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建国記念日「2月11日」は1966年に制定・施行された「日本の建国を祝う」ための年次祝休日だが,その歴史の真義はいかに,三笠宮の紀元節批判(1957年)もあった

 #建国記念の日  #神武天皇  #昭和天皇  #休日が増えた  #三笠宮  

 

 ※-1 2023年も2月11日に「建国記念の日」という「国民の祝日」が来ていた。

 ただし,今年のその日は土曜日に当たっていたせいか,とくに会社勤めなどの人たちにはそれほどありがたさ感じられなかったかもしれない。

 またご時世のせいか,この「国民の祝日」としての「建国記念の日」は,つまり,日本という国が生誕したことをお祝いする日だと決められているけれども,世間ではそれほど大々的に記念行事がなされたようには感じられなかったという印象をもった。

 そこで,本日のこの記述は,「2月11日」が国民の祝日に指定されている由来などを,「三笠宮の紀元節批判(1957年)」という話題にからめて,あれこれ吟味する議論をおこないたい。

 あたかも天皇家の所有物みたいにも映るこの「日出ずる国」は,21世紀にはいってからというもの,極右的自民党と創価学会公明党の野合連合政府のために,このところはすっかり「日落つる国」の様相を醸し出しているから,なにかわびしい心情を抱かされる。

 とりわけ2010年代,民主党政権のあとを引きついだ安倍晋三の第2次政権は,この2023年になってみればより明々白々になった事実だが,この「美しい国」であるはずのニッポンをすっかりダメにしたというか,破壊しまくってきた。

 2020年はコロナ禍(新型コロナウイルスの感染が急激に拡大)し,日本の社会は一挙に萎縮されられ,翌年2021年は1年延期した東京オリンピックを,そのコロナ禍が以前進行中である状況のなかで無理やり強行した。さらに2022年になると「ロシアのプーチン」がウクライナ侵略戦争を開始し,国際政治と国際経済はエネルギ資源需給面から混乱を余儀なくされていた。

 本日の標題との関係で,こういう話題をさきに出しておきたい。2023年2月12日,中野晃一が発信していたツイート( 4:03 PM · Feb 12, 2023,https://twitter.com/knakano1970/status/1624665451929423877 )で言及されていた「別のツイート  naoko 」の発言2点,これをツイートの画面を画像で紹介してみたい。

 以上,2点示した画像のうち下の画像のなかには,水色の四角枠内に記入したドス赤の文字が加筆されているが,これは本ブログ筆者の「感想」である。
 
 まともな先進国であればこのような情報発信は,たちまち「世間から批判の十字砲火を浴びて」「撃滅・破砕される対象」にしかなりえないはずである。

 だが,さすがにこの国ではこのような未知数 120%くらいの「世襲政治屋の4代目ボンボン」であっても,いまから「ボクは当選確実なんだよ!」といったも同然に,なんとも余裕しゃくしゃくの表情をにこやかに浮かべている。

 安倍晋三による2010年代「ポンコツ政治」もとうとう,ここに極まったという所感すらある。岸信千世はシンゾウの「男系方の甥」。

 他方で,現在の首相岸田文雄が自分の息子を,この先にあるかもしれない「世襲政治屋4代目のオボッチャマのお披露目が来る日」を意識してなのか,すでに首相秘書官に採用していた。

 この国のなかでいまだに,身内主義・縁故主義(ネポティズム)の内政が,そのようにまかり通っている。このままでは,この21世紀における日本の今後は,さらに政治面での腐朽・退廃,経済面での凋落・沈下が必至であると覚悟しておく必要である。   

 

 ※-2 本日の本論はこう問題を設定してみる。建国記念日がなぜ2月11日であるのか,依然,謎のままの歴史問題であった。つまり,天皇家の架空先祖が国民の祝日となるべき歴史科学的な根拠・理由がみつからない。

 日本古代史全般にまつわる曖昧模糊性,いいかえれば,その神話的な物語にかかわる問題は,歴史科学の視座に対峙させてより実証的に議論する努力が必要不可欠である。

 ここでの話題をやや世俗的な関心事に近づけて詮索してみる。たとえば,日本の祝日は今後「何日」分が増えていくのか,その可能性に関して考えてみるのは,労働者・サラリーマンたちにとっては一興であるに違いない。

 こういうことである。

 昭和天皇の誕生日(4月29日)は国民の祝日として残っている。だが,平成天皇の誕生日(12月23日)はそうではない。現在,上皇の立場にいる明仁の息子である天皇徳仁(の誕生日:2月23日)は現在,国民の祝日に指定されている。

 その「祖父:裕仁⇒父:明仁⇒孫:徳仁」の相互の関連性は,祖父の誕生日は「国民の祝日」として残っているのに,父の誕生日はそうではない。この点は誰かがどこかで決めていたはずである。

 内閣府の説明によれば,こういう記述になっていた。

          ◇ 天皇誕生日 2月23日 ◇
 天皇の誕生日を祝う。「天皇誕生日」は、昭和23〔1948〕年の祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日です。
 制定当初の「天皇誕生日」は,昭和天皇の誕生日である4月29日でした。皇位継承に伴い,平成元〔1989〕年2月に祝日法が改正され,12月23日に改められました。
 また,先のお代替わりの際には,天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29〔2017〕年法律第63号)の附則によって祝日法が改正され,現在の2月23日になりました(令和元年5月1日施行)。 

注記)「各『国民の祝日』について」『内閣府ホームページ』https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#tennou

 さて,本日時点におけるこの記述においては,「西暦5000年ころにおける日本の祝日(休日)は1年に何日ありうるか?」と想定した〈歴史的な問題〉を考えてみたい。

 内閣府の天皇の休日に関した説明は,つくされていない点をまだ残していた。現役のナルヒト氏の誕生日は休日になっている。

 しかし,現状ではなぜ,ヒロヒト氏の誕生日はそのまま休日として残されて,なぜその息子であるアキヒト氏の誕生日はそうなっていないのか?

 その種の疑問に対して,歴史科学的かつ政治理論的にも必要かつ十分な合理性を感得できる解説が,専門の研究者から与えられているとはいえない。政治が決める「国民の祝日」であっても,そうした疑念や要求には極力,整序だった合理的な説明が国民たちに向けて提示されるのは,当然である。

 本ブログの筆者は,1年前の2022年2月11日という日付に関してだったが,カレンダーをみていてももうひとつはっきり自覚しえばに,ただその赤い数字で印刷された日付を漫然とながめていた。

 だが,そのつぎの12日になってからであったが,朝起きてからいきなり「そうだ,コロナ渦の最中にあるこの2022年もまたこの建国記念日が来ていた」わけだなどと,なにやら「寝ぼけまなこ状態」で知覚しなおしていた。
それほどまでに,この「建国記念の日」は単に昔風にいえば「旗日」の単なるひとつだという程度にしか認知度が薄らいでいた。

 日本という国が建国記念日(正式名「建国記念の日」)に決めてあった「それはもうたいそうな大昔の日付」をもって,本当にこの日本が立国・創建されていたかどうかは,まったく確証などない。

 あくまでも,歴史神話的な次元で決めてみたその日付であった。すなわち,どこまでもその神話的説話の域を出ないそれであり,信じるか信じないかという解釈を許さないものではなかった。

 その正式名「建国記念の日」は1966年に,国民祝日法により「日本」のの「祝日の一つ」であると制定されていた。この祝日は,この祝日法ではなく政令で定められ,その日付を2月11日と決めておいた。

 もっとも,この2月11日が本当に日本が建国された日付であったかどうかは,以上の言及のとおりまったく不詳・不明である。その日付は「神のみぞしる〈古代史〉」の,それも本当にその「現実にはあったかどいうか確かめようがない数字になっていた」。そうとしか受けとりようがない,つまり古代史的に想像をたくましくしてこそ,成立しうる議論でしかなかった。

 ある意味で解釈するとなれば,「完全なるでっち上げ」でなければ,「ただ素朴にこの日にしておきたかった」から,「2月11日」に指定しておいたに過ぎない。もちろん,それなりにその日に決めたという説明が創説されていたことは承知する。

 さて,その神話の「教える」「日付」に自国の原点:出立の時期を措定してみたいのが「日本というこの国である」。だが,最近の日本は,国勢全般の絶対的な凋落傾向が不回避となったまま,後進国的な衰退国家への途を否応なしに歩みはじめている。

 現状における日本の状況は,安倍晋三の第2次政権が発足した2012年12月を契機に,めだって国家の政治と経済がじわじわと衰退弱化させられてきた。もちろん,政治経済面から産業社会面までの全領域においてじりじり落ちこんできた諸相は,人びとの日常的な生活にも「困窮や不安な要因」として,顕著な趨勢となって具体的に反映されている。

 ともかく,今年:2023年の2月11日も「建国記念日」が来ていた。 “例年どおり” ,誰れもかれもが迎えていた「国民の祝日」になっていた。だが,この2023年になってだが,この休日をめぐり不思議に感じて思いだすことがらがあった。

     ここでは,なかでも『しんぶん赤旗』2021年2月11日が,この「建国記念の日」に対してまともな言及をおない,適切な批判を披露していた。もっとも『しんぶん赤旗』でないと,この程度の「批判的な視点」が議論として提供されないのかという疑念も感じながら,この社説を読んでみたい。

      ★「〈主張〉『建国記念の日』」★
      『しんぶん赤旗』2022年2月11日
  = https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2022-02-11/2022021101_05_0.html

 a) 負の歴史刻んだ過去の直視を
 今日は「建国記念の日」です。もともとは戦前の「紀元節」でした。明治政府が1873〔明治6〕年,天皇の権威を国民に浸透させるため,「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに,架空の人物である神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位した日としてつくりあげたもので,科学的・歴史的根拠はありません。

 b) 国民の戦意高揚に利用
 戦前の天皇制政府は一貫して,国民を天皇崇拝と侵略戦争に動員するために「紀元節」を利用してきました。大日本帝国憲法を発布したのは1889年の2月11日でした。

 1990年には「金鵄勲章」が制定されました。武功抜群とされた軍人に与えられる勲章で,神武天皇の弓に金色のトビがとまって敵の目がくらみ,たたかいに勝てたという神話にもとづいています。

 朝鮮半島の支配をロシアと争った日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日におこなわれ,11日に新聞発表されました。

 国民を侵略戦争に駆り立てるために「紀元節」を利用することは,1941年12月8日に開始されたアジア・太平洋戦争のもとでいっそう強められました。

 「シ港要塞完全に死命を制す」
 「紀元の佳節 精鋭士気高揚 敵最高拠点を奪取」。

 80〔81〕年前の2月11日,朝日新聞の1面にこんな大本営発表記事の見出しが躍りました。天皇制政府と軍部は,当時イギリス領だったシンガポール島の攻略作戦を「紀元節」にあわせて実施し,戦意高揚をはかりました。

 シンガポールを占領した日本軍は,抗日運動に参加した中国系住民を大量虐殺しました。現地に立つ「血債の塔」には「深く永遠の悲しみとともに,この紀念碑は,日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日から1945年8月18日までの間に殺されたわが市民たちの追悼のために捧げられる」と刻まれています。

 1942年6月のミッドウェー海戦の日本の敗北で戦局は転換し,太平洋地域の制空権と制海権は連合国側に移りました。鉄鉱石などの軍需物資も欠乏しました。

 木造船建造のために,個人の屋敷や神社仏閣,街道筋の並木をはじめ多くの巨木・大木が切り倒されました。この「軍需造船供木運動」が開始されたのは1943年2月11日でした。推進したのは大政翼賛会です。歴史学者の瀬田勝哉・武蔵大学名誉教授が著書『戦争が巨木を伐った』で痛苦の過去を克明に記しています。

 負の歴史を背負った「紀元節」は戦後,国民主権と思想・学問・信教の自由を定め,恒久平和をかかげた日本国憲法の制定に伴い,1948年に廃止されました。ところが佐藤栄作内閣が1966年,祝日法を改悪して「建国記念の日」を制定し,「紀元節」を復活させて今日に至っています。

 補注)佐藤栄作の前に岸 信介がいたし,そのあとには安倍晋三がいて,この国を悪い国にしてきた。彼ら:血縁者だった政治屋たちがこの国をよくしてきた証拠はなにもない。満洲国をみよ,沖縄県をみよ,そしてそのへたれた「美しい国の醜悪さ」をみつめよ。

筆者補注。

 c) 歴史修正主義から脱却を
 歴史を記憶にとどめるうえで大切なのは,事実を直視することです。それは岸田文雄内閣が決定した佐渡金山の世界遺産推薦にあたっても問われています。

 日本政府が侵略と植民地支配の負の歴史を認めようとしないのは,根深い歴史修正主義の考えがあるからです。登録推薦をおこなうのなら,戦時中の朝鮮人強制労働の歴史を認めるべきです。

 いまこそ歴史の事実と向きあい,憲法9条にたったアジアの平和外交への転換が求められています。(『しんぶん赤旗』引用終わり)


 

 ※-3 2010〔2023〕年の2月11日は何回めの「建国記念の日」?

 この2月11日は「国民の祝日」としての「建国記念の日」であり,1967〔昭和42〕の2月11日から設定・実施されていた。今年になって57回めを迎えていた祝日である。

 この「建国記念の日」の起源は,一般的に,つぎのように説明されている。

 いまから2670年も昔にさかのぼる紀元前660年2月11日,当時の天下を平定したとされる神武天皇が,大和橿原の宮で即位し,これが日本〔という国はまだ存在しなかったが〕の天皇制〔同じく天皇という名称の位もまだなかったが〕の始まりとされる。

 ただし,神武天皇という「日本の初代天皇」は《架空の人物》である。奈良県橿原市にある神武天皇陵が,神武天皇の遺体なり遺骨を収めているわけもない。あくまであると信じたい霊体を祀っているつもりであるに過ぎない。

 それゆえつぎに紹介する橿原神宮に出ている神武天皇のお話も,あくまで作り話のひとつである。もちろん,この物語を信じるかどうかは,各人の判断にゆだねられていい〈ことがら〉である。

 橿原神宮は,御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼をおこなわわれた宮址に,明治23〔1890〕年に創建された。

 第1代の天皇でありわが国建国の始祖となられた神武天皇と,(ひめたたらいすずひめ)皇后が祀られている。

 神武天皇は,皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降られた日向(ひゅうが)国高千穂の宮におられたが,天下の政治(まつりごと)をおこなうべくはるばる東遷の途に立たれた。

 途中いくたの困難に遭われたが,ついに大和の国を中心とした中つ国を平定され,畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて,国の基を建てられた。

注記)「橿原神宮」https://www.naranet.co.jp/kashiharajingu/ 参照。

 なお「神武天皇」関連のホームページには,それぞれなりに〈素顔の神武天皇〉の似顔絵:想像図も出されているようだから,昔話としてはひとまず楽しい気分で鑑賞できる。けれども,あくまでも〈おとぎ話〔神話!〕の世界〉における「想像での似顔絵(?)」であることはお忘れなく……。

 つぎの神武天皇の画像資料はウィキペディアから借りたものである。

◇ すばらしく男前に描かれている ◇

 左右の似顔絵からヒゲを剃り落とすと「誰かに似ている」。申すまでもなく,この神武天皇像は国策的に制作された絵画:想像図の一例だったと観て,間違いない。ともかく,文句なしになかなか「イイ男」に描かれている。

 

 ※-4「国民の祝日」について

 「国民の祝日に関する法律」(昭和23〔1948〕年法律第178号,最終改正 平成17〔2005〕年5月20日法律第43号 平成19年1月1日施行)は,こう規定している。

 補注)その後,この法律にはいくつもの変更がくわえられているが,ここではひとまず無視し,2010年時点での説明に留めておく。全体の論旨に影響はない。

筆者補注。

 第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は,美しい風習を育てつつ,よりよき社会,より豊かな生活を築きあげるために,ここに国民こぞって祝い,感謝し,又は記念する日を定め,これを「国民の祝日」と名づける。     

 第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
     元  日  1月1日 --年のはじめを祝う。
     成人の日  1月の第2月曜日 --おとなになったことを自覚し,みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
  建国記念の日 政令で定める日 --建国をしのび,国を愛する心を養う。
     春分の日   春分日 --自然をたたえ,生物をいつくしむ。
    昭和の日   4月29日 --激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。
    憲法記念日  5月3日 --日本国憲法の施行を記念し,国の成長を期する。
  みどりの日  5月4日 --自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。
  こどもの日  5月5日 --こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。
  海の日    7月の第3月曜日 --海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う。
  敬老の日   9月の第3月曜日 --多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し,長寿を祝う。
  秋分の日   秋分日 --祖先をうやまい,なくなった人々をしのぶ。
  体育の日   10月の第2月曜日 --スポーツにしたしみ,健康な心身をつちかう。
  文化の日   11月3日 --自由と平和を愛し,文化をすすめる。
  勤労感謝の日 11月23日 --勤労をたっとび,生産を祝い,国民たがいに感謝しあう。
 天皇誕生日  12月23日 --天皇の誕生日を祝う。

 補注)なお,現在はこの12月23日は「国民の祝日」ではない。徳仁天皇の誕生日の2月23日に代わっている。 

    第3条 「国民の祝日」は,休日とする。
     2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは,その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
     3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は,休日とする。

 ◆『建国記念の日となる日を定める政令』(昭和41年政令第376号)
  国民の祝日に関する法律第2条に規定する建国記念の日は,2月11日とする。附則(省略)

 ◆「春分の日」及び「秋分の日」について
 祝日のうち,「春分の日」及び「秋分の日」は,法律で具体的に月日が明記されずに,それぞれ「春分日」,「秋分日」と定められています。

  「春分の日」及び「秋分の日」については,国立天文台が,毎年2月に翌年の「春分の日」,「秋分の日」を官報で公表しています。詳しくは,国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問 3-1)を御参照ください。

 ◆「昭和の日」について
 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成17年法律第43号)が平成19〔2007〕年から施行され,「国民の祝日」として新たに「昭和の日」が加わり,「みどりの日」は5月4日となりました。

  昭和の日   4月29日 --激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす(筆者註記:1945年以前における昭和天皇の事績:失敗は問わないということらしい)。

   みどりの日  5月4日 --自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。

 また,「国民の祝日」が日曜日に当たるときは,その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とすることになりました。

 

 ※-5「皇室祭祀令」明治41〔1908〕年に定められた皇室祭祀の日にち

 以上に,現行「国民の祝日」を法律にしたがい一覧してみた。つぎに,皇室令第1号として規定された「皇室祭祀令」(明治41〔1908〕年9月19日)から,「国民の休日」に比較する材料としてその一部のみ,「第2章」の第8条・第9条・第10条を紹介する。

    第二章 大祭 
  第八条 大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率イテ親ラ祭典ヲ行フ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム     

     第九条 大祭及其ノ期日ハ左ノ如シ        
      元 始 祭         一月三日
      紀元節祭        二月十一日
      春季皇霊祭       春分日
      春季神殿祭       春分日
      神武天皇祭       四月三日
      秋季皇霊祭       秋分日
      秋季神殿祭       秋分日
      神 嘗 祭         十月十七日
      新 嘗 祭         十一月二十三日ヨリ二十四日ニ亘ル
      先 帝 祭         毎年崩御日ニ相当スル日
      先帝以前三代ノ式年祭   崩御日ニ相当スル日
      先后ノ式年祭            崩御日ニ相当スル日
      皇妣タル皇后ノ式年祭     崩御日ニ相当スル日     

     第十条 式年ハ崩御ノ日ヨリ三年五年十年二十年三十年四十年五十年百年及爾後毎百年トス
         神武天皇祭及先帝祭前項ノ式年ニ当ルトキハ式年祭ヲ行フ

 これをみても分かるように「先代などの天皇」の「命日(いわゆる崩御)〔ニ相当スル日〕」に,なにやら,ひどく・ずいぶん,こだわった規定になっている。先祖を祭祀することばかりに関した〈祭祀〉日だから当然とはいえ,この「皇室神道」の決まりに強く感じとれる,それなりの宗教性に注目しておきたい。

 なお,この「皇室祭祀令」(明治41〔1908〕年9月19日)は,前段に一覧した現行の「国民の祝日」と共通する〈日にち〉も多いが,基本的には,この「皇室祭祀令」に定められた日にちが「国民の祝日」の〈骨格〉あるいは〈主柱〉になっていた。

 とくに「紀元節祭:二月十一日」は,歴史的に存在したかその保証など本当は皆無である〈初代の神武天皇〉が「成就させたとされる事績」に関して,決められていた日付である。となれば,どだいマユツバものだと指摘されても,基本的に反論できない。

 たとえば,自民党の衆議院議員であった中山正暉は「建国の日と神武天皇は無関係」と喝破したことがある(1984年)。

 ここで話はいきなり政治家から皇族に移る。昭和30年代になっての出来事であった。

 昭和天皇の末弟三笠宮崇仁は,1950年代後半に巻きおこった「建国記念日」に関する議論のなかで,自分の所属する「史学会」(1889:明治22年11月創立)に対して「建国記念日」制定に反対する決議を迫った

 だが「史学会」側は,学術団体に政治的決議は馴染まないと応せず,この態度に憤慨した三笠宮は「理事長独裁を批判する」とのコメントを出し,世間を騒がせた出来事がある。

 ここで寄り道をする。参考にまで,中国人民共和国の休日,2007年12月14日公布の『全国の祝日および記念日の休暇弁法』により定められた「中国の祝祭日」を,以下にかかげておく。

 これらの公休日に合わせて前後の土日を振り替えたりし,3連休とするばあいが多いようである。 こちらのほうは正直に「農事」との暦的な関連を表記しているところが,興味深い。

     (一) 新 年: 休み1日(1月1日)
     (二) 春 節: 休み3日(農暦大晦日,正月1日,2日)
     (三) 清明節: 休み1日(農暦清明当日)
     (四) メーデー(労働節): 休み1日(5月1日)
     (五) 端午節: 休み1日(農暦端午当日)
     (六) 中秋節: 休み1日(農暦中秋当日)
     (七) 国慶節: 休み三日(10月1日,2日,3日)


 

 ※-6  「皇室祭祀令」から「国民の祝日」として登場した,とくにその「差分として現われた祝日」などについて

  ★「成人の日」は,以前は1月15日に決められていたが1月の第2月曜日に変更され,毎年のカレンダーに合わせて若干可動的に置かれている祝日である。
 
 どうしてそのように可動的に,月曜日になる日にちに設定しているかは,あえて説明しなくてもよいと思われるので,割愛する〔→2003〔平成15〕年「祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)」のこと〕。

 ★「天皇誕生日」2月23日。令和の天皇になった徳仁の誕生日である。昭和天皇の孫になる現在の天皇は,父の明仁が民間から嫁を娶ったのに続いた。

 徳仁の祖母つまり昭和天皇の妻は,息子の明仁が正田美智子を選んだとき,「平民からとはけしからぬ」と憤激したとかで,皇室内の敗戦後史のなかに,それ相応の「限定版民主化」が浸透するには,だいぶ手間ひまかかったものと推察される。

 ★「昭和の日」4月29日は,現在は伏せて隠しているけれども,いうまでもなく「天皇裕仁」の誕生日である。昭和時代に生まれた世代はよくしっている。

 彼は,旧大日本帝国時代の帝国陸海軍を統べる大元帥でもあった。1945年の前後をとおしてこの「国民の祝日」が置かれており,彼はいまもなお「国民」に誕生日を祝ってもらっていることになる。

 ★「憲法記念日」5月3日は,戦争に敗北した大日本帝国が旧明治憲法を改正して〔より正確にいうと「占領軍に指導されて」そうしたから「押しつけられた」とも表現されることもある〕,日本国憲法を公布・施行した。

bこの新憲法の公布されたのが 1946〔昭和21〕年11月3日(明治天皇の誕生日),施行されたのが 1947〔昭和22〕年5月3日であった。

  ★「みどりの日」5月4日は,1週間程度の連休を〈ゴールデン・ウィーク〉と呼ばねばならないほどの働きバチ=日本人にために,前後の日がすでに休日(国民の祝日)だということ,そして,すでに実際にはこの4日も休みにしてしまう事業所も多くあった事情も斟酌して,「ついで休日にしてしまえ(!)」ということであった,と推察する。

 ★「こどもの日」5月5日は,となりの韓国にもある休日であるが,ほかの国々にはみかけないようである。ともかく,黄金の連休のしんがりに位置する「国民の祝日」である。
 「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する」休日であるというけれども,この日にかぎってとくに思うべきことがらにも「思えない」が・・・。

 補注)日本も韓国も「こどもの日」がある割りには,出生数・出生率の低下傾向がはげしい。とくに出生率は2022年で,日本は 1.27,韓国が 0.79。

筆者補注。

 ★「海の日」7月の第3月曜日は「海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う」と説明されているが,これは本来の意味をすっ飛ばしている。

 制定当初は7月20日だったが,祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)にともない,2003年〔平成15〕年から7月の第3月曜日に置かれる「国民の祝日」となった。

 もともと「海の記念日」という記念日があった。これは,1876年〔明治9〕年に明治天皇が東北地方を巡幸したさい,軍艦ではなく灯台巡視用の汽船「明治丸」に乗船して航海をし,7月20日に横浜港に帰着したという。

 この明治天皇の行事に因んで,1941〔昭和16〕年,当時の逓信大臣村田省蔵が提唱して制定された〈記念日〉である。そして,2003年〔平成15〕年から「国民の祝日」のなかった〈7月〉中に設定しておいたわけである。

  ★「敬老の日」9月の第3月曜日は「老人を敬愛し,長寿を祝う」「国民の祝日」であるから,高齢社会に至っている21世紀の休日としては,とても適っている。

 とはいっても,孤独な生活を強いられている,それも過疎地域から離れられないで暮らしている多くの高齢者が「この日だけ敬愛され長生きを褒められ祝ってもらっても」,当人たちはそれほどうれしくなれないのではないか。

 補注)最近,イェール大学アシスタント・プロフェッサーの成田悠輔が「高齢者は集団自決すれば良い」という発言を盛んに放ち,批判を浴びていた。だが,この発言にすなおにしたがえば,敬老どころか排老の気運を創りたがる異様な学者がいることになる。

 もっともこの成田も,1985年生まれで38歳であっても,いつかはジイさんになる。そのときになって彼は,けっして自分を例外あつかいしないつもりだからこそ,そう断言しているものと解釈しておく。

 しかし,そうした冷笑的な発言ができる人間にかぎって,もしや自分自身を除外した話をできているのか。成田悠輔もあと倍ほど,さらに37年生きたら,自分も後期高齢者になる。
 
 そのときは,この悠輔ジイさんも,自身の発言の責任をとるためもあって率先垂範して自決するに違いないわけか? ただし他者は誘わないで「お1人様」で,有言実行することを期待したい。

 日本には「姥捨て山」の話がある。だが,この話にしてもそれほど単純ではなく,示唆に富む中身になっており,敬老精神を底面から訓話している。

筆者補注。

 ★「体育の日」10月の第2月曜日は,以前は休日のなかった10月に新しく,それも学校では運動会がおこなわれる月だということで,置かれたお休みの日と思われる。

 メタボチックなお父さんたちは「この日に若いころを思い出して急に張り切って運動したら,アキレス腱を切断するかもしれないので要注意」である。本ブログの筆者は,そうした実例を何人もみてきた。「スポーツに親しみ,健康な心身をつちかう」のは大いにけっこう,誰も否定しない。

 ★「文化の日」11月3日は,いまでは,明治天皇の「隠れ誕生日」だと指摘してもけっして揶揄にはなるまい。

 日本国民が「自由と平和を愛し,文化をすすめる」という気持を,いかなる理由があってなのかしらないが,もとは「明治天皇の誕生日」であるこの「文化の日」にもたねばならないのか。

 歴史の事実はその〈真逆の成果〉を実証しているせいで,明治天皇の誕生日である点を正面に出せないのではないか? これはゲスの勘ぐりではなく,ほぼ正解。

 明治の時代はむしろ,東アジア諸国に対する差別と戦争を好み,日本帝国内においては侵路戦争を推進する気分を横溢させていた。実際にその欲望を実現していったのではなかったか?

 日清・日露戦争,台湾・朝鮮の植民地化が,その時代に起きたもっとも代表的な歴史の事件であった。この時代に天皇の地位に君臨していた人が産まれた日を,彼の元号「明治」を着けた「国民の祝日」として祝ってもらおうとするには,躊躇した。

 敗戦国になった日本ゆえか,敗戦以前までは「明治節」と呼ばれた明治天皇の誕生日(10月3日)を「帝国臣民のための祝日」に決めてあったけれども,その後は「文化の日」に名称を変えていた。

 そのように敗戦をはさんで「明治天皇」の人間像は,文武の両道をうまく走り抜けてきた。とはいっても,そこにはやはり躊躇は残っていたし,かつまた,気まずい思いも残響していた。

 歴史的な思い出となった敗戦という出来事は,完全には消しきれるわけもないから,睦仁氏の誕生日は「文化の日」と名付けておき,結果的にはなんら変化はないものの,ともかく換骨奪胎的に国民たちに対して休日を提供してきたのだから,悪いといわれる筋合いはないともいえる。。

 そうした意図が奈辺にあるかどうかはさらに詮索はしないにしても,その由来をわざと隠したかのように「休日=国民の祝日」である「文化の日」を,実は「明治天皇の生まれた日」に設定してきた。敗戦後,間もないころ,「歴史の記憶」をめぐる操作がそこに介在していたわけである(1948年)。

 ★「勤労感謝の日 11月23日」は,皇室の祭祀(行事)でいえば「新嘗祭」である。キリスト教でいえば「感謝祭」である。
 
 この休日の主旨である「勤労をたっとび,生産を祝い,国民たがいに感謝しあう」ことと皇室の「新嘗祭」の宗教行事との関連は〈歴然としている〉にもかかわらず,それを故意に断ち切ったようなかたちで,この「勤労感謝の日」を設定している。不自然である。

 ★「天皇誕生日 12月23日」〔ここでは平成の時代〕はもちろん,平成の「天皇の誕生日を祝う」「国民の休日」であるけれども,日本の国民は挙って無条件に「天皇明仁の産まれた日」を祝う義務があるわけではない。

 ましてや,それに協調しない国民が〈非国民〉よばわりされる筋合いは寸毫もないし,それを罰する〈不敬罪〉のような法律もない。ただ,休日にしてくれていることに感謝する気持は,誰にでもあるといえる。

 ※-7  いくつかの疑問-日本の天皇・天皇制に関する若干の吟味

 皇室の祭祀とはいっても日本の歴史,それも「皇室における歴史」を回顧してみると,新嘗祭・大嘗祭など祭祀(行事)が中世においては断絶していた時期もあった。

 それらはまた,どこまでも天皇家における・朝廷内における祭祀であったものを,明治時代になって,それも古代史的にもふたしかな根拠しかない伝統(?)にもとづいて徹底的に「新しく創造」しておきながら,国民=臣民に対する教化としては,元来(いにしえから)そうなっていたのだと,権柄ずくで教えけてきた。

 日本国憲法を「押しつけ憲法」だという識者もいるけれども,明治憲法(旧大日本帝国)のほうが国民=臣民にとってははるかに,よほどに「押しつけ帝国憲法」であったことを忘れてはいけない。

 「国民の祝日」のなかには「国民の視野・目線」をあえて遮断・隠蔽するかのようにして,横槍的に「押しこめられている皇室祭祀」が伏在させられている。この「明治謹製」的に「嘘っぽい要素」を踏まえたうえで,つぎに興味ある論点を考えてみたい。

 1) 大正天皇に因む「国民の祝日」がないのは,なぜか?

 天皇「誕生日」関係に注意してみると,明治天皇の休日〔「国民の祝日」〕はあるのに「大正天皇」のそれはない。なぜか? とても不思議である。

 大正天皇の誕生日は〈祭日〉に置く必要はないのか? この疑問はきわめて素朴な発想であるが,もっともなものでもあることは,ただちに理解してもらえるはずである。

 本ブログ風にいえば,大正天皇の問題をとりあげて指摘してみると,日本の皇室の連綿性〔=皇統譜〕を守るために必要である男子を4人も作ってくれた,それも側室を置かないで,貞明皇后にその子どもを産ませてくれた大正天皇に因んで,なにゆえに「大正天皇の祝日(8月31日)」を設定していないのか?

 まぜっかえすようにいわせてもらうと,夏休みの最終日〔そうではない日本の地域もあるが〕だからか? 

 a) 明治天皇のばあいは,複数いた側室との性の営み:子作りに励んでがんばったけれども,成人まで育った男子は大正天皇1人以外に製作できなかった。

 b) 昭和天皇は,平成天皇とこの弟の2人を男子として製作できた。昭和天皇の場合,その2人の男子をはさんで上と下に女子を4人と1人,都合5人製作していた。戦前のことでもあったし,昭和天皇は妻が平成天皇を産むまでは,お付きの者たちともども,やきもきさせられてきた。

 裕仁夫婦の周辺に陣どる宮内省関係者は,妻の良子(ながこ)が男子を産むまでには5人めの子ども(明仁:平成天皇)の誕生を待たねばならなかったから,こちらはとくに焦っていた。周囲からは,男児を創れないキャツのために第2夫人を送りこめという提案もあったくらいである。

 --ということで,明治天皇は成人した男子1人,昭和天皇は男子2人〔参考にまでいえば平成天皇もやはり男子2人,その息子の徳仁は現在のところ「男」なしで決まり〕というふうに,それぞれ皇室のための後継者男子を製作した。

 c) 大正天皇は,裕仁・秩父宮・高松宮・三笠宮の4人を,側室の助け〔腹を〕を借りないで製作できた。皇統の連綿性を考慮して評価すれば,天皇家の祭主は「皇位の継承者」である「種」主を絶やさないための仕事が非常に重要である。

 以上  a)   b)   c)   を比較考量し,斟酌するならば,大正天皇の誕生日も休日としておき「国民に祝わせないほうがおかしい」のではないか?

 ついこのあいだの世相であった出来事を思いだそう。現「皇太子徳仁と雅子夫妻のあいだにに男子ができない」問題が,世の中を大いに騒がせる話題になっていた。

 その意味でいえば,天皇夫婦として自分の子ども:男子「皇位継承者」を4人も製作した大正天皇が,現在における日本の休日「国民の祝日」に利用されていないのは,たいそうおかしい,不審なことではないか(?)とまで感じる。

 また単純な話,「労働者・サラリーマン」〔ただし正規社員に限り,とくに公務員など〕の立場からすれば,国家が公認する休日が増えるのは,ともかく大歓迎である。

 2) 天皇誕生日をすべて休日にしたら,今後どうなるか

 天皇の誕生日を「休日:国民の祝日」の設定のために歴史的に利用していながら,それでいて「この由来を意図的に隠蔽した」かのようにもしている要素が紛れこんでいた。その点には,なんらかのあやしい事情があるのかなどと推理したくもなる。日本国の「国民の祝日」の設定に関しても,〈そういうやりかた〉をしがちなのが,この国家の流儀になっている。

 --以下につづける話題は,大正天皇の誕生日が休日になっていない事実は,ひとまず棚上げしての話となる。

 日本が古代史のある時期に一国の体裁を形成しはじめてから,約千3百年(以上)が経つとされる。明治維新を画期にそれ以来急速に「朝廷:皇室」という歴史的な概念が,最大限に膨張・粉飾させられる方途が採用されてきた。

 明治時代から,日本という国のあらゆる場面・領域に「天皇・天皇制」の価値観を浸透させようとする努力がなされてきた。平成や令和の元号をもついまの時代になっているから,天皇「誕生日」に由来する休日は,明治天皇と昭和天皇と平成天皇と令和天皇の4日がある。

 現在「上皇」の立場に移った「平成天皇の休日」は「国民の祝日」の対象から外された。これからも多分,平成天皇の誕生日が休日となるカレンダーは作られないとみるべきか。
 
 生前の安倍晋三は明仁天皇夫婦をイジメぬいてきた。この事情が,以上の話になにも関連していなかったとは断言できない。

 ところで,大正天皇のばあい1人の妻に4人も産ませたはずの男子が,実はすべて彼の「実子」ではなく「他人の種(胤)」になるものであった,という秘話が紹介されることもあった。貞明皇后の腹から生まれた点に変わりはないが,その種主が異なるのだとという説があった。

 もしかしたらその「種」の皇室事情をしている関係者が政府中枢にいた関係で,日本の「国民の祝日:休日」のなかには,いまもって,「大正天皇」の休日が置かれていないものと推理されてもいいのか。

 そこには,国民・臣民にはけっして明かすことのできない天皇家内の恥ずかしい,世間通常の感覚でいえば口にしにくい「秘密の事情」が隠されていた。それゆえ,いつまでもそのように絶対的に隠しつづけている,ということになっている。

 しかし,戦前体制のなかでいわゆる〈皇族〉集団に近しい人物たちの範囲では,みながその「種の事実(真実)」をしっていたはずである。いまもなお公式的に,その事実が明るみに出されることはけっしてなく,いわば〈完黙の禁忌〉事項でありつづけている。

 それはさておき,ここで,平成天皇の時代以降:歴代天皇たちについてだが,死後においては全員が「休日」=「国民の祝日」を置かれる天皇になると想定しよう。

 しかも,1世代を30年で計算してみるとして,また,皇統の連綿たる継続性がとぎれないと仮定しておくが,

 3百年ではその休日が10日分増えるし,さらに3千年では一気に100日分増えることにもなる。

 現在,日本における「休日の日数:その総数」は,まず1年は52週であるから土・日曜日の合計104日となり,つぎにこれに「国民の祝日」15日を足すと,合計 119日(土曜日と祝日が重なる日はその分実質減るが)となる。

 これにさらに,前段に計算してみた上記の10日分あるいは100日分をくわえるとどうなる?

 いまから3千年後の場合〔西暦5000年ころは〕,それもこの国がまだ存在しているかどうかという心配をしながらの話になるが,1年365日のうち220日が休日,10日に対して6日の割合で休みの日になっている,ということになる。

 話は変なというか,妙なところに逢着した。最初に,日本の天皇・天皇制がこれから数千年も維持されていくと想定した。これに重ねて話としてだが,そうした遠いさきの〈休日・祝日がたくさんに増えていく想定話〉を試みた。しかも,それなりにいささかは現実味のある議論と「受けとめてもよい話」であった。

 3) 民主主義の真価が問われる日本国の現状

 要は,「国民の祝日:休日」とは「天皇本位・天皇家のために定められた『国民の祝日』」である。

 日本国憲法第1章「天皇」は「天皇の地位と主権在民」に関して,第1条で「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と既定しているゆえ,「国民と天皇の相対関係」はいかようにでも対位させうる「解釈の柔軟性」を許す。

 現行の日本国憲法を,実質において戦前・戦中体制寄りに引きずりこみ,そちら側に少しでも近づけたいと策謀する政治家たち〔およびこの方面を好む政治勢力〕が,いままで必死になってその民主主義の原理性を骨抜きするための努力をした成果:現象のひとつが,そのような「国民の祝日」という名を騙ったところの「天皇家の祭祀」を骨格・主柱とした〈休日の設定〉の現状なのである。

 しかしまた,本ブログの筆者は,「国民の祝日」はそのようにひっくり返して〈観察され判断されるべき意味〉あいをもっている以上に,さらにくわえた歴史的な意味もあったと理解する。それゆえ,歴史的にははるかに遠い未来にまで視線を投じてみる操作をおこない,これから還ってくる反響を聞いて明らかにされる論点に注意しなければならない。

 補注)こういうことであった。2010年代の安倍晋三の為政がもたらした日本政治の溶融・瓦解状態は,過去にさかのぼるかっこうを擬態しながらであっても,実質は「対米服属体制」を余儀なくされてきた。

 例の「戦後レジームからの脱却」が向かったところは,安倍政権がそのアメリカが「日本に対する宗主国」性をより高めた地点にあった。

 安倍晋三が国恥,国辱,売国奴の首相であったという歴史的な意味は,祖父の岸 信介から伯父の佐藤栄作も介してとなっていたが,連綿とつづいてきた安倍晋三の『誇れない「美しい国」』を志向したすえの「脱線行路」になっていた。

筆者注記。

 ここまで書いてきた長い記述は,あらためてこう受けとめておく必要があった。

 それは,明治維新のとき以来,この国のなかに新しくしこまれ創られてきた「近代の天皇・天皇制」は,「古代を復古的に志向した」姿勢を構えていた。だから,「後ろ向き(!?)」であった政治の価値観がいまだに払拭できていない。

 つまり,いまから1世紀半ほど以前に構築された〈過去の遺物〉が,21世紀になってもまだ捨て切れないままでいる「日本における民主主義の未熟な状態」は,ここであらためて客体的に認識しておく必要があった。

 冨永 望『象徴天皇制の形成と定着』思文閣出版,2010年は,現行の日本国憲法に規定・運用されている「天皇・天皇制」のありかたに関して,吉田 茂のいった「議会主義的君主制」(116頁)という表現に言及していた。

 専制君主制⇒立憲君主制⇒「『民主主義』的君主制」という並べ方が,はたして,政治概念的に矛盾なく成形できるのかについては,専門家の意見を,さらに聞きたいところである。

 立憲憲君主制から「民主主義的君主制」という概念は,この概念そのものとして成立が期待できるのか。いまの令和天皇夫婦の姿をよく観ていたところで,なにか関連する政治的想念が湧いてくるほどのことはない「時代」になっているのかもしれない。

 いずれにせよ「共和制的君主制」なる政治概念は,とうていありえない〈根本矛盾:形容矛盾〉の表現であるから,いうまでもなく,その「民主主義的君主制」とは,日本国憲法にまつわってアクロバット的に発案・提示された,いわば一種独特の政治的な概念である。

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