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原 朗『創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって』同時代社,2020年2月の公刊が意味する学問のあり方,小林英夫における学術作法「逸脱の問題」,そして「日本的に絶望の裁判所」(1)

 

 ※-1 小林英夫は,所属校であった早稲田大学当局に盗作をしたと判定された(1966年の論文について)が,原 朗の立場からすれば,1970年代前半に盗作をした疑われて当然と観察される軌跡を,明確に残してきた

 しかもこの問題の場合,社会科学における「剽窃の問題」が同一人において半世紀近くにもわたり持続させられてきた事実は,非常に異様かつ突飛とも解釈されて,なんらおかしくない経過としても注目される。 

早稲田大学に勤務のころ

【本稿記述の要点】
 本来,注目すべきことがらは「研究力の不足」だったのか,それとも「研究者としての人間の倫理的な問題」だったのか,学術研究の専門的な展開にかかわる問題であっただけに,この剽窃問題をめぐる「事実の分析・理論的な把握」には「根気のいる努力」と「持続した苦労」が必要となっていた。

 --以上のように書き出しても,なんのための議論がこの記述のなかでおこなわれるのか分かりづらいと思うので,その後になって『週刊読書人』2022年10月14日に掲載されたつぎの記事を紹介しておきたい。

 ただし,観てのとおりこの画像資料は,ネット上で宣伝用に公開されている部分に限定されているので,これに映っていない段落・文字の部分が残っている。この記事「全文」を読みたい人は,地元の県立図書館にいけば現物で読める。

 ここでは,引用者が〈縦長の赤色楕円〉で囲った見出しのみ留意してもらうことで,この『週刊読書人』の記述が全体で論じようとした趣旨,つまり学問をめぐる今回の問題が,

 日本の裁判所という国家司法制度という枠組のなかで,学問の問題としてどのように審理(議論)されたか,そしてあるいは「まったくなされなかった」かについて,その前提となるべき論点が,最低限は感知してもらえるものと思い,紹介してみることにした。

『週刊読書人』2022年10月14日

 この書評紙でとりあげられた原 朗編著『学問と裁判-都立大・早稲田大の倫理を問うー』同時代社,2022年8月は,次段以降でくわしく言及される同じ原 朗の前著,原 朗『創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって』同時代社,2020年2月の続編である。
 補注)その原 朗編著『学問と裁判-都立大・早稲田大の倫理を問うー』同時代社,2022年8月に関する議論は「本稿(2)」の公表も予定しており,もっぱらそちらでとりあげることになる。

 小林英夫ほどではないけれども,学問業績を協働的に挙げたさい,その成果を複数かかわった人びとがどのように「関与し,共分するか」といった問題は,事前にかなり慎重に配慮したとりあつかいをもってとり決めておかないと,なにかとあとで紛糾の種になりやすい。

 本ブログ筆者が実際に経験したこういう「思い出」話がある。

 職場の同僚たちとの共著で制作したある教科書(専門書だが)の場合,この出版を請け負ってくれた出版社の担当者が,筆者の同僚の1人としりあいだったせいか,実際に,できあがって出版されようとしたこの本の執筆陣を表記するさい,著者の氏名がなんと,

 その同僚の「姓名プラス『他』 著」となっていた。これにはさすがビックリさせられた。このような執筆陣の著者表記になるとは,まったく予想だにしていなかったからである。 

 以上の記述(説明)では理解しにくい面があるかと考え,その本の「箱」から該当する部分を画像にしておき,さらに説明しておく。姓名を特定できないように抹消した部分が多いが,問題のその「他」という文字は,残した画像である。

「他 著」という執筆者表記

 ところが,この本の中表紙を開いてみると,執筆陣全員7名の氏名が並んでおり,こちらではこの本は共著だと明記されていた。そして,さらに奥付をみると,ここもまた「その人の『姓名プラス 他 著』」となっていた。

 結局は,そのように「ある人の『姓名』」⇒当人以外の6名は共著者の位置づけになっている,と解釈されうる表記であった。その「ある人」があたかも編集者となって執筆がなされたかのような表記になってもいた。ともかく,この本のなかでは一貫しない表記がなされていた。

 しかし,その「ある人」が編者だとは,どこにも表記されていなかった。とはいえ「他」をしたがえたかたちで,その「ある人」が位置していたかのような体裁になっていた。

 まずいことがらがさらにあった。本ブログ筆者の姓名のふりがなが誤記されていた。この点の確認のための校正が,筆者の方に回ってこなかったということである。出版社側の手違いでなければ,単純ミスである。

 以上のように触れてみた1件であったけれども,「共著者からなる本」の制作・発行をする場合,編者を置くのか,置くとしたら誰がなるのかという相談・決定が事前になされておき,誤解や齟齬が生じないようにきちんと決めておく必要がある。この点は,出版業務にたずさわる出版社の立場にとってみれば,あまりに当然の手順であり,常識に属する初歩的な配慮事項である。

 だが,以上の話に出した事例では,そのような打ち合わせがまったくなく,その「ある人」の先輩筋(某大学の卒業生同士)だという因縁があってのことか,ほかの共著者6人には事前の断わりもなく,その「彼=ある人」がまるでその本の「執筆代表者」であるかのようにも受けとれる表記を付した体裁で,公刊された。

 本ブログ筆者は当然,以上に説明した点に関係する疑問を当該の出版社に対して尋ねたところ,つまり,その本の出版に関して当然に必要だった事前の打ち合わせや相談,そして同僚たちの事前の同意もなにもなしに,以上のような執筆者陣の「勝手な仕分けをして」おき,「その本の名称やそのだいじな部分の表記」までもいじった点に関して生じた疑問を問い合わせたところ,その窓口で担当の編集者となっていた当人が「むくれること,はなはだしかった」。

 あげくに,以上のごとき指摘をした筆者を逆恨みし,その後数十年は根にもっていた様子がうかがえた。しかし,筆者が出版業界に関してしっているつもりである範囲内の情報でも,そうした担当の編集者のやり方は非常識であり,恣意に流れた仕事を意味した。

 話が若干それていた。ところで,原 朗が小林英夫に業績の基本構想を盗作された疑いが圧倒的にかつ濃厚であった「剽窃事件」については,関連してたとえば,佐々木実『市場と権力-「改革に憑かれた経済学者の肖像-』講談社,2013年から,つぎの頁を画像資料にして紹介しておく。これは,相当示唆に富む資料になるはずである。あの竹中平蔵がこの紙面には登場している。

佐々木実『市場と権力』60-61頁

 ※-2 原 朗『創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって』同時代社,2020年2月の公刊

 当時であったが,この本の広告が出ていたので,早速注文して入手した。自宅にこの本が投函され届いたのは2020年3月2日であったから,前日の午前中には注文していたはずである。到着後,ともかく,早速読みはじめた。

 この本について事前にそれも予断的にだが感知していたつもりであった論点は,多分,「裁判官が専門的な知識で追いつけず」に「トンデモない判断(裁判の審理)をしていた」のではないか,という「予想」であった。

 実際に,この本を手にとり読んでみた結果としては,まったくそのとおりの中身であったという判断しか下せなかった。

 簡単にいってしまえば,法理の専門家である裁判官には荷の重すぎた,社会科学的な「剽窃問題」の検討・吟味が迫られていることが,痛感させられた。

 学問や理論,ここでは経済学・経済史,それも戦時体制期における東アジア圏域の国際政治・経済史にかかわる「専門的な学識を前提とした裁判における審理」が,東京地裁および東京高裁の判決がともに,

 経済学の研究分野において提訴された中身を詮議をする実力・能力(学識や情報)が,担当した地裁・高裁ともに最初から完全といっていいくらいもちあわせていなかった点や,裁判・審理を進めるうえで必要となるはずの最低限の理解努力すらが,最初から放棄されていたとみなすほかない経過が,実に恥ずかしい記録として残された。

 原 朗のこの本『創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって』のなかでも触れられているように,裁判(官)が学問の内容について,その研究領域の業績・成果に関した現状把握をよく理解できないまま詮議した結果,しかも今回の場合,「盗作」された原が「盗作した側の小林英夫」に提訴されて,一審・二審ともに被告の原が敗訴までするという,学問の世界における視座からみれば “驚天動地の顛末” が現象させられていた

 原 朗(1939年東京市生まれ)は,近現代日本経済史を専攻する経済学者である。1966年東京大学大学院経済学研究科博士課程中退,東京大学経済学部教授,同大学大学院経済学研究科教授,2000年定年退官,名誉教授。その後,東京国際大学経済学部教授,首都大学東京客員教授。

原 朗・略歴

 本日のこの話題に関しては,ここで “そもそもあった以下の話” をする。

 小林英夫が学究として初めて公表した学術論文「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」『労働運動史研究』第44号,1966年6月の内容が(次項がこの論文の現物を紹介しているが),なんと48%も割合で原資料(朝鮮語:韓国語を翻訳)の文献資料からの盗作:利用であった。

 その小林「論稿」1966年の延長線上に,小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房,1975年が位置する。こうして理解する「前後の関係性」は,本記述の議論全体のなかでいえば,大筋においても枝葉においても間違いなく,大前提に置かれるべき事実認識となる。

 補注)なお,ウィキペディアの「小林英夫盗作行為の起源」は,次段の2つの段落が,つぎのように解説していた。ただし,現在(2023年3月22日)においては,そこに該当する記述はみつからず,削除されたと推察する。

 堀 和生が最初に,小林英夫の処女論文の「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」が,北朝鮮の学術雑誌に発表された論文,尹 亨彬「1929年元山労働者の総罷業とその教訓」『歴史科学』1964年〔第〕2号の剽窃であった事実を指摘した。

 小林英夫は,尹 亨彬論文の結論部分を,出所を明示することなくほとんどそのまま引用しており,小林論文のなかで尹 亨彬論文と重複する比率は,前述したように,文字換算すると48%に達していることが,だいぶ「歴史の時間」が経過してから「バレた」のであった。

 すなわち,その事実がいまとなっては,「小林英夫自身にかかわる問題性のありか」を,より明瞭に教示する出発点であった点が,あらためて確認された。

 「小林英夫原告 × 原 朗被告」という裁判の構図のなかでは,いったいなにが肝心な問題として争点になっていたのか,まえもって確実に理解しておく余地がある。

  小林 英夫(こばやし・ひでお)は(1943年東京生まれ)は,近現代日本経済史を専攻する経済学者である。

 1966年東京都立大学経済学部卒業,1971年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了後,同経済学部助手,1973年駒澤大学経済学部教授(~1997年),1978年文学博士(東京都立大学),1997年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授,2014年早大定年退職。

小林英夫・略歴

 

 ※-3「原朗氏を支援する会」ウェブサイト(https://sites.google.com/view/aharashien/ホーム)から

 このホームページは,2020年3月3日の記述をもって,つぎのように報告していた。冒頭の段落付近からしばらく引用する。ただし,この住所(頁)は本日,2023年3月22日にあらためて検索してみたところ,削除されていた。念のため。

   ◆ お知らせ ◆

  【早稲田大学が小林英夫氏の過去の論文を「盗作」と断定しました】            (2020年3月3日更新)

 a) 原 朗氏を名誉毀損で訴えている小林英夫氏は,ほかにも盗作事例が多い人物であるといわれており,原氏が刊行を予定していた著作物の内容・構想を小林氏が無断で先に出版してしまった今回の事案も,その一つであったと私たちは考えております。

 補注)ここで「小林英夫」「は,ほかにも盗作事例が多い」と説明されている点は,今回におけるこの問題を決定的に印象づける表現である。

 「三つ子の魂百まで」とよくいわれるが,前出の「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」は,実は小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』1975年にとってみれば,その「嚆矢」を意味していたと解釈できる。

〔引用の記述に戻る→〕 この件に関連して私たち,原 朗氏を支援する会では,小林氏が早稲田大学に所属しておられた時点で,自著『論戦「満州国」・満鉄調査部事件ー学問的論争の深まりを期して』(彩流社,2011年)に収録した自身の過去の論文が,〔前述にもあったとおり〕

 尹 亨彬著「1929年元山労働者の総罷業とその教訓」(『歴史科学』1964年第2号,1964年3月刊,朝鮮語)の盗作であることを発見し,早稲田大学に対して本会の会員個人(以下,「通報者」という)の名によって,その点の確認を求めておりました(2019年7月2日)。

 補注)1966年の盗作論文を半世紀近くも時間が経過して,新著のなかに収録するという勇気(蛮勇?)には感心させられるが,小林英夫は「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」と題した論稿が,いつか必らず,誰かの手によって「その秘密が暴露される」かもしれない危険性を,前もって抱いていなかったのか? 

 その間においては,日本人研究者で韓国語を駆使して研究する学究の数が大幅に増えた状況をしっていたはずである。そうした「危険性」(自分の盗作がバレてしまう可能性)が徐々に高まってきた時代の流れを感知(不安視)していなかったのか,ということになる。

 学問の世界では正式に公表された文献・資料は永久的にといってくらい,その現物は残りつづける。否,残りつづけてこれを克服し,発展させていく必要があるからこそ,図書館という容れ物(資料館)があった。電子化されても事情は変わらない。

 本ブログ筆者はだいぶ昔になるが,韓国語で書かれた「韓国労働運動史」のある本を読んだとき,元山ゼネストに関した記述部分に接したことがある。しかし,いまではその本はだいぶ以前に処分しており,ここにもちだす材料にできないことが残念である。

 ともかく,小林英夫がその原資料(『東亜日報』1929年当時など原資料)を利用した『元の朝鮮語文献』を,大々的に剽窃していた事実が,いまごろにもなって「白日のもとに晒されている」。この事実は未来永劫に消えることがない。

 相当に時間はかかったが,まさに「天網恢々疎にして漏らさず」ではないか。それでも,小林英夫はこんどは,早大当局を相手に自分は盗作はしていないと,裁判に訴えることにでもなるのか?

〔引用の記述に戻る→〕 この間の経緯はすでに本ホームページの「おしらせ(2019年8月31日更新)」に掲載してあるとおりです。また,その関連文献は本ホームページの「おしらせ(2019年6月28日更新) 小林英夫氏の剽窃疑惑に関する新たな指摘について」にも,原 朗著『創作か盗作かー「大東亜共栄圏」論をめぐって』(同時代社,2020年2月)の471~488頁にも収録されております。

 b) 私たちの照会を受けて早稲田大学では,学術研究倫理委員会が学内規則にしたがって調査委員会(学外者,朝鮮史研究者を含む)を設置して審理をおこない,本〔2020年〕2月25日付けで「アジア太平洋研究科における研究不正事案(盗用)に関する調査報告書」(以下,「報告書」という)を採択し,通報者にその旨,連絡がありました。

 小林英夫の「当該論文」,「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」『労働運動史研究』第44号,1966年6月については,つぎのように「その現物」が紹介されている。これをのぞいてみれば,「小林論文のなかで尹 亨彬論文と重複する比率は,文字換算すると48%に達している」事実が,視覚的にもすぐに分かる。盗作している個所にはすべて赤線(で傍線)が引かれている。

 以下の画像資料がその現物である。

小林英夫「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」の剽窃部分

 〔その早大の〕「報告書」は小林氏からの聞き取りを含む調査をおこなったうえで,「小林氏が盗作をおこなった」事実を明確に認定しております。公開されている同大学の学内規則によれば,この事案は今後,アジア太平洋研究科での審議を経て,理事会による処分の決定に移ることになったと理解されます。

 c) 小林氏の盗作方法(ここでは『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房,1975年に関する話題に移動している)は,文章そのままをまねるという方式ではなかったため,これまで名指しの批判はなされてきませんでしたが,論文の冒頭で何人もの先行研究者の名前を列挙し,本論に入ると個々の実証,評価ともに,内容的には特定の研究者の成果をそのまま利用しているにもかかわらず,読者にはすべて小林氏の研究成果とみえるようになっている点で共通しています。

 今回の事案についても,調査委員会の調査に対して小林氏は,引用した研究者名を先行研究者として最初に断わっているのだから盗用には当たらないと主張していますが,調査委員会と学術研究倫理委員会は学術的にみてそれは認められないと判断して,明確に「盗用」と認定しています。裁判官は「盗作とまではいえない」と判断停止状態であった小林氏の手法が,学術界の当然の基準によって明快に断罪されたことの意義は大きいと評価できます。

 e) 原 朗氏の裁判においても小林氏がとっている手法はこの事案と同じなのですから,小林氏の行為は盗作に当たるはずであり,したがってその事実を指摘した原 朗氏の行為が重い責を負わされる理由はなく,最高裁が一審,二審の判決を追認することは許されるはずはありません。

 この案件の経緯を最高裁に伝えることによって,最高裁が素直に事実に向かいあい,地裁,高裁の誤った判断を正すことを切に望みます。それが実現すれば,司法の判断によってではなく,学術界の判断が主導して,他人の業績を盗用した不祥事が正当に指弾されたという望ましい結果を,私たちは手にすることができます。

 その可能性に期待して,私たちもいっそう努力したいと決意を新たにしております。そのために必要であれば,今回の事態の詳しい経過や小林氏の他の類似案件等についても,このホームページで事実関係を明らかにしていきます。(中略)

 f)〔原 朗『創作か 盗作か 「大東亜共栄圏」論をめぐって』同時代社,2020年は〕6年半を経過してなお決着がつかない長期裁判のなかで,原氏側から提出した主張類と,一審・二審の判決,原氏の主張を支える堀 和生氏・松村高夫氏の「意見書」,小林英夫氏による他の剽窃行為の新証拠などを収録し,それらのおのおのに原朗氏本人がそれぞれ短い解説をつけて読者の便に供しています。

 この裁判は,盗作された側が訴えられ,盗作した側は「盗作とまではいえない」として推定無罪とされ,他方,原氏は無罪の者を「盗作」と口外したとして名誉毀損で有罪とされ,多額の賠償金を課せられています。

 万一この判決が最高裁でも維持されると,学会・大学等で盗作と判断した事案が,裁判に訴えられれば,事案を提起・審議・処分決定した人たちが名誉毀損に問われることになりかねません。

 最高裁判決に向けて,ぜひ本書をお読みになり,ご支援くださいますようお願いいたします。
 補注)なお,ここ前後する記述は,最高裁にまで裁判が進んでいない段階でのものである。

 g)「石井寛治氏の推薦文」から

 本来, 剽窃の認定は,アカデミズムの内部で自治的・自律的に判断が下されるべきものです。にもかかわらず,小林氏は,突如として司法の場に自己の正当性を訴え出たのでした。そして,2019年1月に下された第一審判決では,原告である小林氏の主張を大幅に認め,被告である原氏に対して賠償金220万円及び遅延損害金の支払いを命じるという不当な判断が下されました。

 そこでは,分析視角の設定や歴史的事実の確定は「誰にでも行い得るもの」として独創性を否定され,表現の類似や重複も免罪する,現在のアカデミズムにおける厳しい基準からすれば極めて杜撰といわざるをえない認識が示されていました。(中略)

 h) 原 朗氏を支援する会(以下,本会とする)を構成する私たちは,この裁判が小林氏と原氏との個人的な関係に留まらず,社会と学界にとってきわめて深刻な意義を有するものと捉え,裁判資料を公開することによって広く問題を提起したいと考えています。

 i)【新年のご挨拶】(2020年1月1日更新)

 原 朗氏より皆様へのお礼を兼ねた年頭のご挨拶が送られてきましたので,掲載いたします。

  「支援する会」のみなさまへ -2020年を迎えて- 原  朗

 昨年中は貴重なお時間を割いて,たびたび小生の裁判の傍聴や集会などにお集まり下さり,さまざまな形で大きな力強いご支援を賜りまして,まことに有難うございました。年の初めにあたり,みなさまの本年のご健勝とご研鑽を心からお祈り申し上げます。

 ご承知の通り,私の裁判では地裁・高裁とも,学問的にはほとんど理解不可能な,誤まった不当な判決に終わりましたが,昨〔2019〕年11月下旬に無事「上告理由書」と「上告受理申立理由書」を裁判所に提出することができました。

 最高裁判所の判決までには若干の時間がかかるようですので,現在私は裁判の記録のとりまとめの作業を進めております。地裁や高裁の際のような司法による非論理的かつ非合理的な判決がそのまま学術の世界に持ち込まれることは絶対に防がなければならないと考えるからです。

 まず地裁の判決があった時点で,私はこの裁判が,被告である私と原告である小林英夫氏との個人的な争い,すなわち盗作(盗用・剽窃)行為の有無・名誉毀損行為の有無のみにはとどまらず,裁判所と学界,すなわち司法的判断と学術的判断との深刻な対立を含むものに局面が急変した,そう判断いたしました。

 学界において長い年月をかけて作りあげられてきた研究倫理に関する慣行と議論を無視した根拠のない判定がなされたのです。地裁の裁判官たちは,この学界の盗作を厳禁する慣行を無視し,それと全く異なる非学術的・恣意的な基準を用いて,被告の主張をほとんど全面的に退け,学術的・学問的にみて本質的・内容的な論点は全て回避し,表面的・形式的論理のみによって判決を言渡しました

 研究不正を行ったものを,学界が自律的に処分した場合に,被処分者が裁判所に訴え出れば,形式的・非学問的基準によって逆に「名誉」が回復されるばかりか,数百万円の慰謝料すら得ることになり,学界に大混乱をもたらすことになりましょう。

 裁判に要する長期の時間と巨額の費用を考えて,研究不正の摘発は極めて抑制されることになるのは必至です。地裁では審理に6年近い時間を費やし,何回も判決期日を延期しながら,最終的には没論理的にただただ原告側を勝訴させるためにひたすら原告側の誤った論法に辻褄を合わせ,上記のような学術と司法の深刻な対立の問題を孕む判決文を急遽とりまとめざるを得なかったのだ,という印象を禁じ得ませんでした。

 高裁での審議と判決にも驚くことがいくつかありました。まず5分もかからぬ初回のみの結審で,最後の事実審としての役割は全く果されなかったこと,判決期日は1回延長されただけでしたが,他の案件と十把一絡げに判決がなされたこと,判決の内容が地裁判決の不備を弥縫するのに懸命で,当方がすでに地裁段階から詳細に示しておいた「剽窃の定義」も全く無視してわざわざ『広辞苑』などの簡単な語釈などに依拠したことについては,驚倒するほかありませんでした。

 また当方への立証責任のハードルを極端に高めたこと,「(剽窃)とまではいえない」というレトリックを何回も多用して,なぜ「とまではいえない」かの論証は全くなされていないこと,学術と司法との関係にも全く無意識であること,地裁判決を維持することに汲々として,本質的論点については地裁判決と同様に全く触れず,要するに高裁判決と地裁判決とはお互いに庇い合おうとしていることが明白に読み取れてしまうこと,等々枚挙にいとまがありません。

 地裁・高裁の審理が上記のようなものでしたから,その実態を明らかにするためには,原告の訴状提出から,地裁・高裁を経て,今回の上告に至るまでの経過を私なりに整理し,要約して,「司法」的判断がこれほどにも非論理的であることを,学問の世界で日夜研究教育に励んでおられる方々や,一般社会の市民の人々に,具体的にこのような裁判が進行中であり,かつ最高裁の判断を求めていることを,裁判関係の当事者のみではなく,他の分野の研究者や一般読者にもわかりやすくまとめておくことが必要だろうと考えました。

 やはりこの裁判も歴史の中の一つの事件として,時の流れに沿って書き綴っておきたいと思うわけです。まだ少々時間がかかるかと思いますが,しばらくお待ち下さいますよう。そして今後ともこの事件と裁判につきよろしくご支援のほどお願い申し上げます。 以上をもちましてみなさまへの年初のご挨拶かたがた現状のご報告とさせて頂きます。
  2020年1月1日
 

 ※-4 本ブログ筆者の関連するかのような思い出

 いまからだとだいぶ昔になる。大学の教員になりたてのころであった。同僚の,それも本ブログ筆者と年齢の近い(若干年上だった)教員が,他大学のある教員が書いた論文1編を,まるごと剽窃というか,完全にドロボウして自分の論文として,自学の研究紀要に投稿し,公表した。

 ところが,この事実はたちまち盗作された当人にバレてしまい,当方の大学幹部にその旨の抗議がなされた。その後のくわしい経緯はさておき,論文の盗みをしたその教員はただちに大学を辞めた。ただし,その処理(処分)の方法は,彼の同僚たちに対しては,その論文剽窃の事実を教えていなかった。だが,その事実はたちまちに同僚たちがしることになった。

 この事件を起こすとき,その剽窃行為をおこなった教員は,実はほかの件でも “同僚との関係” のなかである特定の “出し抜く行為” もしていた。どういうことかというと,本ブログ筆者が当時所属していた当該の大学が新学部を作った初年度だったので,これを記念して特集・記念号を組むことを企画したのだが,それ(学部の特色)に適した論文を,既存学部に所属するわれわれ(本ブログ筆者を含む数名)に対して,そのうちの誰かが寄稿してほしいという依頼があった。

 その数名のなかに前段の彼(教員)も含まれていた。ところがその後,なんの相談も協議もないまま,彼の論文がいきなりその特集・記念号に掲載されていた。本ブログ筆者やそのときいっしょにその寄稿の依頼を受けていて,それでは,あとであらためて皆で相談のうえ,誰が請け負って書くか決めることにしようということになっていた。にもかかわらず,彼が独断の抜け駆けで内緒・勝手に寄稿していた。

 ところがである,この彼が書いた論文が前段に触れたように,完全にといっていいくらい百%そのもの剽窃したものであった。結局,彼は2つの過ちを犯していた。

 ひとつは同僚を無視して自分で書いた(はず?)の論文を提出していたことである。もうひとつは,この論文が剽窃したといっても,他者の論文をまるごとそっくりそのままパクった中身であったことである。

 だから,即座といっていいくらいに原著者に発見されてしまい,「盗作」したと告発されてしまった。最後に付けくわえておくと,その彼は経営学者であり,商学部で労務管理論を担当する教員であった。

 補注)大学間においては通常,研究紀要はおたがいに寄贈しあっているし,とくに同じような学部がある大学のあいだでは,そうした寄贈の相互関係はかなり密である。以上に説明してきた盗作の場合は,それこそ瞬時に,原執筆者に看破されていた。

 というのも,地方の都市圏において,双方教員がそれぞれ所属する大学2校は,かなり近い位置関係で立地していた。おそらく,盗作の被害を受けた教員のほうは,その現物の研究紀要を初めて開いてみたとき,おそらく腰が抜けるほどびっくりしたと想像する。

 なにせ,自分の論文と瓜二つ(?)のそれが,他大学の研究紀要のなかで,他者の氏名で掲載されていたのだから……。

 以上に説明した『問題の教員』がその後,どのような人生を送っていったかしらないけれども,ずいぶん間の抜けた愚かな行為をしたものである。前述の事情に戻っていえば,同僚には書かせたくなくて,自分がどうしてもなにかを書きたかったのか?

 それにしても他者の論文をそっくりそのまま盗んで自学の研究紀要に投稿したのであるから,厳密には盗用とはいえない。なんといったらいいのか,完全に密輸入をした現物を自分の論文として自学の研究紀要に投稿していた。空いた口が塞がらなかったというよりも,実になんともお粗末な出来事であった。

 だが,小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房,1975年の場合は,これが剽窃を搭載した著作だとしても,たいそうな大作であった。ともかくも,本格的に相当に手のこんだ盗作行為が,堂々と披露されていた。

 それが可能であった理由・事情は,原 朗『創作か 盗作か-「大東亜共栄圏」をめぐって』2020年を読めば理解できる。分かりやすくするために,あえて,たとえていうとしたら,原は「飼い犬に手を噛まれた」どころか,命こそ落とさなかったが,喉元の急所すれすれに牙を食らった。原は,その種の「学究として生涯にわたる大損害」を,小林英夫によって受けていた。

 本ブログ筆者が小林英夫の研究業績に関しては,いままでとくに感じていた点があった。それは,小林英夫が32歳の時に公刊した『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房,1975年以降においては,これに匹敵するか,あるいはそれ以上だと評価されていい業績が産出されていなかった点である。

 小林は同書をもって「天才だ」とまで讃美を受けていたそうである。年齢的に判断すると,小林が同書を上梓できる学究であったならば,一般的には,40歳台・50歳台にはもっとさらに充実した浩瀚な業績を挙げられうる「潜在的な研究力・学識の実力」を,もともと十二分に有していたと推察されてよい学究であった。

 ところが,小林英夫が事後に公表していく著作は,この『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』1975年(A5版で本文 545頁)に比較すると,いずれも質的には比肩する中身をもつものがなく,同書に比較するとしたら「凡作」しか生産できていかった。この事実について本ブログ筆者は,いままでは具象的には表現できなかったけれども,どうしてもすっきりしない印象を抱きつづけてきた疑問であった。

 しかしながら,今回の原 朗『創作か 盗作か-大東亜共栄圏」論をめぐって』2020年の公刊は,そうした本ブログ筆者の “薄淡くて不確かな疑念” に照明を当ててくれるものになった。

 また,原 朗は2010年代になってからようやく,小林英夫に剽窃されたと判断されてよい「自身の学問な創案」(理論枠組や研究課題のこと)を,論文のかたちではなく単著のかたちにして,あらためて公刊した。

 ◇-1 『日本戦時経済研究』東京大学出版会,2013年3月,本文A5版,491頁。 英文書名,The Japanese war economy, 1937 -1945.

 ◇-2 『満洲経済統制研究』東京大学出版会,2013年3月,本文A5版,213頁。英文書名,Japanese control of the Manchurian economy, 1931 - 1941.

 本ブログ筆者は,経済学者ではなく経営学者として教員の人生を過ごしてきたので,原 朗の研究業績を十分にかつ細密に講釈・解説しきれる立場にはない。けれども,日本と満洲の戦時体制期における企業経営史には関心をもって研究をおこなってきた関係で,それなりに関心をもって原の業績には接してきた。

 ところが,そのなかで継続して不思議に感じていたのは,原 朗はなぜ,前段のごときの自著:単行本を出版・公表していなかったのかという疑問であった。編著中心となっている彼の刊行物が多く,単著は放送大学用の教科書1冊をのぞけば,研究書の公刊は2010年を過ぎてからであった。年齢的には1939年生まれの原であったから,70歳台での公刊になっていた。

 後づけ的な都合のよい解釈となるほかないが,そこにはなにか,意味深長な背景・事情があったわけである。もちろん,そのあたりに関する経緯・物語については,原 朗『創作か 盗作か-「大東亜共栄圏」をめぐって』2020年を読了した結果,氷解したことがたくさんある。

 以上に述べたごとき,これまでは,なにかあいまいであった「小林英夫と原 朗」の関連をめぐる一定の疑念が,ようやく具体的な姿容となって可視化しえたしだいである。

 仮に,最高裁で小林英夫が三度目に勝訴しえたとしても(その後,実際にそうなったが,その点はつづく「本稿(2)」でさらに議論する),原 朗に対しては “実質的に完全に敗訴” である。その点は,学問の立場を尊重する者たちが判定を下すとしたら,誰もが確信をもって必らずいいきれる1点である。

 仮に,原が三度目に小林に敗訴したとしても,学究の立場ではいっさいなにも負けてはいない。原が自分の創説した「学問の構想と課題」を,小林にごっそりと盗まれた時点においてすでに,小林のほうが「学術研究」に従事する1人の人間としては,みずから「敗北宣言」を放っていたに等しい。

 小林英夫はいわば「勝負に勝って,相撲には負けた」人間になったとみなされて当然であった。

 およそ半世紀近くもの期間,小林から受けた仕打ちに耐えてきた原 朗に対しては同情してもしきれない。それほど気の毒な目に遭わされてきた。

 はたして,「小林英夫は『ただ勝負に勝って,真の試合に負けた』」人生をいかほど,自覚しているのか?

 日本の裁判所は最近,その体たらくぶりがめだってはげしいが,以上に記述していたきた学問の問題に関する領域の審理にあってまで,そのダメぶりを発揮しているのか?

 ともかく,早稲田大学側は一時期,自学の教員であった小林英夫「論文」1966年の剽窃行為を認定する判断を下した。

 裁判所側が最終的に三度も,小林英夫が『著書』1975年において剽窃していた原 朗「学問の理論枠組・研究課題」の存在を認定しなかったとしたら(そうなっていたが),経済学・経済史研究という学域に対して,裁判所側が応じられるだけの法廷の指揮・法曹の枠組を備えていない点だけが,いたずらにきわだたせられる歴史が記録されたことになる。

【補 記】 松村高夫・江田憲治・柳沢 遊編『満鉄の調査と研究-その「神話」と実像』青木書店,2008年をなにげなしに,今回のこの記述に関連する文献の1冊として書棚から採りだして観ていたところ,ある事実に気づいた。

 それは小林英夫を,巻末の人名索引に挙げていない点であった。本文や註記中においては,小林英夫の姓名がまったく登場しないのではなく,かなりの回数出ている。なんらかの含みを感じざるをえなかった。

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