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ニッポン人の差別・偏見意識を扇動し助長するケント・ギルバートは,日本の道徳・倫理が高く中韓のそれが低いと愚考する「アメリカ人の仮面」をかぶったエセ日本人(前編)

 ※-1 だいぶ昔となるが,ケント・ギルバートなる「在日特権」的なアメリカ人がいて,ニッポン人の意識下に潜む差別・偏見意識を扇動し,助長させるがごとき「エセ知識人の立場」に沈淪したタレント的な活躍をしていた

 「アメリカ人(など)の仮面」をかぶっているが,それでも「日本・人が大好きになれる相手である白人系外国人」が,この日本社会のなかではいつも大きな顔をして闊歩してきた。

 その事実は,こちら側:ニッポン人に特有であるというべき,つまり「白人への劣等感を裏返しにしたかたち」をとって,それも相互間における「対の関係性」のなかでこそ,逆用にもなって「露骨に現象されつづけている」白人側の優越感というものは,実質的に,日本・日本人を見下した精神構造の態様としてまかり通っている事実も,同時に意味する。

 なお,本日のこの記述の「本体」(本論)は,5年以上も前,2018年3月23日に書いてあり,いったん公表していた文章である。だが,その後,長いあいだ死蔵状態にあったものを,このブログにおいて復活させるにあたり,まず最初にこの※-1として,若干の補足とすべく追加の文章を書いてみることになった。

 さて,『産経新聞』に「〈編集者のおすすめ〉『私が日本に住み続ける15の理由』ケント・ギルバート著」2020/2/15 09:30,https://www.sankei.com/article/20200215-PV3WWBW7ARJCNBGYK25MPSRFDY/ というギルバートが書いた本を紹介する記事があった。

日本大好きアメリカ人
「在日特権」のなにかでも与えられている気分のつもりか?

 ケント・ギルバートが白秋社から2020年1月(いまからだと4年前)に公刊したこの本は,日本人の「多くの美点」を語っていると紹介され,なかでもとくにつぎの事項が指摘されていた。

  「将来的に世界の文化の中心になる国だから」
  「アメリカが失った自由があるから」
  「天皇を中心とした国体があるから」
  「バラエティーに富む安心の住環境があるから」

 これらは「日本人が想像したこともないようなもの」であり,「まさに日本人には書けない日本人論です」と断わられていた。

 以上の紹介だけ聞いてもこのギルバート流の「日本ヨイショ」の発言が,ただ日本人受けを狙った文句を連ねたものでしかない点は,日本人自身ですらすぐに気づけるものであった。

 いちいち批判をくわえていたらキリがないので,上記のようにギルバートが日本をべた褒めした諸項目は,日本人自身の口からもしばしば自慢げに語られるものでもあったことだけは,とくに指摘しておきたい。

 いずれにせよ,そうした褒め文句を歓迎しない日本人はごく少数派であって,もともと,自国のことを褒められて怒る人など,よほどのへそ曲がりではないかぎり,いない。

 だが,21世紀も第1四半期が終わる最近になってもまだ,そのように無責任にも「在日外国人」の立場(利害?)からなのか,いまではとうとう,自国の現状を「〈衰退途上国〉」だと,それもあえて蔑称的に形容するほかなくなったこの日本のことを,当時,2020年1月(新型コロナウイルス感染症がいよいよ日本にも上陸し,この直後から流行しだす時期)に発行された自著のなかで,

 日本は「将来的に(!)世界の文化の中心になる国だから」とか,最近はますます息苦しくなったこの国の政治秩序などどこ吹く風かとばかり,「アメリカが失った自由があるから」とか,

 ましてや「天皇を中心とした国体があるから」といったふうに,具体的にその合理的な根拠を挙げるには,ちょっと苦しすぎた「天皇家万歳の賛美」まで口に出して,ともかく無条件にもちあげておこうとする精神のあり方は,たいそう無節操であった。

 さらには「バラエティーに富む安心の住環境があるから」などと,ごく一部の富裕層(日本の上級市民)にしか当てはまらない,それもおそらく自分(ギルバート)に関してならば多分,適用可能かもしれなかったのか,きわめて特殊でしかない,つまり,独自になる「日本・イイネ(!)観」の実例まで披露していた。

 以上のごときに,ギルバートが「日本大好きらしい人間」として語ってみた「主観的偏向に偏った講釈」は,いってみれば「日本大好きになった外国人(白人だが)」による,しかも,いつもの紋切り型の「ともかくボクは日本大好きです,愛しているよ」,だから「ボクのことを,これからも好きでいてネ」とでもいいたいらしい,日本・日本人へ向けたゴマすり動作の好例であった。

一番上層の右側2葉に映る人相は
あまりよろしくないようにみえる

 要は,ギルバート流に日本人に向けた発信は,好き勝手のいいたい放題に終始していたし,かつまた冗舌でもあった。それでも「日本人の一部,とくに極右の反動的なネトウヨが大いに喜ぶ口舌」を存分に行使してきたから,その方面においてなりに日本人受けしたことは確かであった。

 もちろん,まともな知識人やごく健全な日本精神(ヤマト魂)をもっている正統派の意識を抱くつもりである日本人たちの立場にとってみれば,ギルバートのごとき「白人系」でニッポンへのゴマ擦りだけが得意な「知識人もどき」を好むとは思われない。

 

 ※-2 かつて好青年のイメージだったケント・ギルバートの印象が,いまでは,落日的な「面相」にも反映されているその「退廃・堕落」ぶり

 21世紀の現在になっても,差別・偏見がなくせない日本の事情がまだ持続するなかで,元(?)アメリカ人が「日本人の差別・偏見意識」(時代精神の弱点面)を促進させるための扇動本を盛んに公刊してきた。

 だが,これに “たやすく応じてすぐに乗りたがる側” にも,実は「心もとない不安定な歴史認識」が隠されていた。このあたりに潜在する歴史意識の問題を,1世紀以上もの昔にまでまさ遡る話題を通して探ってみたい。

 1)「〈白球の世紀:45〉総督府,大会に『待った』 高校野球」『朝日新聞』2018年3月13日夕刊

 本日〔この※-2〕の話題は高校野球史から始まる。戦前の時期,それも1世紀以上もさかのぼっての野球に関する物語である。

 最初に引用するこの記事に登場した「総督府」とは,旧大日本帝国時代における朝鮮総督府のことであり,日本の植民地であった「朝鮮」(いまの大韓民国と北朝鮮)を支配・統治していた機関である。

朝鮮総督府

 朝鮮総督府を簡潔に解説すると,こうなる。

 1910年日韓併合により日本が京城においた植民地統治機関であり,初代総督は寺内正毅であった。以後,総督には陸海軍大将を任用し,朝鮮の政務と軍務を統轄した。

 1919年の3・1独立運動を境として,前半を〈武断政治期〉,後半を〈文化政治期〉とする見解もある。だが,一貫して軍事支配である点に変化はなかった。

朝鮮総督府

 『朝日新聞』2018年3月13日の夕刊に連載されていた,この「白球の世紀45」を,しばらくつぎに引用する。

 「朝鮮で全国中等学校優勝野球大会の地方大会を開く」。そうした趣旨の社告が大阪朝日新聞朝鮮版に載ったのは,1916(大正5)年3月25日,大阪・豊中グラウンドで第1回大会が開かれた半年後のことだった。

 ところが,植民地朝鮮の教育行政をつかさどる朝鮮総督府学務局が,大会参加予定の4校に「学校名を出して競技に参加してはならない」などと通告して「待った」をかけた。

 主催の大阪朝日京城通信部は学務局からつぎの説明を受けた。「朝鮮は過渡時代にあるを以(もっ)て学生の野球競技参加を不適当と認む」。満足できる回答ではなかった。しかし,学校側が参加を取消したため,大会開催は直前で断念するほかなくなった。

 京城通信部は1916年4月28日付朝鮮版に掲載した大会中止の社告で不満をあらわにした。

 「野球の利弊に就(つい)ては吾人(ごじん)は既に深き研究を経たり今更総督府より之(これ)を聞くの要なし」

 「朝鮮の地が単なる運動競技といふが如(ごと)きものに対しても,尚(なお)活発発地の自由を得る能(あた)はざるを最も遺憾とするものなり」

 全国大会の運営にかかわった大阪朝日記者,中尾 済は,のちにこう振り返る。

 野球競技とはいえ,内地人と朝鮮人が勝敗を争うとなると,統治上,よろしくない結果を招く恐れがある,と学務局は考えたようだ。野球を通じて親しむ方が融和が早まるとも思われたが,結局,押し切られた(要旨,朝日新聞社編『全国中等学校野球大会史』朝日新聞社, 昭和4〔1929〕年)。

 野球が朝鮮の人びとに日本への対抗心をかき立てることを統治者は恐れた。1910年に韓国を併合して以来6年。初代総督,寺内正毅(まさたけ)の強権政治(武断政治)で人びとの自由は抑圧されていた。3年後の1919年3月1日,朝鮮全土で独立運動がわき起こった。(引用終わり)

 

 ※-3「3・1独立運動」

 ここで,韓国・朝鮮史に目を向けて少し説明してみたい。

 1910年の韓国併合(旧大韓帝国)によって日本の植民地になって以来,朝鮮〔に名称を変更させられていた〕は,過酷な憲兵警察の支配下に置かれ,言論・集会・結社の自由は完全に奪われ,同化教育がおこなわれ,民族解放闘争は直接武力で弾圧され,指導者は逮捕,投獄された。

 しかし,そのような武断支配は,かえって抵抗の力量を潜在化させ拡散させた。各所に秘密結社が組織され,書堂や夜学などが増大し,愛国教育がおこなわれ,抵抗の拠点へと成長していった。

 経済的にも土地調査事業などで大多数の農民は小作農に転落し,さらには火田民,賃金労働者となり,あるいは故国を追われて中国や日本に流亡せざるをえないほど矛盾は極点に達していた。

 一方国際的にも,1917年のロシア革命の成功,1918年のアメリカ大統領ウィルソンの民族自決宣言の発表などが大きな感銘を与えた。このような背景の下に,国内外で独立運動の機運が盛り上がっていた。

3・1独立宣言書
『東亜日報』2016年2月8日
  

 国内〔朝鮮のこと〕では天道教・キリスト教・仏教徒が中心となり運動を企画,1919年3月1日,33名が民族代表として独立宣言文(前掲の画像では「宣言書」)に署名し,運動の口火を切った。

 非暴力,平和的な運動をおこなおうとした指導者に対して,ソウル市内のパコダ公園に集まった学生,市民たちは自然発生的に示威行進を始め,デモ隊はみるまに数十万に膨れ上がり,ソウル中は「独立万歳」を叫ぶ人の波で埋まった(そのため万歳事件と呼ばれたこともあった)。

 もはや警察の手には負えなくなり,軍隊が出動して群集を解散させた。その3月1日には,ソウルのほかにも平壌など6か所でデモ行進がおこなわれ,運動の展開がいかに組織的であったかを示している。運動は都市から農村に広がっていった。在地の中農,書堂の教師,故郷に帰った学生たちがつぎからつぎへと指導者となり,運動を組織していった。

 地方での運動は市日(いちび)など村民が集まる日に起こされ,3月中旬には全道に波及,暴動に転化していった。民衆は鎌,鍬,棍棒などをもって,面(めん)〔行政単位で,日本の村にあたる〕事務所,憲兵派出所,駐在所など権力機構を襲撃し,ときには国有小作人名寄帳などを焼却している。これらは運動の主たる担い手であった農民の怒りがどこにあったかを示している。

 このような素手の民衆に対し,日本は正規の軍隊を出動させて弾圧した。村民を教会堂に集めて閉じこめ,一斉射撃をくわえ,さらに教会堂に放火した「提岩里の虐殺」はその一例である。

 朝鮮人の被害は,一説では死者7645人,被傷者4万5562人,被囚者4万9811人,焼却家屋724戸といわれている。国外でも,上海では独立運動者が集まって4月11日には大韓臨時政府を樹立し,間島,沿海州などでも断続的に武装闘争が展開された。

 3・1独立運動は朝鮮近代史の分水嶺であり,その後の解放闘争に決定的な影響を与え,日本の支配政策の転換を余儀なくさせたばかりでなく,中国の5・4運動をはじめとするアジアの解放闘争の高揚にも大きな役割を果たした。

 註記)以上は,https://kotobank.jp/word/三一独立運動-512829 参照。


 ※-4「〈白球の世紀:46 初の朝鮮大会,出場4校 高校野球」『朝日新聞』2018年3月14日夕刊

 1919(大正8)年3月,日本の植民地支配に抗して,朝鮮の民衆が立ち上がった。3・1独立運動である。「独立万歳」を叫ぶ声が朝鮮全土に広がった。日本の中等学校にあたる高等普通学校の生徒たちも独立運動を担った。8月,元海軍大臣の斎藤 実(まこと)が朝鮮総督に就任,それまでの武断政治から文化政治への転換を図った。

これは肖像画である。


 2年後の1921年7月5日,大阪朝日新聞朝鮮版に,第7回全国中等学校優勝野球大会の朝鮮大会開催を伝える社告が載った。1916年には朝鮮総督府の横やりで中止に追いこまれたが,ようやく開催にこぎつけた。新任の総督府学務局長は「野球の奨励はしないが禁止することもしない」(1921年7月10日付朝鮮版)という態度をとった。

 一方,日本人生徒が通う京城中の校長は,朝鮮の時局上,対抗試合は穏当でない,として開催に強く反対した(1926年8月6日付朝鮮版)。大会の注意事項としてつぎの一項がかかげられた。

 「応援は拍手の外之(これ)を禁ず但(ただ)し正式の応援歌は此(こ)の限(かぎり)にあらず」(1921年7月6日付朝鮮版)。応援の過熱を恐れたらしい。

 初めての朝鮮大会には京城中,仁川商,竜山中,釜山商が出場した。校長の反対にもかかわらず京城中が出場したのは,日本人だけの大会であることが考慮されたのかもしれない。大会は釜山商が優勝。朝鮮版の記事にはこうある。

 「特に吾等(われら)が感謝の禁じ得ないものは……近代団体遊戯の弊とする悪性の弥次(やじ)応援は全く一掃され,真に理想の応援が行はれたことである」。

 「勝てるものは歓喜に泣き,敗れたものはその悲痛に泣く……体育競技の外にかかる純真の感激を見出(みいだ)すものがあらうか」

(いずれも1921年7月29日付)

 
 ジャーナリストの石橋湛山が雑誌『東洋経済新報』に「大日本主義の幻想」などの論説を書き,日本は植民地を放棄せよと主張したのは,この夏のことだった。

 

 ※-5 石橋湛山「大日本主義の幻想」大正10(1921)年

 前段で氏名の出た石橋湛山が「大日本主義の幻想」として述べたのは,つぎの論旨であった。

 吾輩は,我が国が大日本主義を棄つることは,何らかの不利を我が国に醸さない,否ただに不利を醸さないのみならずかえって大なる利益を我に与うるものなるものなるを断言する。

 朝鮮・台湾・樺太・満州という如き,わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし,進んで東洋全体,否,世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは,いかばかりの利益であるか計り知れない。

 もしその時においてなお,米国が横暴であり,あるいは英国が驕慢であって,東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば,我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって,英米を膺懲すべし。

 この場合においては,区々たる平常の軍備の如きは問題でない。戦法の極意は人の和にある。騎慢なる一,二の国が,いかに大なる軍備を擁するとも,自由解放の世界的盟主として,背後に東洋ないし全世界の心から支持を有する我が国は,断じてその戦に破るることはない。

 もし我が国にして,今後戦争をする機会があるとすれば,その戦争はまさにかくの如きものでなければならぬ。しかも我が国にしてこの覚悟で,一切の小欲を棄てて進むならば,おそらくはこの戦争に至らずして,騎慢なる国は亡ぶるであろう。

 今回の太平洋会議は実に我が国が,この大政策を試むべき,第一の舞台である。

 註記)『石橋湛山評論集』「石橋湛山評論集~大日本主義の幻想」大正10年7月30日・8月6日・13日号「社説」,http://www.ishibashi-mf.org/profile/review/review_06.html. 

なお,読みやすくするためにあえて,改行箇所を適宜くわえて引用した

  21世紀の現段階になっている現在は,かつての経済大国の面影をほとんど失ったかのような「実相」になっている。とはいえ,日本は敗戦したがために「小国路線」を余儀なくされたとはいえ,まもなく,朝鮮戦争という千載一遇の大幸運に恵まれた結果,1970年代には「経済大国」にまで登りつめることができていた。

 石橋湛山の小国主義は戦前に提唱された主張であった。この意見に聞く耳など完璧といってもいいほどなかった旧大日本帝国は,ところが,その侵略戦争1本槍であった国家運営の方途を完全に破砕される結果を招来した。 

 その後ともかく,旧日帝の推進してきた戦争路線には〈歴史の因果〉がめぐってきた。 したがって,ここではいきなり話題は飛んでつぎの1945年8月のほうに移る。

 

 ※-6 1945年8月14・15日,米軍B29による日本本土空襲の記録

 「1945年8月14日23時半。『最後の空襲』で焼き尽くされた街があった-埼玉県熊谷市は,玉音放送の12時間前,火の海と化した-」『BuzzFeed NEWS』2017/08/14 17:01,https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/kumagaya-19450814 という題名の記事は,こう説明していた。

 1945年8月15日,日本は戦争に負けた。そのたった半日前に,「最後の空襲」に襲われた街があった。終戦があと1日早ければ奪われる必要のなかった266の命が,そこで犠牲になった。8月14日午後11時半ごろ。ちょうど,昭和天皇が玉音放送を録音しはじめようとしていたころだ。

 数十機のB29が,房総半島付近から侵入した。向かった先は,埼玉県熊谷市だった。総務省の「熊谷市における戦災の状況」の冒頭には,こんな文書がある。昭和20年(1945年)8月14日,この日は熊谷市民にとって永久に忘れることのできない日である」。

 当時のアメリカ軍は,飛行機の機体やエンジンを製造していた「中島飛行機株式会社」の重要な拠点が熊谷市にあるとみていた。それゆえに,空襲のターゲットとされていたという。「夕立雨のように」降り注いだ焼夷弾や照明弾。被災の状況は悲惨だった。先の総務省の資料ではこう記してある。

 市街地は瞬時にして火の海と化した。火に焼かれる者,傷つき倒れる者,逃げまどう人たち,子を探す親,父母を求める子どもなど,阿鼻叫喚の地獄であった。街は一面の焼け野原となり,多くの犠牲者が星川に,防空壕の中に,道路や溝に焼け死んでいた。とくに星川付近は100名近い焼死者が重なっており,悲惨の極みであった。

『BuzzFeed NEWS』2017/08/14
「鬼畜米英が民間人を虐殺してきた日本本土への空襲・最後の作戦」

 米軍の報告書は,〔1945年〕8月14日の空襲が大阪市にくわえ,秋田市,群馬県伊勢崎市,埼玉県熊谷市,山口県岩国市,同県光市の計6都市を標的にしたと伝える。各市史などによると,この日だけで少なくとも,計約2200人が亡くなった。

 註記)『朝日新聞』2017年8月14日夕刊。 次掲の画像資料もここから。

 1945年の8月14~15日に空襲を受けたのは,B29・89機が爆撃し,死傷者687人を出した埼玉県熊谷市だけではなかった。群馬県伊勢崎市にもB29・93機が襲来していた。

 そして,この伊勢崎と熊谷を空襲したB29が,帰路に余った爆弾を小田原市への空襲として投下した。こちらでは,死者が30~50人出た。この8月14から15日には,関東地方以外に秋田市土崎もB29・132機による空襲を受けていた。死者250人超,製油所全滅。

 太平洋戦争が終わる日まで,米軍のB29が日本の国土に対して執拗に絨毯爆撃をくわえ,民間人から多くの犠牲者が出ていた。しかし,その8月15日をもって本土ではほぼ戦闘行為は終了した。

 ここで再度,『朝日新聞』夕刊連載記事の「白球の世紀」に戻る。つぎには,その連載の50回目を引用する。


 ※-7「〈白球の世紀:50)『球審が不公平』棄権 高校野球」『朝日新聞』2018年3月20日夕刊

 1924(大正13)年7月28日,第10回全国中等学校優勝野球大会朝鮮大会が始まった。初出場の培材高等普通学校は,参加6校中ただひとつ,全員が朝鮮人のチームだった。培材高普は2回戦から登場し,釜山商を9-8で振り切った。29日の決勝で,2年前の優勝校,京城中と対戦した。

 培材高普が4-3とリードして迎えた8回,京城中に3点を許し,6対4と逆転される。しかし,まだ2点差。勝負は予断を許さなかった。ところが,培材高普は9回に入るところで試合を放棄し,京城中の優勝が決まる。当時の大阪朝日新聞朝鮮版はつぎのように書いている。

 「培材何が故にか棄権を申込(もうしこ)みたるを以(もっ)て主催者側は是非なく之(こ)れを容(い)れ終(つい)に京城中学軍は棄権の場合に於(お)ける規約に依(よ)り九対零を以て優勝するに至つた」(8月3日付)。

 培材高普がなぜ棄権したのか,記事は説明していない。一方,7月31日の東亜日報はこう報じていた。

 「(試合は)多数の警官が警戒する中で開始された。当初は培材軍が懸命に戦って朝鮮人観客を熱狂させた」

 「(しかし)培材軍は球審が不公平だという理由で棄権を宣言して退場した」

朝鮮代表として出場した京城中は
1924(大正13)年7月28日の
第10回全国中等学校優勝野球大会「朝鮮大会」の
優勝校であった

 植民地朝鮮では,競技上のトラブルが民族間の対立に発展することがあった。野球だけではなかった。1940年11月,釜山で開かれた学徒国防競技大会ではこんな事態が起きた。朝鮮人の学校が1位になると,日本軍人の審判長がやり直しを命じた。朝鮮人生徒は,朝鮮人の優勝を露骨に妨害している,と怒りを募らせた。

 補注)この「日本軍人の審判長」の判断は日帝側の理屈として,いちおう通っていた。つまり,朝鮮人より日本人のほうがすべてにおいて優秀,優越しているのだから,競技においても日本人ではない朝鮮人が優勝するなどといった事態は許されない,よって競技のやり直しを命じたというわけであった。

 後段に登場させる孫 基禎(1936年ベルリンオリンピック,マラソン優勝者)の場合も,日本人選手の出場者を優先的に決めておきたいがために,なんども選考会をおこなったが,日本人側の思いどおりにはならず悔しがっていた。

 ベルリンオリンピックのそのマラソンでは,3位にも朝鮮人選手の南 昇龍が入ったということで,日帝側はひどくむくれていた。優秀であるはずの日本人選手が,およびではなかった結果が出たのだから,その悔しさは量りきれないほど強かったと思われる。

補注

 つぎの画像を参照しておきたい。

2位はイギリス代表の
アーネスト・ハーパー(Ernest Ernie Harper)であった

 閉会式で,生徒たちは「民族差別をなくせ」などとシュプレヒコールをあげた。さらに,アリランなどを歌いながら釜山市街をデモ行進した。翌日,朝鮮人生徒14人が検挙され,のちに8カ月の実刑判決を受けた(西尾達雄「戦時体制下朝鮮におけるスポーツ政策」)(引用終わり)

 註記)「戦時体制下朝鮮におけるスポーツ政策」の掲載学術誌は,鳥取大学教育地域科学部『鳥取大学教育地域科学部紀要〈教育・人文科学〉』第1巻第1号,1999年9月,321~336頁。

 要は,当時「被植民地側の人間」がスポーツ競技大会で1位になって優勝したりすることは,日帝側からすればたいそう好ましくないどころか,まったくけしからぬ現象であった。否,多分あってはならない出来事だとみなされてもいた。

 先月(ここでは2018年2月),韓国で開催された平昌冬季オリンピック大会でもそうであったが,オリンピックの諸競技で優勝者たちが,自国の国旗を振ったり羽織ったりして会場を走りまわる光景は,まいどおなじみの場面であった。

 戦前の話となれば,植民地側の選手が,それもとくに “支配国側の選手に勝ったり” してはいけない。それは絶対にまずい出来事とされたし,どうしても許したくない場面が発生したということになる。

 そもそも,大日本帝国側の選手のほうが朝鮮(韓国)側の選手に「劣っているわけなど絶対にありえない」(はず!?)なのだから,植民地側の選手が勝利し,ましてや優勝するなどといった事態は,けっして記録されてはいけない「忌むべき現象」とみなされていた。

 というのも,そうした結果は,帝国主義が植民地を支配・統治する政治秩序を否定し,破壊する「脈絡:理由」を含意していたからである。とりわけ,植民地側における独立運動に火を点ける契機や原因になりかねないゆえ,なるべく事前に用心・警戒をしたうえで,そうした事象の発生を事前に予防する植民政策が,とくに厳重に維持されている必要があった。

 以上,話の筋書きは,戦前における旧大日本帝国とこの植民地にされていた旧大韓帝国(植民地になってからは朝鮮と呼んだ)との「支配⇔服従」関係に即して,しかもスポーツ競技の問題として論及した。

 本ブログの別稿では,1936年に開催されたベルリンオリンピックでマラソンで日本の代表として出場し,優勝した朝鮮人の孫 基禎が,その後の人生はいかに圧迫された状況に置かれてきたかという問題に言及していた。

 本日のこの記述は「ケント・ギルバートの人相話」から始めたものの,だいぶ脱線気味の論旨であったかのように感じるかもしれない。だが,実は,ギルバートのごとき人物が語るところは,旧日帝時代のこの国のありようを是とし,合理化しかねない危険な時代錯誤の発想に連絡していた。

 それゆえ,つまりはネトウヨ的な「連中」,いいかえると,まともな保守思想の持ち主とは縁遠い「目先でチョロチョロ発言することばかりが得意な言説」しか吐けない日本側の知識人もどきと,ケント・ギルバートとは,大いに親和性を醸せる仲間人物であったことになる。

 極右のネトウヨ的な感性でもって,排外主義のヘリクツを盛んに,それもゲロを吐き散らすかのように言動してきた,たとえば櫻井よしこや百田尚樹といった疑似知識人たちの言説は,

 まずよしこの場合,憲法学者の小林 節にいわせれば「この女性は憲法のイロハすら理解できていなかった」と,すでにこっぴどく批判し断罪してもいた。よしこは,小林がその事実を面前で指摘したさい,まっさおな表情になったまま,その場を去ったそうである。

 また尚樹の場合は,ウィキペディアからたくさん引用していながら,それでいて,かなりいいかげんな文章作りに活かすことに関してならば,とても得意な作家(?)だと酷評されている。

 よしこや尚樹と親密度の高い,しかも思考の次元においては,知恵・工夫・深慮の足りない人たちにかぎってだが,ケント・ギルバートの発言が粗雑で乱暴であっても,お気に入りの中身にくわえられているとなれば,両群の間柄は,もちつもたれつの仲間同士(悪友?)あったことになるのか。

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 ★「本稿(前編)」の続編「本稿(後編)」は,つぎの住所(リンク先)であるなる。
 ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nea1bcda456c5

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