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中内功の戦争体験-戦争が勇ましく感じられるのは戦争をする前だけ,21世紀に好戦的な政治屋たちに告ぐ,ダイエー創業者の飢餓の記憶をしらないのか-

 ※-1 戦争するのはなんのためか?

 2022年2月24日に「ロシアのプーチン」が始めたウクライナ侵略戦争が記録してきたその後の展開を観て,ほらみろ,日本も戦争のための準備をしておかないと,どこかの国が攻めこんでくるぞ,敵基地攻撃能力を発揮すべき状況がいますぐにでも起きるぞと,煽りたてたがる御仁が大勢いる。

 もちろん,最初にそうした戦争をすることを決める「国家の意思を下す」のは「年寄り連中」であり,つぎに「オヤジたちが出てきては,あれこれと指揮をしていく番」となっていくわけで,結局,最後に「その戦争で死ぬ目の遭わされるのは若者ばかり」だといった舞台回しになる。

 この古今東西かわらぬ「戦争という事態」をめぐり発生する人間社会の仕組みは,いつであっても既視感に溢れている。
 付記)冒頭の画像は,ダイヤモンド編集部「〈経営・戦略 The Legend Interview 不朽〉後継に失敗したダイエー中内功,『最後に“人”を残したい』発言の虚しさ」『ダイヤモンド online』2020.9.9 3:30,https://diamond.jp/articles/-/247980 から借りた。

 再言する。老いぼれの爺さんが始めて,いい年をしたおっさんたちが命令し,元気いっぱいの若者たちが死んでゆくのが,その「老人男性たちが始める戦争であり,その過程で死ぬ目に追こまれるのは,女・子ども,そして若者なのである」。

 本日のこの記述は「中内 功の戦争体験」をめぐり,戦争をしたがるが,自分たちは安全地帯からその戦争を煽る立場に居る「者たち」の好き勝手さかげんを批判的に検討してみる。

中内功・死亡記事,2005年9月19日に死去
 

 ※-2『比島決戦の歌』のレコード盤「現物」は発売されなかった

 この記述が言及するダイエー創業者の中内 㓛は,フィリピン戦線の生き残りであった。後段で統計図表を添えて説明しているが,太平洋戦争中にフィリピンで死んだ(戦死・餓死)日本兵の数は,実は中国戦線よりも多く,しかも他の戦場に比較すると,より短期間に50万人以上もの犠牲者を記録していた。

 1) 敗戦の年,勇ましい軍歌が作られていた

 第2次大戦も終わりになる1945年,大日本帝国時代における軍歌として,『比島 決戦の歌』(西條八十作詞・古関裕而作曲,歌唱;酒井 弘・朝倉春子,昭和20年3月)があった。この当時の新曲は,日本の負け戦も決定的になっていた当時の段階であっても,明るく勇ましい軍歌として歌われていた。

 ただし,この『比島 決戦の歌』のレコード盤じたいは発売されなかった様子であって,その代わりラジオで盛んに放送され,国民のあいだで覚えられ歌われたらしい。

 いまでも, YouTube の映像で聴くことができる。この軍歌は,当時の軍国日本の虚しい〈空元気〉を奮起させる効果をもっていた。この歌詞の1番のみ文字で紹介しておこう。 

         △『比島決戦の歌』1番 ▽
      決戦かがやく 亜細亜の曙 
            命(いのち)惜しまぬ若櫻
      いま咲き競う フィリッピン
            いざ来いニミッツ,マッカーサー
      出て来りや地獄へ逆落とし

比島決戦の歌・一番歌詞

 『比島決戦の歌』については,とりあえず,つぎの2編のユーチューブ動画の視聴を勧めておきたい。

 2) 地獄へ逆さ落としにされていたのは,ニミッツ,マッカーサーではなく,庶民(日本帝国臣民)のほうであった

  この軍歌『比島決戦の歌』は 1944〔昭和19〕年12月26日,酒井 弘,朝倉春子によって吹きこまれた。男女の組み(混声)で歌っているところが,特徴かもしれない。当時は,物資も乏しくなり,レコード化に時間がかかるようになっていたので,まずラジオの「国民合唱」の時間に流されることになった。

 放送を担当した丸山鐵雄には,視聴者の確かな手ごたえが伝わってきた。工場動員された挺身女子隊の女学生たちが隊列を組んで,「♪ いざ来いニミッツ,マッカーサー 出て来りや地獄へ逆落とし」と歌いながら,元気に走る姿が全国のあちこちでみられた,というわけであった。

 しかし,あるとき情報局より 丸山鐵雄のところに「比島決戦の歌」の放送打ち切りの申し入れがあった。「なぜです。こんなに人気があるのに」と迫る丸山眞男に,情報官は声をひそめながら答えた。「まだ極秘だが戦局は決戦どころではなくなった。敵はすでにマニラを占領し,わが軍は奥地に敗走中だ」。
 
 1945年3月3日,マニラが陥落した。3月10日,東京大空襲で東京は火の海となった。結局,吹きこまれたはずの「比島決戦の歌」のレコードが発売されることはなかった。
 註記)馬場マコト『従軍歌謡慰問団』白水社,2012年,175-176頁。

  敵将のニミッツを逆さ落としにさせるまえに,この「比島決戦の歌」を,ラジオ放送をとおして憶え,勇ましく謳っていた少国民や女学生は,自分たちの父や兄たちが当時,フィリピンの山中を逃げまわっていたこと,そしての大部分が生きて日本の帰れなかったことを,まだしらなかった。

フィリピン戦線で日本兵士だけで50万人以上の犠牲者
フィリピン戦線・犠牲者総数

 1945年3月10日未明からの東京大空襲などでは,老若男女を問わず大勢の民間人が,雨あられと降りそそいできた焼夷弾の犠牲になった。その後もつづけて,アメリカ軍B29による非戦闘員に対する無差別絨毯爆撃が「日本全土に対する戦争行為として実行」されていた。

 しかし,戦場そのものと化したフィリピン戦線においては,その犠牲者総数をみれば分かるように,もっとも犠牲者を強いられたのは,フィリピンの正規・非正規を問わない「軍人たち」もさることながら,民間人からの犠牲者たちでもあった。

 ※-3 比島で死ぬほどに苦闘したダイエーの創業者

 2014年9月24日に報道されていたニュースは,スーパーのイオンがダイエーを完全子会社化した事実をしらせていた。

   ★ 店舗名「ダイエー」なくなる イオンの完全子会社化で ★
 =『日本経済新聞』2014年9月24日 19:36,https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ24HHY_U4A920C1000000/
 
 イオンは〔2014年9月〕24日,連結子会社のダイエーを2015年1月に完全子会社にすると正式発表した。業績が低迷するダイエーの店舗網を再編し,グループ一体で収益改善に取り組む体制を整える。

 東証1部に上場しているダイエー株は〔2014年〕12月26日付で上場廃止となる予定。2018年度をめどに「ダイエー」の店舗名もなくなる。

 イオンはダイエーを完全子会社にするため,ダイエーの株主にイオン株を割り当てる株式交換を実施する。交換比率はダイエー株1株に対し,イオン株0.115株。ダイエーは11月開催予定の臨時株主総会での承認を経て,2015年1月1日にイオンの完全子会社になる予定だ。

 ダイエーの完全子会社化により,イオンはグループのスーパー事業の店舗網再編を加速する。都内で記者会見したイオンの岡田元也社長は「ダイエーは過去10年,リストラに次ぐリストラだった」と語り,ダイエーを首都圏と京阪神エリアで食品に特化した店舗として再生させる方針を示した。

 ダイエーの店舗数が少ない北海道や九州地区では,イオン北海道やマックスバリュ北海道などイオンのスーパー子会社に店舗を集約する。

 イオングループ内の店舗再編を通じ,2019年2月期にはダイエーの店舗数を現在より約20店多い300店体制をめざす。また岡田社長は5年後に売上高5000億円,営業利益は150億円をめざす考えを明らかにした。

 ダイエーの2014年2月期の連結決算は売上高が前の期比2%減の8136億円,営業赤字は74億円(前の期は26億円の赤字)だった。今期も従来の黒字予想から一転し,3期連続で営業赤字となる見通し。抜本的な収支構造改革が急務となっている。

 ダイエーは故中内 功氏が創業し,1972年には売上高で小売業日本一を達成。1980年には国内の小売業として初めて売上高が1兆円を超えた。ただその後は事業多角化の失敗や本業不振が重なり,多額の有利子負債を抱え2004年には産業再生機構の支援を受けていた。

 イオンは2013年8月末にダイエーに対する出資比率を引き上げ連結子会社化。2014年2月末時点で発行済み株式の44.15%を保有している。  

ダイエーの消滅,2014年

 ダイエーというスーパーを一代で築き上げた中内 㓛は,実は,前項※-2に触れた《比島の地獄》を生き抜いてきた1人であった。このときの戦場体験が商売をしていくうえで生かされたと,中内はいっていた。

 だが,戦争中に『比島 決戦の歌』を銃後で歌っていた者たちの様子を,フィリピンにいた中内がしることになったとしたら,きっと激怒したに違いあるまい。

         ◆ 太平洋戦線 傷痕いまも ◆
    「ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア」
     =海外戦没者240万人 未収集遺骨112万柱=

 戦場には多くの兵士の遺骨が残された。NPO法人「戦没者追悼と平和の会」(佐賀県みやき町)は,その帰還運動をおこなっている。塩川正隆理事長(70歳)の叔父は,フィリピン・レイテ島で戦死した。歩兵第77連隊の中隊長だった叔塩川正隆表紙父の死の詳細は不明で,祖父母は戦後長いこと「生きている」と信じていた。
 
【参考記事】 -引用中の記事の間に紹介する,またほかの記事-

塩川正隆・発言

〔本文の記事に戻る→〕 同連隊3千人のうち復員したのはわずか3人。その1人の永田勝美さん(故人)と慰霊祭で偶然会い,叔父の消息が分かった。「亡くなりました。私が埋めましたから」。

 そして戦後も,多くの遺骨が帰国できずに現地に残されていることをしり,永田さんとともにフィリピンの遺骨収集にかかわった。だが,戦病死した叔父の遺骨は,いまもみつかっていない。亡くなった永田さんは「戦争は悪。しかし,(戦死者も)戦争被害者」という言葉を残した。

 現地に遺骨が野ざらしにされている戦死者もまた戦争被害者である,という視点は,塩川理事長の父への思いにもつながっている。沖縄で戦死した父の遺骨の手がかりを求め,1977年,沖縄の遺骨収集にくわわった。防空壕(ごう)でみたのは,戦後30年間も放置されていた白骨化した遺体。衝撃を受けた。「うそやろ。これじゃ父は浮かばれない」。

 海外戦没者の遺骨収集数は127万1千柱(7月末現在)で,いまだに112万9千柱が未収集だ。その膨大な数字の背景には,飢餓や病死,捕虜収容所での衰弱死などさまざまな死があり,それぞれが父であり夫であり,息子や兄,弟であった。戦後70年を前に,風化しつつある戦場の現実について,その場に身を置き,いまも忘れられずにいる人たちの証言などをつないで考えてみたい。
 註記)『西日本新聞』2014年09月23日朝刊,http://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2014/vol04/page01.shtml

 さて,まだ「戦後も,多くの遺骨が帰国できずに現地に残されている」。「うそやろ,これじゃ父は浮かばれない」と悲歎されているが,しかし,その遺骨たちの怨霊だけは,東京の靖国神社にきちんと《英霊》として舞い戻り,合祀されているというのだから,不思議も不思議である。

 「遺族」の立場になって考えれば,英霊にならなくてもよい,戦地に送られた「父や夫や息子が生きて帰ってさえくれたほうが,何百倍・何千倍よかった,うれしかった」はずである。「御国のために死んだ」といって喜ぶ態度を示すのは,あくまでタテマエ。自分の息子があの戦争で死んで喜ぶ母親は,ホンネでいえば本当は1人もいなかった。 

 前段に紹介した軍歌『比島決戦の歌』は,現在でもたとえば,前掲の YouTube で聴けるわけだが,当時(戦時中)において,銃後(日本国内)にいたちまたの人びとは,この軍歌とフィリピン・マニラ付近で起きていた戦争状態(1944年10月20日 – 1945年8月15日)と自分たちが居た日本本土とのあいだには,「想像もしえないほどの〈激烈な格差〉」が介在していた事実をしりうる由もなかった。

 本日(2023年5月6日)からだと,早10年も前になるが,いまは故人となった元首相安倍晋三が,つぎのような画像を残していた。

戦車に搭乗した安倍晋三君

 軍歌を歌って楽しむ分にはけっこう。ただし,その気分で戦場に出向きたい人は,そうしたらよい。戦争というものの本質がよく判ることになる。きっと,骨身に浸みてその辛さを思いしらされる。

 どこかの国の元総理大臣閣下は,戦争の真の怖さをしらなかった。しらないがゆえに勇ましいことばかりいえた。なんといっても,戦争事態になっても自分は,遠巻きにしか観る必要がないから……。なにについても,どうにでもいえる……。

 あの大東亜戦争中も高位の将官・佐官級の〈兵隊〉が,いざとなると死にたくないものだから,戦地から逃げた(逃亡した)何人もの記録がある。インパール作戦で大失敗を冒した牟田口廉也は,前線牟田口廉也中将画像から遠くに作戦本部を構えて指揮をとっていたつもりであったが,その作戦が死骨街道を作ることにしかならなかった。 

 牟田口廉也(1888~1966年)は,大日本帝国陸軍で最終階級は陸軍中将であった。現代では,史上まれにみる愚将として有名である。あまりにも盆暗(ボンクラ)で,兵隊からは「鬼畜牟田口」「無茶口」と罵られた。
 註記)http://dic.nicovideo.jp/a/牟田口廉也 参照。

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