月1日現在,世界の「運転中」の原子力発電所は434基あった。

 ◇「西欧の先達は大変な努力をして犠牲を払い,失敗を積み重ねてそれだけのものをつくってきた。効率主義だとそれをまねすればよいとなる。考えてみると傲慢な姿勢ではないか。学べば自分のものにできるという明治維新以来の勘違いに気づかずにきたツケが,いま回って来ている」

 ★ 原発の事故はこの思考に即して考えると,はたしてどのように表現できるのか?

 ◆ どうすべきですか。

 ◇「簡単に答えが出る問題ではない。まずは現実の事象を自分で観察し,その構成要素がなにで,それがどう変わっていくかという知識を自分でつくりだすしかない。私は現地・現物・現人の『三現』といっている。現地に足を運び,現物をみて,人の話を聞いたり議論したりして学ぶ」

 「本当の正解は仮説・実行の繰り返しを経てつくるものだ。仮説の精度を上げるには基礎的な知識が必要だし,それには三現が役に立つ。失敗確率を下げるため,失敗経験を皆で共有しあう必要もある」

 ★ 原発の事故をめぐりこの「三現」主義の適用は相当に困難である。大事故はさておき,中小の事故が世界各国の原発で起きているはずだが,畑村洋太郎の手元にそれら事故の一覧が,分析を可能にするほど入手できるとは思えない。

 ものがものだけに,さすが原発をめぐる事故原因の,それも大事故のそれから「良い失敗」と「悪い失敗」を議論する立場は,ほかのあらゆる事故=失敗の事例とは異質の度合が過ぎていた。

 ◇「問題は社会全体の考え方にあり,教育はその結果だ。良い失敗をした人をほめる文化を広げることが極めて重要になっている」

 ★ 原発の問題も日本の政治・経済・社会のありようと密接に関連している。東電福島第1原発事故後には,医学者である大学教授が福島県罹災者たちに向かい,「ニコニコしている人には放射能は来ない」といったふうな,ただの一時しのぎでしかない,非科学的の「有名な発言」を残した。

 山下俊一がその人物であったが,あとで「緊張を解くためだった」と釈明した。けれども,学者というには似非の度合がひどい人物であった事実を,みずから披露していたことになる。

 6) 結論。原発は失敗学に対して,適用が可能な理論上の枠組を提供できるのか? 無理であったし,これからも同様である。失敗学から原発だけは除外したほうが無難である。

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